Sの崩壊
言ってしまいそうになった。今でも彼とデクくんを同じように見ているのか、と尋ねられた時「同じじゃないよ」と。思わず本音が口を突いて出てしまいそうになった。けれども私は、寸前のところでそれをどうにか飲み込んで、違う言葉にすり替えることに成功した。
会話をしながら、なんとなく、いつもと様子が違うなとは思っていた。私の軽口に対して怒鳴ってきたり突っかかってきたりしないから、やっぱり仮免試験に落ちたのはショックだったのかな、と。その程度のことを考えていたのだ。そうしたら彼は、仮免試験とは全く関係ないばかりか、らしくない質問をぶつけてきたではないか。咄嗟に対応するには難易度が高すぎる。
デクくんが来てくれて「助かった」と思った。私一人の力では彼から逃げられなかったから。
逃げる。今までは彼から逃げたいなんて思うことはなかった。思う必要もなかった。けれど、彼への気持ちを自覚してしまってからというもの、私は常に彼から逃げる術を考えているような気がする。
今まで通りにしていれば、今まで通りの関係でいられることは分かっているのだ。しかし、その「今まで通り」が分からなくなっている。こんなことを言ったら彼に嫌われてしまうんじゃないだろうか。こんなことをしたら彼に愛想を尽かされてしまうんじゃないだろうか。自分の言動ひとつひとつに不安が付き纏う。
彼のことが好きだと気付かなければ、彼は特別だと自分の中で認めずにい続ければ、こんなことにはならなかった。そんなことを思っても遅いのだけれど、後悔せずにはいられなかった。
そんなことがあった二日後の、昼休みのこと。私は手に持っていた携帯を危うく落としそうになった。なんと彼から連絡がきていたのだ。そんなことでそこまで驚くのは大袈裟だ、と思われるかもしれないけれど、これはかなり衝撃的なことである。
彼は知っての通り、他人と馴れ合うことや他人との距離を縮めることをあまり良しとしていない。だから基本的に、自分発信で連絡をしてくることはなかった。
業務連絡なら「しなければならないから」する。が、プライベートにおけるやり取りは「しなければならないというわけじゃないから」しない。そういう考えの男なのだ。そんな彼から連絡がきていたら、そりゃあ携帯を落としそうなほど驚くのも無理はないと思ってほしい。
メッセージ内容を確認するため、恐る恐る携帯の画面に指を滑らせる。一昨日以来初めてのやり取りだから、妙に緊張してしまう。彼発信で始まったやり取りだから、尚更。
隣で私の様子を見ていた友人は「大丈夫?」と心配そうに声をかけてくれたけれど、正直な返事をしても良いのなら「全然大丈夫じゃない」。しかし私は「大丈夫だよ」とその場をやり過ごし、画面に視線を落とした。
“授業が終わったら来い”
文面を見た私は唖然とした。これでは完全に果たし状である。彼は私とタイマン勝負でもするつもりなのだろうか。
確かに、彼からの圧に耐えられなくなって中途半端なところで逃げ出してしまったことは申し訳ないと思う。けれども、仕方がなかったのだ。あの場に留まり続けていたら、きっと私は気持ちを抑えきれなくなっていた。それこそ「今まで通り」に戻る術を失うようなことをしでかしてしまいそうだった。だからどうしても、逃げるしかなかった。もっとも、こっちの事情なんて彼には関係ないのだろうけれど。
返事に悩む。「分かった」と素直に応じるべきか、「今日は無理」と断り徹底的に気持ちの整理をしてから日を改めて会いに行くべきか。しかし、ふと考える。気持ちの整理をしてから、って、私の気持ちの整理はいつ終わるのだろうか、と。
そもそも、気持ちの整理はできているのだ。私の気持ちはもうブレることがないし、この先変わることはないだろう。問題は、それを彼に悟られないようにどう立ち振る舞うかである。いかに「今まで通り」を崩さず関係を保てるか。それが壊れそうになるのが怖いから、私は彼に会いたくないだけなのだ。
今日会わなかったら明日会いに行く? それとも明後日? 一週間後? こんなの、全然「今まで通り」じゃない。じゃあもう、返事はひとつしかないじゃないか。
私は画面をタップして返事を打ち込む。「分かった」というたった四文字はあっと言う間に彼の元に届いてしまったと思う。昼ご飯を食べた後の授業なんて眠たくなるだけだし、早く帰りたいなあ。いつもならそう思うのに、今日だけは授業が終わらなければいいのに、と思った。彼に会いたくないわけじゃない。むしろ、会いたい。けれど、怖い。
彼に会って一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、特別な感情が蓄積されて、山積みになって、いつか倒れてしまいそうで。倒れる、それ即ち、現状を保てなくなる。そういう状態になるのが怖いのだ。私が一番恐れているのは、彼の隣にいられなくなることだから。
「遅ェ」
「そうでもないでしょ。“いつも通り”だよ」
それは彼に口答えしているようで、自分に言い聞かせるための言葉でもあった。本当は授業が終わってから無駄にだらだらとおしゃべりしていたのだけれど、そんなことは勿論言わない。
広い寮の共同スペースには私と彼しかいなくて、とても静かだ。一緒に謹慎中のはずのデクくんの姿さえ見当たらない。ごみ捨てにでも行ったのだろうか。
「デクくんは?」
「学校」
「え。一緒に謹慎中じゃなかったっけ?」
「アイツは昨日まで。俺は今日まで」
「そう、なんだ、」
やばい。それは知らなかった。知っていたら今日来ることは避けていた。だって彼と正真正銘二人きりなんて、そんなの、今の私には無理だ。
寮内に入ってきたばかりで立ち尽くしている私と、そんな私を見てやけに落ち着いた様子の彼と。この空気が既に苦しい。
「一昨日」
「ごめん、あの日はなんか、かっちゃんが真剣すぎたから怖くって、つい逃げちゃったっていうか」
「助かった、って顔してたな」
「へ?」
「デクを見て、ヒーローが来た、みてえな顔しやがって」
彼が一歩一歩近付いてくる。不思議と恐怖は感じなかったけれど、動揺はしていた。今まで感じたことのない、なんとも言えない空気を身に纏っている彼にどう対応したら良いのか分からなくて。言っていることもイマイチ分からない。というか、的を得ない。彼は何が言いたいのだろう。
目の前まで来たところで足を止めた彼は、その真っ赤な瞳を私に向けてくる。逸らしたいのに逸らせない。不思議な力をもった眼光。責めているわけでも怒っているわけでもない。この感情は、何だろう。まるで、泣きそうだ、なんて思ってしまった。
「同じじゃねえんだろ」
「え、」
「俺とデク」
「それは、」
「いつからこうなっちまった」
「かっちゃ…、っ、」
肩にずしんと重みがのしかかった。彼の頭がのせられたのだ。つんつんとした髪の毛が首を擽る。しかし、擽ったさに笑っていられる余裕はひとつもなかった。
これは一体どういう構図なのだろう。どういう状況なのだろう。私はどうするのが正解なのだろう。どう考えても今までに出会ったことのない彼の姿に、私は順応できない。
彼とデクくんは私の中で同じじゃない。確かに彼の言う通りだ。けれど、たぶん私の言う「違う」と彼の言う「違う」は異なる。だから恐らく、こんなことになっている。
「なんでお前までアイツを選ぶんだよ…ッ」
それは、叫びにも似た小さな泣き言だった。彼の言う「アイツ」が誰なのか、それが分からないほど馬鹿ではない。彼の口振りからして、「アイツ」=デクくんが、私以外の誰かに何かの形で選ばれたことも察した。内容までは分からない。しかし、今重要視すべきなのはそこではないのだ。
彼は私がデクくんを選んだと思っている。それは間違いない。では、どういう意味で選んだと思っているのだろう。先ほどまでの発言を思い出しながら、一昨日までの自分の言動も振り返ってみる。
彼から逃げた。拒絶するような素振りを見せた。デクくんを見て安心してしまった。それを彼は「ヒーローが来たみたいな顔」と称した。そして辿り着いたデクくんと彼との「違い」。この現状。
そこまで考えて、漸く気付く。私が彼にとって一番残酷な仕打ちをしてしまった、ということに。そういうつもりじゃなかった。けれど、それは言い訳だ。私が傷付かないための言い訳。そうやって私はいつも、自分だけを守ってきた。それで彼らとの関係を、彼との関係を、守っているつもりになっていた。でも、違った。
彼の頭をぽんぽんと撫でてみる。“神野の悪夢”の後と正反対。あの時は彼が私の頭を乱暴に撫でてくれた。それで、安心した。そういえばあの時も、私は「当たり前」を取り戻すことに必死だったなあと思い出す。「いつも通り」や「当たり前」。私はいつも、それらを求めすぎていた。それがなくなったら、彼を手放さなくちゃならないような気がして。
でも、彼はきっとそれを望んでいなかったのだ。そんなこと、きっと心のどこかで分かっていたはずなのに。
「私が選んだのは、かっちゃんだよ」
今までの「いつも通り」と「当たり前」が崩壊した瞬間だった。