Gの再考
「……それ、どうしたの……?」
「うるせえ! 見んな!」
「イメチェン? キャラ変?」
「違ェわ!!」
「笑っていい?」
「もう顔が笑ってんだよ!」
「ごめん、堪えてたつもりなんだけど…ふ、ふふっ…あはは!」
登校時に見かけた見知らぬ後ろ姿の雄英生。けれどもその歩き方には見覚えがありすぎたから、まさかと思って小走りで駆け寄ってみた。そして私は、トレードマークとも言えるツンツンヘアーを封印したきっちり優等生ヘアーの彼を、この目で確認することとなったわけである。
職場体験が終わった翌日にこれということは、体験先で何かあったのだろう。あの爆豪勝己が大人しく髪をセットされている光景は、とてもじゃないが想像できない。しかし今現実に、目の前の彼の髪は八・二分けで綺麗にまとまっているのだから、誰かがセットしたのは間違いないはずだ。
普段の彼とは全く違うフォルム。髪型だけなら、お坊ちゃん、という雰囲気が漂っているけれど、その顔は凶暴極まりなく今にも噛み付いてきそうで、お坊ちゃんからはほど遠い。これ以上笑ったら本当に噛み付かれるかもしれないとさえ思ったけれど、込み上げてくる笑いは止めようがなかった。だって、どう考えたって面白すぎる。
「ふふっ…ははっ…写真撮っていい?」
「ンなことしたら殺す!」
「悲しい時とか悩んでる時に見たら元気をもらえるような気がするから」
「てめェ…本気で殺されたいんか…?」
「ごめんごめん、その髪型も似合ってるよ」
「似合ってたまるか!」
これはもう何を言っても駄目だなと判断した私は、もう一度彼の顔全体を見てからひとしきり笑わせてもらうことで手を打ち、写真は諦めることにした。
「職場体験、どこの事務所に行ってたんだっけ?」
「ベストジーニスト」
「ああ…なるほど」
彼は「行く場所間違えた」と吐き捨てた。きっと髪型云々の問題だけでなく、満足するような体験ができなかった、という意味で言ったのだろう。その顔はいつにも増してイラついていた。
私はそんな彼の顔を横目で見遣りながら、バレない程度に小さく息を吐く。彼は当たり前のことながらいつも通りだ。違うのは私の方だけ。
会話はできるし笑うことも可能。けれども、私個人としては全てに違和感があった。並んで歩くのが少し久し振りだからなのか、彼の髪型がいつもと違うからなのか、はたまた別の何かによるものか。何にせよ、私の胸は妙にそわそわしていて落ち着かなかった。こんなことは初めてだ。
理由を考えてみる。そうして辿り着いたのは、先日の明ちゃんとの会話。彼とデクくんを全く同じようにサポートしたいと思っているのか。私が創るものは誰をイメージしているのか。そして二人の優劣は。
考えたこともなかった。というか、無意識のうちに考えないようにしていたのかもしれない。私にとってはどちらも大切な存在。それは揺るがぬ事実。けれどもその大切さの内容自体はきっと違う。
分かってはいた。しかしそれを口で説明するのはとても難しいことだから、私はいつも「二人とも同じように大切だ」と言い続けてきたのだ。そうしていればどちらも失わず、いつまでも微温湯に浸かっているみたいに心地良い関係でいられるから。卑怯な考え方だ。
「……てめーは」
「うん?」
「何かあったんかよ」
「え? なんで?」
「いつもよりうるさくねえ」
「失礼な。私はいつもそんなにうるさくありません」
「そういう意味じゃねェわ」
「じゃあどういう意味?」
何かあったのかと訊かれてどきりとしてしまった。彼は聡い。そして意外にも人のことをよく見ている。そういえば昔から、くだらない小さな隠し事でさえも、彼には的確に指摘されていたなあと今更のように思い出す。
彼は私の質問に何と答えるべきか、ほんの少しだけ迷っているようだった。彼が言葉選びをするなんて珍しい。ベストジーニストのところで、社会性というものでも身に付けてきたのだろうか。だとしたらそれは喜ばしいことなのかもしれないけれど、同時にちょっぴり寂しい気持ちにもなった。彼の中で私の知らない一面が構築されると、途端に遠くに行ってしまったような気分になるからだ。
これは私のエゴでしかない。彼のことを一番知っているのは私でありたい、なんて。いつからこんな気持ちを抱いていたのだろう。これは明らかに幼馴染の一線を超えてしまっている。ダメだ。元に戻らなければ。
「威勢がねえ」
「威勢?」
「人の髪型見て散々笑ったくせに元気出てねェじゃねえか」
「…ごめん?」
「謝るつもりがねえなら謝んな」
その場凌ぎの言葉が彼に通用しないことは分かりきっていたはずなのに、上手く誤魔化しきれずに口籠る。
威勢がない。その表現が合っているのかどうかは別として、私の精神状態がいつもと同じでないことは間違いなかった。彼はそれに確実に気付いているということなのだろう。本当に見かけによらず鋭い男である。
「そもそも謝られるようなことされた覚えもねェわ」
「その髪型見て笑ったのは謝らなくてオッケー?」
「それは土下座して謝れ」
「ふふ…かっちゃんは優しいよね」
「はァ?」
ぽろりと口から飛び出した言葉は、ずっと前から思っていたことだった。けれどもたぶん言ったことはない。これが初めて。
言うつもりはなかった。もっと言うなら、一生彼に伝えることなく墓に埋まるつもりだった。「優しい」というのは彼にとって褒め言葉ではないと分かっていたから。
彼は案の定、非常に不愉快そうな声を落とした。しかし、ちらりと窺った表情はそれほど歪んでおらず、驚いてはいるけれど嫌そうではないというか、むしろ、
「嬉しそう…?」
「な…てめ、ニヤニヤしてんじゃねーよ!」
「否定しないんだ」
「うるっせェ!」
意外だった。意外すぎて笑ってしまうほど。それは彼の髪型が面白いからとか似合わなすぎてとか、そういう理由ではなく、今まで見せたことのない彼の一面を恐らく私にだけ見せてくれたということが嬉しくて。
ずっと一緒にいたのに、知らなかった。彼がどんな言葉で嫌な顔をするのか。どんな一言で嬉しいと思ってくれるのか。今更だ。今更だけれど、もっと知りたいと思った。彼のことを。
そう伝えたら、彼はどんな顔をするだろうか。今なら言ってしまえそうな気がした。だから言おうと思った。けれど、私から離れるためか、彼はずんずんと歩調を早めてしまったから、溢れかけた言葉は喉の奥に飲み込まれていく。呼べば立ち止まって振り返ってくれそうな気はしたけれど、そこまでして伝える勇気はない。
私の歩く速度は変わらないけれど彼のスピードは速くなっているから、距離が開いていくのは必然。近付いたと思ったら離れていく。違う。近付きたいと思ったら彼が逃げていく。だから私達の距離はずっと埋まらない。
これがデクくんだったら。そう思ってしまう自分が、デクくんを逃げ道にしすぎているという自覚はある。「優しい」デクくん。彼とは全く違う「優しさ」を持っている人。彼より分かりやすくて上手に「優しさ」を振り撒ける人。デクくんだったら、デクくんだったら? どうだというのだろう。
「オイ」
「!」
「なにチンタラ歩いとんだ」
彼が振り返っていた。呼んでもいないのに立ち止まって、こちらを見ている。まるで私が来るのを待ってくれているみたいに。待つことなんて、彼が最も嫌いなことのはずだからそんなはずないのに。
昔は「付いて来んな」「どっか行け」と言われ続けていたし、待ってくれることなんて勿論なかった。やっぱり職場体験で常識的な何かを身に付けてきたのだろうか。高校に入ってからの彼は、驚くべき速度で成長しているような気がする。
私が彼のところまで小走りしたことによって、元の距離に戻った。彼はそれを確認してから止めていた足を動かし始める。速度はどうやら私に合わせてくれているらしい。
そういえば特別気にしたことはなかったけれど、いつからか私は彼に置いて行かれることがなくなっていた。一生懸命追いかけなくても隣を普通に歩けるようになったのは、果たしていつ頃からだったか。もう思い出せない。
「改めて言うんだけど」
「言うな」
「かっちゃんって優しいよね」
「言うなっつっただろうが!」
「あと、」
「ンだよ」
「その髪型やっぱり面白いよね」
「ほっとけ!!」
口調は荒い。いつものことだ。けれどもその表情は、側から見れば怒りに満ち溢れているように見えるかもしれないけれど、私から見ればどう考えたっていつもより柔らかな雰囲気を纏っているように見えたから。
「やっと本調子かよ」と呟いた彼に、私は満面の笑みを向けた。