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「#エロ」のBL小説を読む
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 いつからだろう。一人が少し寂しいと感じるようになったのは。隣に自分以外の誰かがいることに安心感を覚えるようになったのは。正確なターニングポイントはわからない。けれど、一つ、確実に言えるのは、彼と出会ってからということだ。
 狭いシングルベッドで一緒に寝るようになってから一ヶ月。朝目を覚ましたら大抵彼の方が先に起きていて、寝起きのひどい顔をした私を見て笑う。「よく寝てたな」と満足そうに言うのは、私が「絶対に緊張してぐっすり眠れない」と豪語していたことに対する嫌味を含んでいるのだろうけど、それ以上に、私が彼の隣で安眠できていることを単純に喜んでいるように見えた。
 早く目が覚めたなら先に起きるなり私を起こすなりしてくれたらいいのに、彼はいつも目覚ましのアラームが鳴るまで私のマヌケな寝顔を眺めているらしい。最初は恥ずかしいやら照れ臭いやら、とにかくやめてくれと抗議していたけれど、最近ではもう諦めた。そのうちあきてやめてくれるだろうし、何より、彼が朝のその時間を楽しんでくれているようだから、嫌がること自体憚られるようになってしまったのだ。
 その代わり、ごく稀に私の方が先に起きた時は仕返しと言わんばかりに彼の寝顔を堪能させてもらっている。彼は眉間に皺を寄せていなければ整った顔立ちだと思う。無防備であどけない表情を見ていると自然と頬が緩んでしまって、もしかして彼も毎朝こんな気持ちで私の寝顔を眺めているのだろうかと考えて一人で悶えたりして。もちろんと言うべきか、この場合、目覚めた彼が不服そうに顰めっ面をするまでがセットだ。
 つまり何が言いたいかと言うと、私は今の生活にこの上なく満足している。たぶん今以上の満足感は得られない。そう思うほどに。

「そういえば来月だっけ」
「何が」
「勝己の誕生日」
「そんなことかよ」
「何かほしいものある?」
「ねェ」
「少しは考えてよ」

 土曜日の朝。今日は二人揃ってゆっくり朝ご飯を食べることができた貴重な日である。彼は言わずもがな、プロヒーローとして忙しいし、私も事務職とはいえヒーロー事務所に勤めているから確実に土日休みというわけではないので、休みが重ならないことが多い。だからこうして日が高く上っているうちからソファに腰かけて色違いのマグカップに淹れたコーヒーを啜りながら他愛のない話をするのは、月に数回あるかないか。それでも私はやっぱり今の生活に満足している。
 彼はマグカップの中のコーヒーを一口飲んでテーブルに置くと、珍しく私の願いを聞き入れてくれたようで悩む素振りをして見せた。しかしそれは三秒にも満たない僅かな時間で終わりを告げる。

「お前」
「……勝己でもそういうベタなこと言うんだね」
「そういう意味じゃねェわ」

 てっきり「私をプレゼント」的な語尾にハートマークがつきそうなピンク色の流れをご所望なのかと思った。けれど、呆れ顔で「馬鹿か」と言ってきているということは本当に私の考えているそれとは違うのだろう。
 では、“そういう意味”じゃないと言うのなら“どういう意味”なのか。わかるようでわからない、というより、わかった気になっているけれどそれが正解なのかがわからなくてむず痒い。

「お前は俺に惚れてんだろ」
「…………まあ」
「そこは即答しろや!」
「はいはい、そうです」

 突然の尋問に渋々答えながら、彼の意図を探る。まさか彼が何の意味もなく自分を愛しているか確認するなんて小っ恥ずかしい作業をするわけがないから、この急な尋問には必ず意味があるに違いない。
 コーヒーを啜る。苦い。やっぱり砂糖を入れたらよかった。

「そもそもどういうつもりで俺と付き合ってんだよ」
「好きだからでしょ。お互いに」
「で、このままでいいと思ってんのかって訊いとんだ」
「……それはつまり?」

 好きだからでしょ。お互いに。
 私の言葉を、彼は否定しなかった。それはすなわち、彼もきちんと私のことが好きだと自覚してくれているということに他ならない。だから、このままじゃなくて次を望んでくれている。それは私も同じ。彼はそういう私の気持ちをほとんどわかっているはずなのに、最後の最後、決め手となる一言を求めてくる。ずるい人だ。私だって、その決め手となる一言がほしいのに。

「こっちが訊いてんだろーが!」
「私は今のままで満足してるけど」
「現状で満足すんな!」
「そんなこと言われても……」
「責任取れや」
「責任? 何の?」

 素直に答えたら文句を言われるし、急に何かの責任を取れと言われるし、理不尽にもほどがある。私、責任を取らないといけないようなことしたっけ? 最近の言動を振り返ってみるけれど、それらしいことは思い出せない。しかし、彼の怒りの沸点や逆鱗はよくわからないので、もしかしたら何かしら気に障るようなことをしてしまった(あるいは言ってしまった)可能性はある。
 私の問いかけに、彼は口籠もっていた。すぐさま言い返してこないということは、彼にとって言いにくいことなのだろう。それでも意を決したようにこちらに向けられた赤の眼差しは、たぶん私が今まで見てきた中で一番真剣で熱いものだった。

「俺を惚れさせた責任だ」
「……それはお互い様じゃない?」
「上等だ。一生かけて責任取ってやる」

 上がる口角。挑戦的な笑み。まるで敵を前にした時のような交戦的な表情に、どこまでもヒーローらしさが感じられない男だと笑ってしまう。
 こんな扱いづらい男が、この世界で唯一私にだけ心を許してくれている。そしてその逆もまた然り。私みたいに扱いづらい女が、この世界で唯一心を許しているのは彼だけなのだ。

「一応確認だけど、それってプロポーズのつもり?」
「勝手にそう思っとけ」
「じゃあプロポーズじゃないんだ?」
「俺と結婚しろっつったらプロポーズになんのかよ」
「そんな投げやりなプロポーズある?」

 甘ったるい雰囲気に流れることができない私たちは、このコーヒーのよう。苦くて砂糖がほしくなる。しかしコーヒーは砂糖もミルクも自分たちの匙加減で加えられるのがいいところだ。

「出かけてくる」
「どこに?」
「事務所」
「なんで? 仕事?」
「会見の準備させる」
「何の?」
「結婚の」
「…………早くない?」
「文句あンのか?」
「文句あるとかないとかそういうことじゃなくて」
「今度はスッパ抜かれる前にこっちから言ってやるって決めとんだ」

 どうやら彼は元日の交際報道を相当根に持っていたらしい。先に堂々と会見してやろうという心意気は素晴らしいと思う。しかしその前に、だ。
 私まださっきのプロポーズらしきものの返事ちゃんとしてないんですけど。断る権利ないんですか。そりゃあ断るつもりなんてなかったけど、そういう問題じゃないというか、結婚しない流れは絶対に有り得ないという流れで進めていくあたり強引すぎるというかなんというか。
 早々に身支度を整えて出かけようとしている彼を慌てて追いかける。何だまだ文句があるのかと言いたげな彼に「私も行く」と言えば、僅かに驚きを見せた後「わかった」と機嫌よさそうな声音が返ってきた。なんだ、嬉しいなら嬉しいって言えばいいのに。まあ彼がそんなこと素直に言う性格じゃないことぐらいわかっているけれど。
 私が出かける準備をしている間に、彼は電話をかけていた。おそらく事務所にだろう。「詳しいことは後で話す」と電話を一方的に切っていたけれど大丈夫だろうか。交際報道をされた時から彼の事務所には迷惑をかけっぱなしで非常に申し訳ない。

「事務所の人、何って?」
「覚えてねェ」
「聞いてなかったんでしょ」
「ンなことより準備できたかよ」
「うん」

 三月の空気はまだ少し肌寒いけれど、今日は随分と穏やかな気候だ。お気に入りのパンプスを履くにはちょうどいい。
 そういえばこのパンプスは彼とのお見合いの日にも履いて行ったんだっけ。気乗りしないお見合いも、お気に入りのパンプスを履いて行ったら少しは気分が上向くんじゃないかと思って足を滑り込ませたのを思い出す。まさかこのパンプスを、気乗りしないお見合いで出会った男との結婚会見の打ち合わせに行く時にも履くことになるなんて夢にも思わなかったけれど、もしかしたらこのパンプスは幸せへと導いてくれる魔法の靴なのかもしれない。だとしたら、今日はとびっきり幸せな日になること間違いなしだ。

「事務所より先にお前の実家行くぞ」
「勝己の実家に行った後でね」
「うちはほっとけ」
「ちゃんと挨拶したいの。これから私も爆豪家の一員になるんだから」
「……わーったよ」
「ねぇ、服着替えてきていい?」

 私の一言でお互いのラフな私服を見て、家に逆戻り。急なこととはいえ大切なご挨拶に行くのだからそれなりに小綺麗な服を……と思い、遊び心を混じえておよそ一年前のお見合いの時と全く同じ服装にしてみたら、彼は目を丸くさせた。どうやら覚えていたらしい。大した記憶力である。
 そういえば彼のスーツ姿は数えるほどしか見たことがないけれど、今着ているスーツには見覚えがあった。それに、きっちりネクタイをしているところはたった二回しかお目にかかったことがない。私の実家に挨拶に来た時と、お見合いの時。そして今身に付けているネクタイは、間違いなくお見合いの時につけていたものと同じだ。オレンジと黒。彼のヒーローコスチュームと同じ色合いだったからよく覚えている。

「あの日と同じだね」
「わざとかよ」
「なんとなく思い出しちゃって」
「……俺もだ」

 途端、コーヒーの中に角砂糖が二つ三つと放り込まれたみたいな空気になった。今度こそ、家を出る。私たちの間には、あと数時間後には世間を騒がせる会見をしているかもしれないなんて想像もできないほど穏やかな空気が流れていて、ちょっぴり居心地が悪い。
 一人で生きていけばいいと思っていたはずなのに二人がいいと思うようになって、二人で生きていくなら相手は彼しか有り得ないと思うようになって、それが愛だと知って。私はまるで別人に生まれ変わったかのように変貌を遂げた。彼も私と出会ったことで、少しでもいい方向に変わったと感じてくれていたらいいなあと思う。
 冷たい風に、ほんの少し暖かさが感じられる三月某日。私たちが出会ったあの季節は、もうすぐそこまでやって来ている。


砂糖たっぷりのコーヒーふたつ