私が目を覚ましたのは、汚くて薄暗い倉庫みたいなところだった。……というのを想像していたのだけれど、どうやらそれはドラマの中だけでのできすぎた設定だったらしい。実際に私が目を覚ましたのは、綺麗なホテルの一室と思われるところだった。さすがに両手足は縄のようなもので縛られているけれど、それほど劣悪な環境におかれていないせいか、幾分か不安は和らいでいる。
あれからどれぐらい時間が経ったのか、ここが襲われた場所からどれぐらい離れているのか、私には当然何もわからない。わかっていることがあるとするならば、目の前でソファに腰かけている男は私に何らかの恨みを持っているということ。ただそれだけだ。
男と目が合う。何度視線を合わせても、男の顔には見覚えがない。だからもちろん名前もわからないし、どこでどんな接点があって私に恨みをもっているのかも定かではなかった。男の言う「あの日」がいつなのかも。
しかし、恨まれる理由を冷静に考えて真っ先に思い浮かぶのは、中学生の頃に起こった忌々しいオールフォーワン絡みの事件のこと。実際、それに関する恨みである可能性が最も高いだろう。
「やっとお目覚めか」
「何が目的なの?」
呑気に世間話を続けたところで男が心を開くとは思えないと判断した私は、直球で質問をぶつける。答えてもらえる確証はなかった。けれど、私のことが相当憎いのだろう。男はあからさまに顔を歪めて、私を責めるように答えを吐き出してくれた。
「本当におめでたい女だな。自分のせいで犠牲になった人間がいることも忘れてのうのうと生きやがって」
その言葉で、予想は確信に変わる。やはり男は、私の中学時代に起こったオールフォーワン絡みの事件の関係者に違いない。
いつかはこんな日が来ると思っていた。だから、いつでも受け入れる覚悟をしていたつもりだった。しかし、いざその時が訪れてみると、なかなか受け入れられないものである。
男は捲し立てるように私を恨んでいる理由を吐き出していく。自分の父親は警察官だったこと、その父親は例の事件の時に私を守るために殉職したこと、父親がいなくなったことで母親が体調を崩し父親の後を追うように亡くなってしまったこと、そのせいで三人兄弟は離れ離れに暮らさなければならなくなったこと。
「お前にとっては俺の親父も他に殉職した警察官も自分を守るためのコマの一つにすぎなかったんだろうけどなあ? 俺たち家族にとっては唯一無二の親父だったんだよ!」
「……ごめんなさい」
謝って許されることではないとわかっていても、他に言葉が見つからなかった。彼の言ったことは事実と異なっている。私を守ってくれた人たちのことをコマだと思ったことは一度もないし、その存在を忘れたこともない。今でも時々夢を見て後悔することがある。あの時、私が自分の“個性”を差し出していれば、余計な犠牲者を出さなくて済んだのではないか、と。
しかし「そんなことは思っていない」「ずっと過去を引き摺って生きてきた」と本当のことを伝えたとしても、この状況では信じてもらえないどころか、逆効果であることは明らかだ。だから現状において私にできるのは、ひたすら謝罪することだけなのである。
「謝ってすむとは思ってない。けど、私には謝ることしかできないから……ごめんなさい」
「適当に謝ってればいつかは許されると思ってんだろ? ふざけんじゃねぇぞ! 俺たち家族をめちゃくちゃにしておいて、そう簡単に許されると思うなよ!」
どうやら謝ることも逆効果だったらしく、男はあきらかに興奮していた。今まで抑え込んできた感情が、行き場をなくして暴走しているように見える。刃物までちらつかせているから、これはいよいよまずい状況かもしれない。私は明確な死が近付いていることに恐怖した。
彼の激昂はごもっともだ。恨まれてしまっても、この場で殺されてしまっても、仕方がない。私はそれだけのことをした。今までの私なら、そうやって、この状況を報いとして受け入れていたかもしれない。
しかし私は彼に、爆豪勝己という男に出会ってしまった。これからの未来に希望を持ちたくなってしまった。もう少し生きていたいと思うようになってしまった。だから、今ここで死を受け入れることは、どうしてもできなかった。
「助けて、爆豪……ッ!」
「呼ぶのが遅ェ!!!」
夢かと思った。夢じゃなければ幻覚か幻想か幻聴か、それらと同等の作用をもつ“個性”による何かの作用かと思った。しかし、夢でも幻でもそれに類似した何かでもなく、彼は巻き起こる爆風とともに颯爽と私の前に現れたのだ。
派手な音は窓ガラスが割れる音だったのだろう。床にはガラスが散乱している。私をかばうように男の前に立ちはだかっている彼の顔を盗み見れば、横顔でニヤリと口角を上げられた。こんな状況なのに、その表情を見ただけで気持ちが落ち着くのはなぜだろう。いや、そんなことよりも、
「なんでここに……」
「お前が緊急コール押したんだろ」
「ああ……ちゃんと押せてたんだ……」
「警察から要請があってGPS辿って来た」
「そっか、」
ありがとう、と言おうとしたのに、その顔と、大きくて広い背中を改めて認識した瞬間、私は言葉を詰まらせてしまった。柄にもなく視界まで滲んできてしまって、みっともないことこの上ない。
悔しいけれど、私は彼が助けに来てくれて安心した。ホテルでの事件の時にも思ったことだけれど、今日はあの時の比ではなく、彼が途轍もなくカッコ良いヒーローに見える。そう言ったら彼は「今更かよ」と吐き捨てるだろうけれど。
「邪魔するな! その女のせいで俺の親父は死んだ! 俺はその女に復讐する!」
「逆恨みかよ。くだらねェな」
「お前に何がわかる……? その女は死んで当然だ。あの時死ぬのは親父じゃなくてその女のはずだったんだからな!」
「……それ以上言ったら俺がテメェをブッ殺すぞ」
地を這うように低い声から、滲み出るような怒りを感じた。怒鳴るわけでもなく唸るように響く声音に、自分が言われたわけでもないのに背筋が凍る。その迫力に、男は怯んで口を噤んだ。
男の言い分はごもっともなのに、彼は私を庇うみたいな言動を取る。それはヒーローだからなのか、それともそれ以外の理由があってなのか、私にはわからない。
「テメェの親父が復讐してくれって頼んだかよ」
「なんだと!?」
「テメェの親父の仕事はコイツを守ることだった。その仕事をやり切るために命張ったんだろうが」
「それは綺麗事だ!」
「綺麗事だろうがなんだろうが、それが事実だ。今コイツが生きてんのは、テメェの親父が与えられた仕事を全うしたってことだろうが」
綺麗事。確かにそうだと思う。けれども彼の言葉はやけに重みがあって、綺麗事ではない真実味を帯びていた。それは私が、彼が思ってもいないことを言える人じゃないとわかっているから、そう感じているだけかもしれない。
男が震える。怒りではなく、嘆きによって。どうやら彼の言葉は私だけでなく彼にもきちんと響いてくれたらしい。きっと、自分の父親がそれ相応の覚悟をもって仕事にあたっていたことも、私を恨んでもどうにもならないことも、頭では理解していたのだろう。ただずっと、消化できなかったに違いない。だから誰かにぶつけるしかなかったのだ。その気持ちは、なんとなく、わかるような気がする。
彼は男が戦意を失ったことを確認すると手際よく拘束し、どこかに連絡を入れた。すぐに警察がやって来たところを見ると、あらかじめそういう段取りをしていたのだろう。男を警察に引き渡した彼が近付いてきて、これもまた手際よく、へたり込んでいる私の拘束を解きにかかる。
「ばくごう、」
「今解いてやってんだろーが」
「爆豪……」
「俺の名前はこんな時じゃねーと呼べねェかよ」
「爆豪」
「だから、」
「いつかこんな日が来るんじゃないかって思ってたの」
彼の名前なんて今まで一度も呼んだことがなかったくせに、一度呼び始めたら何度でも呼びたくなって、絶対に「うぜえ」と思われているだろうなとわかっていても止められなくて、そうして名前を呼んでいるうちに自分の感情を抑え込むことができなくなって。
気付いたら私は全てをぶちまけていた。目からぽろぽろと溢れていく涙とともに。
「恨まれても憎まれても殺されても仕方ないって、報いを受けるべきだって、思ってた」
「テメェが報いを受ける理由は何一つねえだろ」
「あるよ。だって、」
「あの野郎の親父が死んだのはお前のせいじゃねえだろが」
私は、いつか誰かにそう言ってほしかっただけなのかもしれない。自分を責めることで「お前のせいじゃない」って、気休めではなく心から、誰かに守ってもらいたかったのかもしれない。
私は本来、卑怯で臆病で、それを隠すためだけに虚勢を張り続けていた。強がって、全てを諦めているフリをして、何にも興味がない素振りをして、そうすることでしか自分を守れなかった。そんな頑なな私の殻を、彼は緩やかに暴いていく。
「死んでも良いって思ってたはずなのに、」
「馬鹿かよ」
「私さっき、死にたくないって思ってた」
「正常だな」
「怖かった……ッ」
「……悪かった」
どうして助けに来てくれた彼が謝るのか、わからない。しかしその理由を尋ねる心の余裕なんて私にはなくて、足の拘束がまだ取れていないにもかかわらず、手の拘束が取れるや否や、私は衝動的に彼に抱き付いてしまっていた。
「救けに来てくれて、ありがとう」
情けなく震える声。彼は私に突然抱きつかれたにもかかわらずびくともしない。そして引き剥がすことなく、小さく「これが俺の仕事だ」と言った。彼らしい一言すぎて胸が熱くなって、それに比例して目頭からこぼれていく涙の量が増える。
物心ついてからというもの、こんなにもみっともない姿を人に見せたことは一度もない。親の前ですらも、だ。それなのに私はどうして彼に縋り付いているのか。こんなにも自分を曝け出しているのか。理由はもう、わかりきっている。