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「#寸止め」のBL小説を読む
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 彼との熱愛報道から早一ヶ月が経過しようとしていた。夏真っ盛りの八月。じりじりと焼けつくような暑さの中、私は一人でふらりと買い物に出かけていた。
 彼との熱愛報道は日を追うごとに沈静化していって、今ではもう全く取り沙汰されなくなっている。世間は何の進展もない情報には興味を示さない。だから、新たなニュースがない以上、落ち着かざるを得ないのだろう。一ヶ月程度で落ち着いて良かったと、私は人知れずホッと胸を撫で下ろしている。
 あの電話以降、彼とは何のやり取りもしていなかった。私から連絡するのはどうかなという状況が続いていたし、連絡するにしても用件がない。「元気?」なんてどの口が言うんだって感じだろうし、かといって改まって「その節はご迷惑をおかけ致しました」と連絡するのも違うような気がする。そうこうしているうちに夏休みに突入してしまったものだから、私はいよいよ彼に連絡するタイミングを失ってしまった。
 夏休み期間中、基本的にヒーローたちは忙しい。夏のレジャーにおいて、災害はつきもの。海でも山でも、何かが起こると、警察や消防、そしてヒーローが駆り出されるのだ。もちろん、ヴィランの制圧という普段通りの仕事もこなしながらになるわけだから、忙しくなるのは当然である。
 恐らく彼も例外なく、忙しく働いていることだろう。というか、働いているのを知っている。ニュースでちらほら彼の活躍を見かけるから。人命救助や災害支援は彼があまり好きそうじゃない仕事だけれど、なんだかんだ言いながらソツなくこなしているに違いない。ただでさえ連絡し難い状況だというのに、こんな忙しい時期に連絡するのはどうにも憚られる。
 このまま私たちは疎遠になり、お見合いした記憶すら薄れてしまうのだろうか。それでいいと思っている自分と、それを受け入れられない自分が中途半端にせめぎ合う。しかし、どれだけ私が一人でせめぎ合っていようとも、これからどうなるかは全て彼次第だと思っている。

 それにしても暑い。このまま太陽の熱で溶けてしまいそうだと思うほど暑い。夏が暑いのは当然のことだけれど、今年は去年より暑いのではないだろうか。……って、たぶん毎年同じことを思っているんだろうな。
 そんなくだらないことを考えながら、コンビニでアイスか冷たい飲み物でも買おうかと思っている時だった。正面から一人、誰かがツカツカと歩み寄ってきた。
 この暑い季節に全身真っ黒なコーディネート。目深にかぶっている帽子のせいで、顔は見えない。背格好や体格からして男の人だろうという予測はできたけれど、誰なのかは全くわからなかった。
 一目散に私めがけて歩み寄ってきたということは知り合いだろうか。私の行く手を阻むように立ち塞がるから無視することもできず、おそるおそる「あの……?」と声をかけてみる。
 すると、その人が顔を上げた。やはり男性だ。しかし、漸く視線を交えても、残念ながらその人のことは全く記憶になかった。しかし相手の方は、私のことを知っているらしい。

「やっと会えた」
「えっと……すみません、どこかでお会いしたことがありますか……?」

 無礼を承知で「あなたのことは記憶にありません」というニュアンスを含めた言い方をすると、目の前の男性はあからさまに怒気を滲ませた。失礼なことを言ったから怒ってしまったのだろうか。
 申し訳程度にもう一度「すみません」と言っておく。しかしその男性に、私の謝罪の声は聞こえていないようだった。

「そうだよなあ! お前は覚えてないよなあ!」
「え、っ!」

 あまりに突然のことすぎて反応が遅れてしまった。手首を掴まれ、その力の強さに表情が歪む。
 この人は私に明らかな敵意を向けてきている。恨まれる理由なら沢山あるから、敵意を向けられること自体にはそれほど驚かない。しかし、まさかこんな白昼堂々仕掛けてくるなんて思わなかった。
 事態を冷静に判断する。大丈夫。私に“個性”を使った攻撃は通用しない。体術にもそこそこ心得があるから、最悪、どうにかしてダッシュで逃げればいい。
 今ここで大声を出して助けを呼ぶことも考えたけれど、掴まれていた手首の力が緩んだので、そこまでしなくても一人で対処できそうだ。私はできるだけ穏便にこの場を切り抜けられる方法を模索する。

「私があなたに何かしたの?」
「みょうじなまえ。俺はお前をずっと見ていた」
「ずっと?」
「あの日からずっとだ!」

 あの日からずっと、と言われても、私にはこの男性の言う「あの日」がわからない。しかし、興奮している相手に対してそれを素直に伝えたら逆効果であることは、火を見るよりも明らかだ。
 この人は私のフルネームを知っている。ということは、本当に「ずっと」私を見ていたのだろう。いつから、なんて考えるのはおぞましいからやめた。今考えるべきなのはそんなことじゃない。
 私は逃げる手段を最優先に考えることにした。誰か助けを呼べないかとも考えたけれど、この男性を目の前にしてポケットからスマホを取り出すことはできない。緊急コールなら押せるだろうか。
 掴まれている方の手とは逆の手を、そっとズボンのポケットに忍び込ませる。じりじり。焼けつくような暑さによるものとは別の汗が背中を伝う。
 一瞬。ほんの一瞬、ポケットにちらりと視線を送った。その選択が間違いだったのだろう。その一瞬の隙に、目の前に立っていたはずの男が消えた。と思ったら、背後から口元を布で覆われ身体を拘束される。しまった、と思った時にはもう遅かった。
 今何が起こった? 消えたと思ったら拘束されていた。ほんの一瞬だったのに。この男の“個性”が関係していることは間違いないけれど、だとしたらどんな“個性”だろうか?
 考えたって仕方ないし、薄らいでいく意識の中ではまともに考察することなどできるはずもなく。私は辛うじてポケットの中に突っ込んだままだった手でスマホの画面をタップした。緊急コール。上手くボタンが押せているのかはわからないけれど、何かあった時のためにと父が持たせてくれていたスマホの機能が役に立つかもしれない。
 もし上手く押せていなかったらどうなるだろうか。おそらく父と母が、私が帰ってこないことに気付いてくれるまで、異変に気付いてもらえないだろう。それまで私は無事でいられるだろうか。もしかしたら無理かもしれないな。

「これは復讐だ」

 男の声が、唸るように低く私の鼓膜を揺らした。
 復讐。そうか。遂に自分が過去に犯した罪に対する報いを受ける時が来たのか。それなら仕方がない……なんて、納得することはできなかった。
 いつかはこんな日が来るのではないかと懸念していたし、その日が来たら甘んじて受け入れようと思っていた。けれど、実際にその時が来るとそう簡単には受け入れられなかった。自分がどうなろうと、どうでも良いと思っていたはずなのに。
 自分が「たすけて」と誰かに助けを求める日がくるなんて、しかもそれを、父でも母でもなく彼のことを思い浮かべながら願ってしまうなんて、思いも寄らなかった。けれど、これが今の自分なのだ。
 ねえ爆豪。そういえば私、あなたの名前を呼んだことなかったよね。あなたも、私の名前を呼んでくれたことなかったよね。そもそも私の名前なんて覚えてないかなあ。
 次にもし会うことができたら、爆豪、って呼んでみてもいい? 私の名前も呼んで、なんて我儘は言わないから。


ラメントは早すぎる