Lの終着
なまえには限界と言ったが、俺は意外にもそこまで切羽詰まった状況ではなかった。むしろいつもより頭が冷えているというか、やけに冷静な思考になっているような気さえする。
じゃあなぜ俺はなまえを引き留めて自分の部屋で待たせているのか。頭は冷えている。俺は至って冷静だ。しかし、なまえとあのまま普通に別れることはできなかった。その理由とは。
「っ!」
「お、おかえり」
片付けがほとんど終わったのを確認してからすぐさま部屋に戻ると、そこにはきちんとなまえが待っていた。しかもなぜか座りもせず入口近くに突っ立ったまま。そのせいで、俺は部屋に入った瞬間、なまえにぶつかりそうになってしまった。
なんでコイツはこんなところにいるんだ。いつも通り普通に、ベッドにでも腰掛けてヘラヘラ笑いかけてくれば良いのに。一体、何を意識しているのか。何を考えているのか。俺はそれが分からないようなポンコツではない。
「早かったね」
「すぐ行くっつったろ」
「そうだけど、片付けは」
「なまえ」
俺に背を向けたまま、なまえは一向にこちらを向こうとしなかった。名前を呼んでも、その姿勢は変わらない。この距離で聞こえていないということは有り得ないはずだから、意図的に俺の方に向かないようにしているのだろう。
もう一度名前を呼ぶ。「なまえ」と。俺の声は、やっぱりいつもより落ち着いた音色だった。
片付け云々のことなど、本当はそこまで興味ないくせに。なまえはこれから起こるであろう出来事を分かっている。分かっているから、どうにかして逃げようとしている。また、俺から逃げようとしているのだと、悟る。
逃げようとするぐらいなら俺の部屋で待っていなければ良かった。俺の部屋に行くフリをして本当に逃げれば良かった。逃げたいならもっと上手く逃げれば良い。隙はいくらでもあったはずだ。それなのに、なまえはここにいる。俺にはもう、なまえがどうしたいのか、何を思っているのか、さっぱり分からなかった。
「てめーは何がしてェんだよ……」
「かっ、ちゃん、」
こっちを向かないなまえに、背後から覆い被さる。なまえの腹の前で手を組んで自分の方に引き寄せ首筋に顔を埋める俺は、とんでもなく情けない男だ。こんなこと、死んでもやるものかと思っていた。というか、こんなことをする未来など全く想像していなかった。しかし、身体が勝手に動いていたのだからどうしようもない。
やっと手に入れたと思った。自分のものに、自分だけのものになったと思った。なまえは物じゃない。だから俺の所有物になったという意味ではなく、他の人間とは違う存在になれたという意味において、俺だけが特別だと感じていた。それなのに、なまえはまだ、俺を受け入れていないように思えてならない。
食堂で明確に言ったはずだ。俺はなまえに惚れている、と。そして確認した。お前は俺の女だろ、と。それをなまえは肯定した。何を考えて俺を避けていたのかもその時に聞いた。解決した。それなのにまた、この女は同じことを繰り返す。
これは怒りではない。焦燥だ。不安だ。たった一人の女に、俺はこんなにも狂わされている。
自分は冷静だと思っていた。十分すぎるほど頭が冷えているように感じていた。しかし、それは自分にそう思い込ませていただけだ。
本当に冷静で落ち着いているなら、こんなことはしない。引き留めて、部屋で待っていろと命じたりもしない。俺は確かめたかったのだ。もうなまえは自分から逃げたりしない、と。お互い幼馴染の先にある関係を受け入れられた、と。
だがそれは今のところ確認できずにいる。俺にはもう、これ以上の確認の仕方が分からない。
「ごめんね、ごめん、」
「……何が」
「好きって気持ち、ちゃんと素直に伝えられなくて」
その言葉に、俺はなまえの首元に埋めていた顔を上げた。腰に回していた手の力も緩める。すると、なまえが身体ごと俺の方に向いた。漸く目が合う。
「今日はちゃんと素直になろうって思ってたんだけど…緊張してるっていうか、身構えちゃうっていうか、どういう動きをしたら良いか分からないっていうか」
「はァ?」
「だって、かっちゃんにああいうこと言ってもらえて嬉しかったけど、今までのこと冷静に振り返ったら嘘でしょって気持ちになっちゃうし」
「ンな嘘吐くか!」
「それは分かってるんだけど! なんていうか、こう…今更恥ずかしくて…逃げたくなっちゃうんだってば……」
俺と交わらせていた視線は、会話の最後の方で逸らされた。そして言葉通り、なまえは恥ずかしそうに顔を俯かせる。
正直、フザけんなと思った。そんな理由で、俺はこんなにも焦燥感に駆られ、不安を煽られていたのか。振り回されていたのか。狂わされていたのか。
腹が立つ。憤る。しかしその感情よりも安堵と高揚感が勝るのだから、俺はどうかしているのかもしれない。この女に惚れた時点で、惚れてしまったと気付き、それを認めてしまった時点で、俺はどうかしていたのだろうけれど。
両手でなまえの耳から頬にかけてを包み込んで上向かせる。視線は合わないが、関係ない。俺は自分の唇をなまえのそれに押し付けた。
深く深く、息継ぎすることも許さないと言わんばかりに、ただずっとその状態を保ち続ける。やがて、酸素を求めて薄く開いた唇。俺はすかさずその隙間から舌を侵入させた。逃げ惑うなまえの舌を絡め取るなんて容易いことだ。
「んっ、は、かっちゃ、」
「逃げんな」
「っ…むぅ」
俺の胸を弱々しく押して距離を取ろうとするなまえの口を、また塞ぐ。なまえの押し返す力なんて、俺にとってはあってないようなものだ。もう逃がさない。逃してなどやるものか。そんな気持ちの赴くまま、俺は貪るように口付けを続けた。
暫くその行為を続けた後、薄目でなまえの様子を確認する。目を瞑り、ただ俺に翻弄されてどろどろに溶けそうになっている顔。やばい。ぞくぞくする。止まらない。元々止まる気もなかったが、それは置いておいて。
散々口内を蹂躙してから顔を離す。はあ、と息を吐いたなまえは恨めしそうに俺を見つめてきたが、その口が数秒前までの行為を咎めてくることはなかった。そして、俺から離れようとする素振りも見せない。
「逃げねェのか」
「さっき逃げんなって言ったのはかっちゃんでしょ」
「言ってなかったら逃げてンのかよ」
「ううん。逃げないよ。……逃げない」
俺の腰になまえの手が回ってくると同時に、胸元にぴたりと耳を寄せられる。俺の鼓動はなまえに聞こえているだろうか。普段より速いテンポで脈打っていることに気付かれなければ良いと思ったりもしたが、気付かれたとしても何ら支障はない。
俺はなまえの太腿の裏に腕を回し、そのままひょいっと担ぎ上げた。バランスを崩したなまえは俺の肩に寄り掛かかる格好になり、ちょうど俵担ぎの一歩手前といった状態である。
「危なっ! 落ちる!」
「落とすか」
「重たいでしょ?」
「ナメんな。これぐらいならあと三人は担げるわ」
「それは言い過ぎだと思うよ」
「いちいちうるせェなてめーは」
どさっと、背中からなまえをベッドに転がす。そして俺が仰向けで倒れたなまえを跨ぐように組み敷くまでコンマ数秒。今度こそ、捕まえた。
「隣、いつ帰ってくるか分かんねーぞ」
「……うん、大丈夫」
「今から何すんのか分かってんのか?」
「待ってたもん」
「は?」
「前言ったでしょ。襲われる勇気あるって。あれ、嘘じゃないもん」
散々逃げ回っていたくせに、今度は俺を挑発するようなことを言ってくる。まったく、この女はいい度胸をしている。思わず「ハッ」と笑いが漏れた。
「上等じゃねェか」
「かっちゃん、」
名前を呼んだ後、何かを言おうとしたなまえの口を塞ぐ。俺の口の中に入ってきた言葉は、恐らく「好き」の二文字だけ。それ以外は認めない。