「お邪魔します……」
「ん」
俺は女が後ろについて来ていることを確認し、先に家の中へと歩みを進めた。玄関の扉が静かに閉まり、控えめな足音が聞こえる。足取りが思っていたよりもしっかりしていて安心したが、身体の方よりも心の方が痛手を負っていることは間違いないから、時間が経ってから体調が崩れる可能性も考えておかなければならない。
本来なら事件の後、女は事情聴取のために警察署に行かなければならないのだが、精神的な部分を考慮して明日の朝に改めることとなった。それはまあ、賢明な判断だと思う。
たしか女の父親は警察のお偉いさんだったはずだが、女のところに連絡がきた様子はない。無事であることは現場の警察官を通して伝わっているはずだが、親なら電話の一本ぐらい寄越すものではないだろうか。妙な違和感を覚えつつも、今、女の家庭事情に首を突っ込む必要はないと判断し、特にそこらへんの話題には触れなかった。
女が何者かに誘拐されたので力を貸してほしい、と。事務所を通して警察から依頼があった時には、今までこなしてきたどんな誘拐事件の時よりも肝が冷えた。
女のことだ。どうせ「こうなったのは自分のせいだ」「殺されても仕方がない」とくだらないことを考え、最悪の場合、自分の命を投げ打った方が話が早いと、簡単に死を選択するかもしれない。
気付いたら俺は、現場に急行していた。誘拐犯がどんな“個性”なのかわからないから慎重に、と言われたが、慎重に動いている間に女の命が脅かされる危険性がある。そう思ったら、命令など聞いていられなかった。
結果的に俺の判断は正しかったわけだが、それは結果論。そんなこと、俺もわかっている。だから事務所からのお咎めの電話を受けた時も反論はしなかった。
緊急事態とはいえ「爆豪」と呼ばれたことには驚かされたが、手首を拘束していた縄を解いた後、勢いよく飛び付かれた時には、更に驚かされた。女がそういうことをするタイプだとは思っていなかったからだ。
しかし、冷静になって考えてみれば当然かもしれない。もう少しで死ぬところだった。その危機からギリギリのところで脱却できたのだ。押し寄せる不安からの解放に、誰かに縋り付きたくなるのは人間らしい反応だったと言えるだろう。
とはいえ、この俺が引き剥がさずに女を受け止めたまま動かなかったのは、らしくない行動だったと思う。相手が女じゃなかったら間違いなく引き剥がしていた。そもそも、こんなに必死に、血相を変えてまで急行はしていなかったと思う。この矛盾が何を意味するのか。なんとなくわかってはいるが、そう簡単に認められるものではない。
女が落ち着いた後「ごめん」と言いながら離れて俯いているのを見て、このまま消えてしまいそうだと思った。そのせいで衝動的に自分の方に引き寄せそうになった手を、慌てて足を拘束している縄へと伸ばしたことに、女は気付いていないはずだ。気付かれていたら、困る。
「送る」
「……大丈夫、」
「じゃねーだろが。どう見ても」
「警察の人にお願いするから」
「なんで」
「なんでって……」
この俺が直々に送ってやると言っているのになぜ断るのか。その理由が全くわからなかった。しかし、女の次の言葉を聞いて察する。
「私と二人で歩いてるところを見られたら、また、ほら……」
思い出されるのは、およそ一ヶ月前の熱愛報道。漸くほとぼりがさめてきたところで俺とのツーショットを撮られたら、更に面倒臭いことになるのは明らかだろう。女はそれを気にしているのだ。
だが、俺からしてみればそんなのはどうでもいいことだった。確かに報道陣に囲まれるのは死ぬほど嫌いでうざったいが、熱愛報道のこと自体を周りの奴らにどう言われても勝手に言っとけと思うぐらいだ。
「言いたいヤツには言わせときゃいい」
「そういうわけにはいかないよ」
「なんで」
「またなんでって……爆豪はヒーローだからイメージって大切でしょう?」
「俺に女がいるぐらいでぎゃあぎゃあ言うようなヤツらのこといちいち気にしてどーすんだ」
「前にも訊いたけど、なんで否定しないの? 付き合ってるわけじゃない、って」
訊かれて返答に詰まったのを悟られぬよう、俺はしゃがみ込んでいた体勢から立ち上がった。女はよくも悪くもこざっぱりした性格だから、何度もしつこく同じ質問をしてくることはないと思うが、返答を気にしているのは伝わってくる。
女とは付き合っていない。報道されているような関係ではない。それは事実だ。だから女の指摘通り「勝手にデマ流してんじゃねえ!」と一蹴したら、クソうぜえ報道陣を文字通り蹴散らせる。しかし俺の頭には、否定するという選択肢など存在しなかった。理由は、たぶん、なかなか認められない“それ”のせいだ。
「テメェはそれで良いんか」
いつかも同じように投げかけたような気がするが、それは何の話題の時だっただろうか。とりあえず女が俺と正反対の意見をぶつけてきた時だとは思うが、振り返ってみればこの女と同じ意見だったことはないに等しいから、いつのことだったか明確には思い出せない。
「良いも悪いも、付き合ってないのは事実だし、爆豪にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないでしょう?」
「俺がいつ迷惑だっつった?」
「それは……言われてないけど」
「てめえはどうしてェのかって訊いとんだ」
そこで女はゆっくり立ち上がって沈黙した。例えばまた熱愛報道されたとして、女はそれを俺に否定してほしいと思っているのだろうか。付き合っていない、何の関係もないというのが事実だとしても、それを事実だと言うことに何とも思わないのだろうか。
こんな風に采配を相手に委ねるのは、らしくないと自覚している。が、不本意なことに、この女がかかわると俺らしさなんてものは突然どこかに消え失せてしまうのだ。
「言いたくない」
「は?」
「言ったら、終わっちゃうかもしれないから」
何が、なんて野暮なことは訊かなかった。女は勘違いしている。というより、気付いていない。女が俺を狂わせているということに。
もしもまた同じように報道されたらどうしてほしいか。女は、否定してくれとは言わなかった。否定してくれと答えるのが「正解」だとわかっているにもかかわらず、だ。つまり女は、俺との関係を勘違いされたままで良いと思っている。それは俺が考えていることと、俺が望んでいることと、ほぼ同じではないだろうか。
お互い明確に言葉にはしていない。そして女の方は、おそらく俺の思考を読み切れていない。だから「終わるかもしれない」などとふざけたことをぬかすのだ。このままでいいわけがない。
「うちに来い」
「え? なんで?」
「腹へった」
「は?」
「今日救けてやった分の礼しろや」
理由は何でもよかった。女を救けたのは、俺がヒーローとしてやるべきことだったから。そして俺がそうするべきだと思ったからだ。救けてやった礼なんて、本来なら絶対に必要ない。
しかし女を逃さぬよう引き止めるためには、こういう言い方をするしかなかった。わざと恩着せがましい言い方をしたら、律儀な女は必ず「お礼をしなければならない」と思うだろうから。
予想は的中。俺の言葉をどう捉えたのかは知らないが、女は渋々ながらも俺の家までやって来た。そして今に至る。
家の中に入って来た女は、適当に座る場所もあるというのにリビングの隅っこに立ち尽くしたまま、室内をきょろきょろと見回していた。リビングに無造作に置かれているのは、ヒーロー雑誌と登山の雑誌、幾つかの筋トレ道具ぐらいで、何も珍しいものはない。
見られて困るものももちろんないし、時間が経てば勝手にくつろぎ始めるだろうと思い寝室の方へ着替えに行った俺は、リビングに戻るなり「何か作る?」と尋ねてきた女の言葉に、当初の目的を思い出した。そういえば「助けてやった礼に飯を用意しろ」と言って連れて来たんだった。
「まともに作れんのかよ」
「たぶん人並み程度なら?」
「……じゃあ麻婆豆腐」
「え?」
「麻婆豆腐! 作れンだろそれぐらい!」
「作れるけど、もっとこう、肉!! みたいな料理をリクエストされるのかなって思ってたから意外で」
「どんな料理だよ」
女の中の俺のイメージが意味不明すぎる。しかし女は「そういえば辛いものよく食べてたよね」と、過去に数える程度しか食事を共にしていないにもかかわらず、さらりと俺の好みを言い当てた。よく見てんな、と感心すると同時に、妙に落ち着きをなくして弾みだす心臓が気持ち悪い。
俺はこの女の好みなんてわかりゃしないのに、女は俺の好みを知っている。つまり女は、俺のことをきちんと知ろうとしていたということだと思う。それがむず痒くて、歯痒くて、今までの時間で俺はこの女の何を見ていたのかと腹が立って。感情が上手くコントロールできない。それにもまた腹が立つ。もうガキじゃねーだろうが、と。
自分の家の台所に、女が立って料理をしている。不思議な光景だが、悪くない。冷蔵庫を開いて良いか、皿はどれを使ったら良いか、いちいち確認してくる女に返事をしつつ、意外と手際よく作業を進める手元を時々見遣る。
学生時代にクラスの連中と用意した飯が手料理に換算されるなら話は別だが、特定の誰かの手料理というのは今まで食べたことがない。あっという間に出来上がったそれは、見た目は普通、味はそこそこイケるというところか。警察のお偉いさんのところの箱入り娘にしては所帯染みていて、それが逆に好印象だった。
食事が終わり、置いとけと言ったのに勝手に食器洗いと片付けまで済ませた女は、これでお役御免ですよねと言わんばかりに「じゃあ私はこれで」と家を出ようとする。このまま帰したらここまで連れて来た意味がなくなってしまう。だからと言ってどう引き止めようかと悩む時間もなく、俺が口にしたのは、
「で?」
「なに? で? って?」
「てめえはどうしてェのかって質問の答え、まだ聞いてねえぞ」
苦し紛れの言葉はどうにか上手く繋がった。突然本題を振られ俺を見て固まる女は、ここに来た時点でこうなることを予想していなかったのだろうか。それほど鈍感な女とは思えないが、もしかしたらこのまま逃げられると思っていたのかもしれない。
女は何度も俺との関係を断ち切ろうとした。終わりを望んでいた。俺はその度に、拒み続けてきた。それがなぜなのか、ひとつも察せないのだろうか。もしかしたら女は、俺が思っている以上に鈍感なのかもしれない。
あれだけ終わりを望んでいた女が、今、俺とのこの奇妙な関係が終わることを恐れている。その理由は。女の口から聞くまで、絶対に帰してやらない。