cの贈物
いらない、よなあ。
私は今月に入ってから何度目になるか分からないセリフを脳内で独りごちる。先日の放課後、A組の女の子達から当然のように言われた言葉に、私は首を縦に振ることができなかった。
「なまえちゃんは爆豪ちゃんにチョコレートあげるんでしょう?」
「そりゃあげるよね! 彼女だもん」
「爆豪甘いものあんまり好きそうじゃないけど」
「彼女からのチョコレートは受け取るでしょ〜!」
勝手に盛り上がる皆に「あげようかどうしようか迷っている」とは言い出せず、私は曖昧に笑ってみせることしかできなかったのである。
バレンタインデー。それは男女ともに浮き足立つイベントだ。私達雄英高校に通う生徒達も例外ではなく、二月に入ってからというもの、口を開けばチョコレートの話題が飛び出す。
そんな一大イベントにおいて、私は彼と何年も幼馴染という関係を続けていながら、一度もチョコレートをあげたことがなかった。義理チョコすらも、だ。
彼は、知っての通り、チョコレートなんて甘ったるいものが欲しいというタイプではない。それ以前に、もしかしたらバレンタインデーというイベントのこと自体認識できていないかもしれないというレベルである。
今まではあげなくても何ら問題はなかった。義理チョコを配るか配らないか。ただそれだけのことだったから。
しかし今はどうだろう。私は一応幼馴染から彼女というポジションになった。この日本という国では、付き合っている男女なら女性の方からチョコレートをあげるのが当然の慣わしのようになっている。ということは、通常のセオリー通りにいけば、私は彼にチョコレートをあげるべきだ。
けれども何度も言うように、彼はバレンタインデー自体を認識していないかもしれないし、認識していたとしてもチョコレートを欲すタイプではない。だから私は冒頭の独り言を何度も脳内で再生しているのである。
「なまえちゃん、かっちゃんにあげてないの!?」
「あげるべきだと思う?」
「そりゃあ……まあ……だって二人は付き合ってるんだよね……?」
迎えたバレンタインデー当日。彼以外の人へ義理チョコを渡すためにA組の寮まで赴いていた私は、チョコレートを受け取った後で気まずそうに周囲を確認する緑頭の彼に今更な確認をしていた。
義理チョコは毎年市販の小さなチョコレート菓子を袋に数個詰めただけの簡素なもので済ませている。クラスの男子や、A組のデクくん以外の男子にもあげた。勿論、そこに特別な感情はない。
そして肝心の本命チョコだけれど、悩みに悩んだ結果、義理チョコとは違う少しお高めのものを一応用意した。渡せなかったとしても自分で食べれば良いや、という心持ちで。
デクくんには毎年義理チョコをあげている。そのことは彼も知っていると思う。けれど「俺にはねえのか」とか「俺にも寄越せ」とか、そういうことは一度も言われたことがない。だから、幼馴染が恋人になったからといって、急にチョコレートを欲しがったりはしないと思ったのだけれど。
「そういうの気にしないタイプでしょ」
「それはどうかな…」
「もしかして何か言ってた?」
「いや! そういうわけじゃないんだけど!」
「オイ」
「あ。勝己」
「か、かっちゃん……!」
「そこで何やってんだ」
噂をすればなんとやら。デクくんの背後からゆっくり近付いてきた彼は、デクくんが手に持っていた私があげたばかりのチョコレートの詰め合わせを取り上げて眉を顰めた。
「これ。他のヤツらにもやったろ」
「え? うん。あげたよ」
「……チッ」
明らかにご立腹の様子。にもかかわらず、彼は舌打ちをしただけで私に文句を言ってくることはなかった。しかも取り上げたチョコレートの詰め合わせは、乱雑ながらもきちんとデクくんに返している。
やっぱり欲しいとは言われなかった。けど、欲しくないわけでもないのかな、なんて。何も言わずに去って行く彼の背中を眺めて、チラリとデクくんに視線を送る。何も口にはしなかったけれど、デクくんの目は「追いかけなよ」と言っているようだった。
歩くのが速い彼は階段を上って自分の部屋に行ってしまったらしく、もうその背中は見えない。私は急ぎ足で彼の部屋に向かった。彼用に準備しておいたチョコレートを持って。
「……勝己ってチョコレート好きだったっけ」
「好きでも嫌いでもねェ」
「今までバレンタインデーにチョコレートもらったことある?」
「覚えてねーわ」
「あ。バレンタインデーってイベントは理解してる?」
「俺を馬鹿にしとんのか!」
「してないよ。確認」
彼の部屋に突撃したら「何しに来たんだよ」とブスッとしながらも普通に招き入れてくれた。ベッドを背もたれにして並んで座り、まずはバレンタインデーを理解しているのか確認。
さて、ここまでは良かったけれど、どのタイミングでチョコレートを渡そうか。そもそも本当に渡す? そこも決断しきれていないのに、勢いだけでここまで来てしまった。どうしよう。
僅かな沈黙。そしてその沈黙を破ったのは意外にも彼の方だった。
「で、何しに来たんだよ」
「……チョコレート、いるかな、って、思って、」
彼は時々、不思議なほど柔らかい音を奏でることがある。その声を聞くと、するすると言葉が出てきてしまうような、不思議なトーン。今がそうだった。言い出し難いと思っていたことも、気付いたら口を突いて出てきている。
おずおずと、それなりに立派なラッピングがしてあるチョコレートの包みを差し出す。彼はそれを、何の躊躇いもなく受け取ってくれた。
「アイツらのとは違うな」
「そりゃあ本命だからね」
「……同じだったらブッ殺すとこだったわ」
仮にも…否、正真正銘の彼女に向かってブッ殺すとは、穏やかじゃない。けれど、彼らしいなあと思った。
ていうか、ちょっとホッとしてる? 嬉しそう? そう見えるのは私の気のせいだろうか。
「もらえて安心した?」
「はァ?」
「嬉しい?」
「別に」
「えー……」
「当然だろうが」
「何が」
「お前が俺にこれを渡してくんのは」
手放しで喜んでもらえるとは思っていなかったからそれは想定内だったけれど、もらえるのが当然だと思っていたのは意外だった。いや、まあ、付き合っているのだからその思考自体は普通なのかもしれないけれど、彼がそう思っていたことに驚いたのだ。
チョコレートの包みを物珍しそうに眺めてから無遠慮に綺麗な包装紙を破り、箱を開けるなり丸い形の茶色くて甘いそれを口の中に放り込んだ彼は、何度か咀嚼して一言。「甘ェ」と。
そりゃあそうだ。チョコレートは甘い。これでもビターなやつを選んだのだから、文句を言うなら返してほしい。私が食べるから。
「美味しい?」
「普通」
「そこは美味しいって言ってよ」
「量産品なんてこんなもんだろ」
「手作りだったら美味しいって言ってくれてた?」
「さァな。試してみろや」
「じゃあ来年は手作りにしよっかなあ」
自然と一年後のことを考えている自分にハッとする。私は今、当たり前のように一年後も彼の隣にいる自分の姿を想像したのだ。
一年後だけじゃない。二年後も三年後も五年後も十年後も、私の隣には彼がいる。たとえ恋人という関係じゃなくなったとしても、彼は私の傍にいるということだけは、根拠もないのに断言することができた。
「不味かったら食わねーからな」
「そこは努力を評価してよ」
「一生かけりゃ食えるもん作れるようになんだろ」
「……そう、だね」
「精々努力しろや」
ほら。私の大好きな爆豪勝己はこういう男なのだ。時々簡単げに使う「一生」という単語。その単語が使われる度にどれだけこちらが心を躍らせているかも知らないで。
来年は宣言通り手作りに挑戦しよう。ついでに義理チョコも手作りにしようかな。……いや、それはやめておこう。何も言ってこなかったけれど、デクくんに渡した義理チョコを見て嫌そうな顔をしていたから。あなただけが特別なのよって、ちゃんとアピールしなくちゃね。