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 彼は一言で言えば硬派で義理堅く真面目な男だった。正しいものは正しいし、間違っているものは間違っている。それを誰が相手であろうとも真正面から言うことができて、尚且つ、それを言っても許される程度の力を兼ね備えているにもかかわらず、決して驕らない。そういう男なのだ。昔から、ずっと。
 私が彼と出会ったのは、彼が本部長になるずっとずっと前のこと。まだ現役バリバリで、ボーダーという組織自体が定着していない頃だった。そんな時代だったから、急にネイバーが出現してもすぐに助けに来てくれることは稀で、命を落とす民間人も少なくなかったと思う。だから私が今生きているのは奇跡みたいなものだった。
 あの日…彼と私が出会った日。外出先から帰宅したら、私の住んでいたはずの家も一緒に暮らしていたはずの家族も消えていて、代わりにそこには家だったのであろう瓦礫の山とネイバーがいた。人の形をしていない得体の知れない大きなバケモノを前に動けずにいた私。家族はどこに行ったのだろうか。逃げることができたのか、それとも。考えている間にもバケモノは近付いてきていて、ああ、ここで私は死ぬんだ、と思って目を瞑ろうとした、次の瞬間。
 ばさりと布がはためく音がして黒い影が横切り、瞬きをしている間にバケモノが真っ二つになっていた。事態が飲み込めていない私の前に刀のようなものを手にして立っていた男…それが彼、忍田真史だ。周囲を確認した後でゆっくりとこちらに足を向けた彼は、驚きと恐怖のあまり腰を抜かしていた私に手を差し伸べてくれた。

「怪我は?」
「だ、大丈夫…です、」
「この家は…」
「私の家です…父と、母と、妹が…いたんです、けど…」
「……分かった。すぐに仲間が来てくれるはずだ。今日のところはボーダーで君を保護しよう。名前は?」

 落ち着いた声音だった。こんな時なのに、こんな時だからこそ、その声がとても心地よくて安心した。それは今でも変わらない。

「最近の調子は?」
「変わりありませんよ。忍田さんは忙しいでしょう?」
「そうでもないさ」
「大規模侵攻があったばかりなのに?」
「忙しかったのは私より、むしろ隊員達の方だ。彼らはよくやってくれた」

 私の家のダイニングテーブルでお茶を啜る彼は、あの日と変わらぬ穏やかな口調でそう言った。現場の指揮を執っていたのは本部長である彼なのだから、被害状況云々は別として、もっと自分を褒めてやってもいいものを、彼はいつも通りに、当たり前のように他者を賞賛する。嫌味など微塵も含んでいない心からの賛辞を、惜しげも無く誰かに与えるのだ。
 彼はあの日以来、こうして私のところに時々やって来ては話し相手になってくれている。家も家族も失ってひとりぼっちになってしまった私のことを気にかけてくれているのだろう。忙しいのにマメな人である。そして、どうしようもなく律儀で真面目な人だった。
 私はただの民間人。彼にとって私は、任務遂行中にたまたま助けただけの女である。それなのに何年も何年も定期的に顔を見に来てくれるのだから、できた人だ。そんなに私はか弱い女に見えるのだろうか。

「忍田さん」
「何だ?」
「もう、大丈夫ですよ、私」
「……と言うと?」
「忍田さんに気にかけてもらわなくても、一人で生きていけます。大人ですから」

 ずっと迷っていた。いつ言おうか、いつこの微温湯から抜け出そうか、迷い続けていた。けれど私は十分すぎるほど彼に縋り付いてきたから、そろそろ解放してあげなければならない。今日、彼が来てくれた時、その決心を固めた。
 私が何も言わなければ、彼はこの先もずっと今まで通り私のところに来てくれていたのだろう。定期的に会って、他愛ない世間話をして、胸をポカポカと温めることができたのだろう。けれどもそれはきっと、彼が望んでやっていることじゃない。
 昔彼は言った。「何も助けられなくてすまなかった」と。彼のせいではないのに、私に頭を下げた。私が家と家族を失った責任を、なぜか彼は背負ってしまったのだ。勿論、あなたが気に病む必要はないし謝られるのはおかしいということは何度も伝えた。何も助けられなかったなんてとんでもない。実際、私はこうして助けられたのだから。
 それでも彼は彼自身を許さなかった。だから、私のところに何年も通い続けているのは、懺悔のために違いない。感じなくて良い責任を感じ、背負わなくて良い荷物を背負い、ずっとずっと私に縛られている。
 本当はもっと早く彼の縄を解いてあげなければならなかったのにそれができなかったのは、私が少しずつ少しずつ、彼に恩人としての感謝の気持ち以外の何かを育てていってしまったせいだ。ごめんなさい。ずっとずっと弱くて。でも、もう、大丈夫。あなたはどうか、自由になって。

「そうか……大丈夫なのか」
「はい」
「私がいなくても」
「……はい」
「君は強いな」
「そんなことないですよ」

 弱いから、あなたを手放すのにこんなにも時間がかかってしまった。弱いから、あなたを求めてしまった。弱いから、好きに、なってしまった。強い、あなたを。

「私は大丈夫じゃないんだがな」
「え?」
「君がいなくなったら、私は全然大丈夫じゃない」
「忍田さん…?」
「弱いんだ。私は。昔からね。だから鍛錬は欠かさなかったし、自分に厳しくしてきたつもりだ。それでも気持ちの部分はどうやっても鍛えられないな」

 彼は何を言っているのだろうか。私に気を遣わせまいとしてこんなことを言ってきているのだろうか。それにしてはどうも真に迫る感じがあるのだけれど、でも、そんな、まさか。
 彼の瞳は揺らがない。私を正面から真っ直ぐに見据えている。こんな風に見つめられるのは初めてのことで、私は咄嗟に視線を逸らしてしまう。そんな私に、彼は尚も追い打ちをかけるように言葉を紡ぎ続けるのだ。

「何年も君のところにこうして来ているのは、君のことが心配だったからじゃない。勿論、心配していなかったわけじゃないが、一番の理由は私が……私がただ、君に会いたかっただけなんだ。命の恩人としてではなく、一人の男として」
「っ、そんな、」
「自分の立場を利用した。弱い男だと思われても仕方がない。それでも、君の傍にいたかったんだ」

 俯く。ぼたぼた。勝手に目から雫が零れ落ちてきて、脚の上にのせている固く握った拳を濡らす。
 誰が弱いなんて思うのだろう。もし今の話が本当なら、私にそういう気持ちを抱いているのなら、自分の立場をもっと利用すれば良かった。命の恩人である自分と付き合え、って。そう言えば済む話だった。私に拒否権なんてないのだから。
 でも彼はそうしなかった。きっとそんな考えを思い付くことすらなかったのだろう。そういう人なのだ。硬派で義理堅く真面目な人。変わらない。ずっとずっと、変わらない。だから、私は。

「弱いなんて思ったこと、ありません」
「ありがとう。だが私は、」
「好きなんです。ずっと。忍田さんのことが。だから私、忍田さんの優しさを利用してました。負い目を感じて私のところに来てくれる忍田さんに、縋り付いてました。でもちゃんと離れなくちゃって、思ってたんです。甘えちゃだめだって。それなのに、なんで…なんで、そんなこと、言うんですか……期待、しちゃうじゃないですか、」
「すればいい。君は私に好かれていると。自惚れてくれたらいい」

 濡れた手で目元と頬を拭って、ぐちゃぐちゃの顔を思い切ってあげる。少し滲んだ視界の先にあったのは、困ったように笑う、少し幼さを含んだ彼の笑顔で。胸がぎゅっと締め付けられた。

「また、来てもいいかな」
「……どうぞ、いつでも」
「次はボーダーの本部長としてではなく、忍田真史として、君に会いに来るよ」
「待ってます」
「……その時は、」
「その時は?」
「今までのように大人にはなれないと思うが……それでも良いのか?」
「勿論……喜んで」

 ぽたり。私の左目から零れ落ちたそれを拭う彼の指先は驚くほどに柔らかくて、もっと触れてほしいと思った。その翌日、「忍田真史」として会いに来た彼に、余すことなく触れられる未来が待っているとも知らないで。

さよならが解ける