Mの密言
日曜日の夕方。そろそろA組の寮まで行こうか、もう少しここで待つべきかと自分の寮の前で迷っていたら、本当に彼が私を迎えに来た。
「本気で迎えに来させんのかよ」と口を尖らせている姿は、怒っているというより拗ねているようで、ちょっと可愛い。長い付き合いになるけれど、こんな顔を見るのは初めてかもしれない。
食堂での出来事は、いまだに夢だったのではないかと思う。だって彼が、私に惚れているとか、自分の女だとか、そういう、むず痒くなるようなことを言ったのだ。しかも、誰も聞いていないだろうとは言え、公共の場で。キャラ変もいいところである。
今も彼は「早よしろ」とか「遅ェ!」とか、そういった刺々しい言葉を浴びせてくることなく私の半歩先を歩いていて、かなりの違和感を感じていた。素直に喜べばいいものを「かっちゃんってこんな男だったっけ?」と首を傾げてしまうのだから、私は捻くれた女だ。
ものの数分でA組の寮に辿り着く。懐かしさを覚えるほど久し振りではないけれど、なんとなく緊張してしまうのはなぜだろう。彼との関係は恐らく知られているはずだから、今更バレないようにしなくちゃとか、そういう心配はしなくて良いと思うけれど、あまり触れられたくない話題だから身構えてしまっているのかもしれない。
そういえばA組は文化祭で何かステージ演技をやるのではなかったか。練習中だとすれば、部外者である私が入るのは良くないことのように思える。
私は寮の目の前まで来て足を止めた。それに気付いた彼は、私と同様に足を止め怪訝そうな顔をして「どうした?」と尋ねてくる。「何やってんだ!」と怒鳴ってこないあたり、彼はやっぱり変わったと思う。
「文化祭の準備とかしてるなら私が入るのはよくないんじゃないかなってことに今更気付いちゃって」
「今はしてねえよ」
「そうなの?」
「てめーが来るっつったからな。練習は休憩にするんだとよ」
「なんかごめん」
「何に対して謝ってんだ。いいからさっさと行くぞ」
「うん」
私のために練習を休ませてしまうのは申し訳なかったけれど、その反面、少し嬉しくも思った。部外者であるはずの私が行くというのに、歓迎されているような雰囲気を感じることができたからだ。
彼の後ろをついて行く。入口の扉を開いて何度かお邪魔したことのあるその空間に足を踏み入れれば、共同スペースにいた面々がこちらを向いた。
「なまえちゃん、いらっしゃい!」
「待ってたのよ」
「こっち座って!」
「私、美味しい紅茶を淹れましたの」
「砂藤がケーキ焼いてくれたんだぜ」
「やっべー! パーティーみてー!」
「一番浮かれてんのお前じゃん?」
わいわいと賑やかな空気に包まれて、あれよあれよと言う間にソファまで引っ張って行かれる。首だけで後ろを振り返れば、彼もゆっくりとこっちに近付いて来ていた。
良かった。部屋に戻ってしまうのではないかと思っていたけれど、どうやら彼もここにいてくれるらしい。大人数で騒ぐのがあまり好きではない彼が、今こうして同じ空間にいてくれる。それは大きな変化である。
八百万さんが淹れてくれた紅茶と砂藤くんが焼いてくれたケーキをいただきながら、他愛ない話で盛り上がる。授業のこと、インターンのこと、文化祭のこと。そして話題は思わぬことへと流れていった。
「爆豪となまえちゃんは文化祭一緒に回んの?」
「え?」
「は?」
私と彼の声が完全にシンクロした。いつかは振られるだろうと思っていた話題。今まで私と彼の関係については表立って訊かれたことがなかったけれど、覚悟はしていた。それでも、急にそういう話題を振られると、何と答えたら良いか分からない。
そもそも、彼とは文化祭の日にどうするかなんてひとつも話していなかった。つい最近までそれどころではない状態だったし、一緒に回るなんて考えは私の中に存在していなかったのだ。彼だってきっと、私と同じだと思う。
「2人は付き合ってるんでしょ?」
「それがどうした」
確認するような三奈ちゃんの問いかけに、間髪入れず答えたのは彼だ。「ほっとけ」もしくは「テメェらには関係ねェだろうが」などとはぐらかすのかと思いきや、肯定的な言葉を返した。それが私にとってどれだけ嬉しいことか、彼は分かっていないだろう。
皆の前で私との関係を堂々と明らかにしてくれた。暗黙の了解みたいなところはあったのかもしれないけれど、公にするのとしないのとでは気の持ちようが違う。
彼はこの手の話題で揶揄われたり、根掘り葉掘り聞かれたりするのは嫌いなタイプのはずだ。まああれやこれやと首を突っ込まれるのが好きなタイプの人はあまりいないだろうけれど、彼はそういうことを特別嫌うタイプだと言っても過言ではない。だからこそ、この手の話題が続くのを承知の上で発してくれた言葉に嬉しさが増してしまうのは、仕方のないことだ。
「付き合ってんなら二人で回ればいーじゃん」
「なまえちゃんは爆豪くんと一緒に回りたいでしょー?」
「え。いや、私は別に」
透ちゃんに訊かれて咄嗟に否定した。一緒に回りたいか回りたくないかで言ったら、そりゃあ回りたい気持ちがないわけではない。けれど、付き合い始めたからと言って必ずしも一緒に回らなければならないというルールがあるわけではないし、そういうセオリー通りのベタベタした関係は、私も、そして彼も望んでいないと思った。それゆえの否定の言葉である。
私は彼の様子を窺うために背後を振り返った。彼はずっとソファの後ろ、すなわち私の背後に立ったままだ。積極的に会話に入ってくることはないけれど、今のように自分に関係のある話であれば発言する。そして、この場から立ち去ることはない。それが彼なりの溶け込み方なのだと思う。
「俺達の付き合い方に口出しすんな」
「そ、そうだよ。こういうのは二人で決めることだし」
「デク! テメェは黙っとけ!」
「デクくんは私達のフォローしてくれただけでしょ」
「いいよなまえちゃん。いつものことだし」
いつものこと。確かにそうだけれど、最近の彼の様子ならもう少し違う発言の仕方をするんじゃないかと思っていた。しかし、デクくんにだけはどうしても以前からの感じが抜けきらないらしい。まあ、ここで口を噤んだということだけは成長と言えるかもしれない。
結局その話題はそれで終了となり、お互い文化祭の準備があるだろうということで解散の流れになった。本当は、もう少しいたかったなあとか、彼と二人きりで過ごす時間がほしかったなあとか思ったけれど、今日のところは大人しく帰ろう。
トイレから出てきた私は、共同スペースの後片付けをしている皆の手伝いをするためにそちらへ向かおうと足を進めた。が、二歩進んだところで腕を引かれて、後ろに転びそうになる。こんなことをする人物は一人しかいない。
「かっちゃん、なあに?」
「部屋」
「え」
「俺の部屋。行っとけ」
「片付け…」
「てめーは帰ったってことにしとく」
「でも、みんなにちゃんとバイバイとかありがとうって言えてないし」
「そんなん次来た時にでも言え」
「かっちゃん、」
「こっちだって限界ってモンがある」
共同スペースの片隅。皆からは死角になっている場所でこそこそと話をしていると、なんだかイケナイことをしているような気分になってしまう。
限界。どういう意味の限界か、どの程度の限界か。分かるようで分からない。ただ、赤い瞳が戦闘時とは違うギラつきを見せていることだけは確かで、私は退路を断たれてしまった。
「…分かった」
「ん。すぐ行く」
私の腕を掴んでいた手を離し、その手で頭をぐしゃっと撫でてから皆のところに向かった彼にすぐさま背を向けて彼の部屋に向かう。皆に見つからないようにしなければならないから。そして、集まった熱のせいで赤くなっている顔を誰にも見られるわけにはいかないから。
彼は変わった。それはずっと感じていたことだし、分かっていたことだ。けれど、あんなに安心しきった表情で微笑むなんて、反則ではないだろうか。飲み込まれる。彼に。もうとっくに飲み込まれているのかもしれないけれど。
彼の部屋に辿り着いた私は、静かに扉を開いてお邪魔する。当たり前だけれど、この小さな部屋は彼の匂いでいっぱいで胸が苦しくなった。「すぐ行く」。宣言通り、彼はもうすぐここに帰ってきてしまう。
早く来てほしい。けれど、来てほしくない。…嘘。来てほしい。すぐにでも。私はすっかり恋する乙女だ。