bの呼称
「かっちゃん」
何年も前から慣れ親しんだ呼び方をしているにもかかわらず、ここ最近の彼は私がそう呼ぶ度に不服そうな顔をする。返事をしてくれないとか、無視をされるとか、そういうことは一切ない。ただ、一瞬だけムッとした表情を見せるのだ。
最初は「気のせいかな?」と思ってスルーしていたのだけれど、何度も同じ違和感が続けば、それは気のせいでは処理しきれなくなるわけで。私はベッドに寝転がりヒーロー雑誌を読んでいる彼を呼んで尋ねてみることにしたというわけである。
「凄く凄く今更だけど、かっちゃん、って呼ばれるの嫌だったりする?」
「あァ?」
「最近ずっと呼ぶ度に微妙な顔するから気になっちゃって」
彼は眉間に深い皺を刻みながら雑誌からこちらへと視線を移した。彼の眉間に皺が刻まれた理由が図星を突かれて苛立っているからなのか、見当違いなことを言われて怪訝に思っているからなのか、今の段階では判断できない。
私は相変わらず鋭い目付きをした彼の瞳から視線を逸らすことなく、黙って返事を待つ。すると、盛大に舌打ちをして雑誌を閉じた彼がベッドから身体を起こした。それによって、ベッドに肘を置き寝転がっている彼を眺めていた私は、必然的にその顔を見上げるような格好になる。
「嫌だっつったら変えんのか」
「ってことはやっぱり嫌なんだ」
「昔からその呼び方は気に食わねンだよ」
「でもデクくんだけじゃなくて電気くんとかもかっちゃんって呼んでるじゃん」
「……テメェはアイツらとは違うだろうが」
違う。違う、とは。何が違うのだろう。性別? ……じゃ、ないよね。分かってるよ。分かってる、けど。
いまだに疑問に思うことがある。私達は本当に恋人なのだろうか、と。時々とは言え、キスやセックスをする間柄のくせに、かなり難航しながらもお互いの気持ちを伝えてその想いを受け止め合ったくせに、それでもまだ夢じゃないかと考えてしまう瞬間があるのだ。
「今まではそこまで嫌がってなさそうだったのに、なんで急にそんな感じになっちゃったの?」
私が素朴な疑問をぶつければ、彼は珍しく言葉を詰まらせた。私に気を遣って……なんて理由は有り得ないと思うから、十中八九、私には言いにくい理由だとみて間違いないだろう。
私は彼の顔を見上げたままの体勢から動かない。視線は交わったり交わらなかったり。そのまま何秒か経過してから、彼は重々しく口を開いた。
「俺は名前で呼んでる」
「それは昔からでしょ」
「昔と今じゃ違うだろ」
「それはそうだけど」
「いつまでモブ共と同じ呼び方するつもりだよてめーは」
怒りではなく、呆れているというか拗ねているというか、とりあえず責められているわけではないという雰囲気だけを感じ取る。今まで通りで良いところと変えるべきところの境界線があやふやなまま半年以上が経ち、いつの間にか高校二年生になってしまった私達はまだまだ青い。
呼び方なんてどうでも良いじゃないかと思う反面、今までと同じでは物足りないと感じてしまう気持ちが芽生えてしまう心理が分からないわけでもない。けれど、あまりにも「かっちゃん」呼びが定着しすぎていて、急に変えるのはなかなか至難の業なのだ。
例えば私が急に彼のことを「勝己くん」とか「勝己」などと呼び始めたとして、彼はそれをすんなり受け入れることができるのだろうか。何事もなかったかのように「あァ?」と、先ほどと同じような反応をするのだとしたら、それはそれで少し釈然としない。
彼に求めるのは難しいことかもしれないけれど、もしも私が「かっちゃん」以外の呼び方をした時は、ほんの少しでも良いから戸惑ってほしい。あわよくば嬉しさを滲ませてほしい。「幼馴染」から「恋人」として、意識的に何かを変えようとした私の努力を認めてほしい。今まで通りを変えるのは、それぐらい勇気が必要なことだから。
「勝己くん」
私を見下ろしている彼の目が大きく見開かれた。期待が膨らむ。
「……って呼ばれたら嬉しい?」
彼を見上げている私は、その反応をじっと観察し続ける。正直、呼んでいる側の私はかなり緊張したし、現在進行形でむず痒さを感じているのだけれど、彼の方はというと、目を見開くという動作以外に何もアクションを起こしてくれなかった。期待は見事に裏切られたのである。
「やっぱりそうだよね」と納得しようとしている自分と「少しぐらい喜んでくれても良いのに」と不満を抱いている自分がせめぎ合う。私はつくづく面倒臭い女だ。
「ンなことぐらいで俺が喜ぶと思ってンのか」
そうだよね。そういう反応するんだろうなって予想してたよ。でも「かっちゃん」呼びが不服そうな彼氏のために努力しようとしたことはほんの少しぐらい認めてくれたって良いんじゃないの。
思うことは多々あれど、それを口に出して伝えるのは情けないというか恥ずかしくて、私はベッドに顔を埋めた。息を吸い込むと彼の匂いが肺いっぱいに広がるのが身体に毒だ。
「勝己くん、なんざ気色悪ィ」
「じゃあ呼び捨て?」
ゆっくりとベッドから顔を上げ再び彼の顔へと視線を向けようと思ったら、急に腕を引っ張られベッドの上へ招待された。彼と向き合う形で座る私はなぜか正座。まるでお見合いをしているみたいな状態である。
どうやら彼はくん付けで呼ばれることがお気に召さなかったようだけれど、呼び捨てなら喜んでくれるというのだろうか。私はダメ元で尋ねてみる。
「かつき、って呼ばれるのは嬉しい?」
「嬉しいとか嬉しくないとか、そういう次元の話してるわけじゃねンだよ」
「私はそういう次元の話がしたいの」
「……俺が名前呼びを許す奴はなまえだけだっつったら分かんだろ。ちったァ察せ!」
バツが悪そうにそう吐き捨てた彼とは対照的に、私の顔はみるみるうちに綻んでいく。
そうか。そうだったのか。そういえば、彼のことを名前で呼べる人間なんて彼の両親ぐらいしか知らない。中学時代の男友達は彼を「カツキ」と呼んでいたような気がするけれど、女の子達は私を除いて皆「爆豪くん」と呼んでいたことを思えば、これは特別なお許しをいただけたということになるのだろう。
「かつき」
「……ンだよ」
「勝、己」
「あ?」
「勝己」
「用件を言え!」
「練習だよ。呼んでみただけ」
「これから死ぬまで呼べんのに練習する必要ねェだろが」
これから死ぬまで。つまり一生。私は彼に特別な許しを得た人間でいられるのか。
彼はきっとそれほどまでに重たい言葉を言ったつもりはないだろう。けれど、私にとっては充分すぎる一言だった。
「勝己」
「だから、」
「好き」
「は……?」
「なんかこう、急に言いたい気分になった」
「はあ……ったく……」
ムードもへったくれもない状況。それでも「好き」というたった二文字を紡げば、その空間は途端ピンク色に染まるから不思議だ。
「ちゅーしちゃう?」
「そういうこといちいち確認してくんなや!」
「勝己とちゅーしたいなー」
「テメェ……いい度胸してンじゃねェか」
伸びてきた彼の手が私を引き寄せて、身体が前に傾く。まるで猫のじゃれ合いみたいだ、なんて思っている間に始まったのは、猫だったら味わうことのできなかったであろう、蕩ける時間だった。