- ナノ -



 私の世界は狭いんだろうなあとしみじみ思う。大学とボーダー。基本的にこの二ヶ所と自宅を行き来するだけの毎日で、交友関係も広くはない。ついでに彼氏も同じ大学に通うボーダー隊員ときたら、そりゃあ世界が狭まっても仕方がないのかもしれない、けれども。
 私のいう世界とは、物理的なことに限った話ではない。彼と付き合い始めて、時間が経てば経つほど実感させられるのだ。私の世界は、彼の言動一つで色を変えてばかりだなあ、と。


「二宮くんってなまえ以外の女の人と遊びに行ったりするんだね」
「え?」
「昨日の夕方、商店街の方で女の人と二人で歩いてるところ見たから」
「まあ……ボーダーの人とはわりと普通に喋ってるし、どこかに行くこともあると思うよ」

 講義を終えてのろのろ大学構内を歩いている時に友人から唐突に与えられた情報は、私の顔をほんの少し歪ませた。幸いにも友人は「私は二宮くんと二人なんて何話していいかわかんないや」とぼやいているだけで、私の表情の変化に気付いた様子はなくて安堵する。
 彼と私は同じボーダー隊員であっても同じ隊に所属しているわけじゃないし、もちろん四六時中一緒に過ごしているわけでもない。そして、たとえお付き合いをしている関係であっても、いつどこで誰と何をしているのかを事細かに報告し合う仲でもなかった。別に事細かに知りたいとまでは思っていない。ただ、彼の一日の中でほんの少しでも私の存在を思い出す瞬間があってほしいとは思っている。
 昨日の夕方、彼が誰と一緒にいたのか。私は知らない。そもそもボーダー本部から出てどこかに行っていたことさえ知らなかった。たぶん彼にとっては取るに足らないことだったのだろう。
 でも私は、些細なことだとしても知っておきたかった。やましいことなど一切ないとしても、人伝に聞いて勝手にもやもやしたくなかった。彼の性格上、浮気や二股などは絶対にないと言い切れる。そこらへんは微塵も疑っていない。きっとボーダー隊員の誰かと任務に関連したことでちょっと出かけていただけなのだろうと思う。
 浮気じゃない。二股じゃない。それなら何の問題もない。それはそうかもしれない。けれども、私が引っかかっているのはそういう部分ではないのだ。
 彼とは昨日、朝から晩まで何のやり取りもしていない。大学でもボーダー本部でも会っていないから挨拶すらしなかった。そういう日は少なくなくて、私は寝る前に決まっていつも同じことを考える。二宮くん何してたのかなあ、って。必ず、彼のことを想う。
 彼から告白された時は驚いたけれど、それ以上に嬉しかった。あの女の子に興味がなさそうな二宮くんが私に好意を持ってくれたのだ。どこが好きなのか、いつから好きなのか、きいても全然教えてくれないけれど、でも、ちゃんと好意を伝えてくれたということは、それだけ私を特別な存在として意識してくれているのだろうと自惚れた。私の世界が、色付いた。
 告白されて付き合い始めてから、当然私は彼を特別な存在として意識し始めた。そして今は、たぶん、彼よりも私の方が好きだという気持ちが大きくなっていると思う。だって、毎日寝る前に彼のことを想うのだ。完全に惚れ込んでしまっている。彼はきっと、私のことを想いながら眠りについたりはしていないだろう。そう思うと、ほんの少し世界が色褪せる。

「ボーダー隊員の人だったとしても、彼女としては彼氏が自分以外の女の人と二人でどこかに行くの嫌じゃない?」
「仕方ないよ。任務もあるし」
「なまえも男の人と二人で任務することあるの?」
「今まではないけど……これからはあるかもしれないし」
「ふーん……ていうか二宮くんって常にあのテンション?」
「まあ、そうだね」
「会話弾む? 二人で歩いてるところもほとんど見たことないんだけど」
「私が八割……九割喋ってるかな。大学ではあんまり話さないかも」
「だよねぇ。私からしてみれば、あっちから告白してきたくせに放置っていうか……なまえがちゃんと大事にされてるか心配なんだけど」

 もしかしたら友人は、最初から私と彼の関係性を確認するのが目的で、彼の目撃談を切り出したのかもしれない。告白されて付き合うことにしたと報告した時も驚きより心配が勝っている様子だったし、付き合い始めてからも変わらない様子の私たちを見て何度か「うまくいってるの?」と訊かれることがあったから、友人なりに気にかけてくれているのだろう。
 中学時代からの仲であるその友人は、私の心の内を見透かしたかのように言葉を続けた。「せっかく付き合ってるんだから特別感がほしいよね」と。頷くように俯いた私は、何も言わなかった。

「みょうじさん」
「へ、」
「ごめん、急に声かけて。今いい?」

 突如沈黙を破ったのは、いくつか同じ講義を受けているナカタくんだった。ナカタくんとはグループワークが多い講義でよく同じグループになるから顔と名前は覚えているものの、それ以上の接点はない。その証拠に、今みたいに講義以外の時に話しかけられたのは初めてだ。

「大丈夫だけど……何か課題とかあったっけ?」
「いや、課題はないんだけどちょっと話があって」

 課題以外で話すことなんてないと思うけどな、と思いつつも今から予定があるわけではないし、友人も「私は次講義があるから」と足早に行ってしまい、いよいよ断る理由がなくなってしまった私は、ナカタくんに「いいよ」と返事をする。その返答を受けて「じゃあ行こっか」とワントーン高い声音で言ったナカタくんだけれど、その行く手は早々に阻まれた。

「どこに行くんだ」
「え……誰……?」
「二宮くん?」

 行く手を阻んだのは、まさかの二宮くんだった。何の気配もなく突然現れたから驚いたけれど、彼のことを知りもしないナカタくんは私よりもっと驚いている。硬い表情でナカタくんを見下ろす姿は、彼の身長が高いこともあって威圧感満載だ。まるで今から犯罪者を尋問しようとでも思っているのかと見紛うほどの様相である。

「どこに行くのかと訊いている」
「え? えーっと、あの……?」
「ナカタくんが私に用事があるらしくて、今から話を聞くところだったの。二宮くんこそどうしたの?」

 困り果てているナカタくんに助け舟を出せば、もともとあまり機嫌が良さそうではなかった彼の眉間により一層深く皺が刻まれた。どうして急に現れて不機嫌そうなのかは知らないけれど、初対面の人からしてみれば最悪な印象だろう。彼を知っている私から見ても、今の彼は結構怖い。

「話ならここで終わらせれば良いだろう」
「それは二宮くんが決めることじゃないと思うけど」
「なまえはこの男と二人でどこかに行きたいと思っているのか?」
「どこかにって……別にちょっと話するのに場所を変えるだけだよ」

 なぜかいつもより高圧的な態度で話を進めようとする彼に、初めて苛立ちを覚えた。まるで私が今からナカタくんと良からぬことをしようとしているのではないかと疑っているかのような口振りだからだろうか。自分だって昨日、誰か知らないけど女の人と二人でどこかに行っていたくせに、なんて、関係ないことまで思い出して、更にイライラしてしまう。

「あのー……みょうじさん、この人は誰?」
「あ、ごめんね。二宮くんは、」
「彼氏だ」

 私が説明するのを遮ってまで食い気味に声を重ねてきた彼にぎょっとする。いくら嫌なことがあったからといって、普段なら見知らぬ人にこんな態度をとるほど常識外れなことはしないはずなのに。今日の彼はどうにも様子がおかしい。
 ナカタくんは彼の威圧感に負けたのか、単純にそれほど急いでいる用件ではなかったからなのか、私に「話はやっぱりいいや」と言うとそそくさと退散してしまった。なんだかすごく申し訳ない。

「俺が来なかったらあいつと二人でどこかに行っていたのか」
「さっきも言ったけど、少し話をするのに場所を変えようと思っただけでそんなに特別なことじゃないよ」
「男と二人きりで話すのは特別なことだろう」
「そんなこと言うなら二宮くんだって、女の人と二人でどこかに行くのは特別なことじゃないの?」
「どういう意味だ」
「昨日、誰か女の人と商店街の方を歩いてたんでしょ?」

 彼は「なんでお前がそれを知っているんだ」と言いたげな表情を浮かべた。つまりそれは、私に知られたくない事実だったということなのだろう。
 硬派で真面目な二宮くんでも、私みたいな彼女より魅力的な人がいたら浮ついたことをしちゃうのかもしれない。それが、昨日の出来事だったのかもしれない。そんなことあるはずがないと信じたいのに、心の奥底ではちゃんと信じているのに、今の私には彼の言葉を聞き入れられるほどの余裕がなかった。

「昨日一緒に歩いていたのは、」
「いいよ、別に。二宮くんが誰とどこに行ってても。私には関係ないもん」
「なまえ」
「だから私が誰とどこに行って何をしてても、二宮くんには関係ない」
「関係ある」
「なんで」
「俺はお前の彼氏だからだ」
「じゃあ別れたら関係なくなるよね」

 言っていいことと悪いことの境界線。それを超えてしまったと気付いた時にはもう遅かった。怒らせたかも。面倒臭いなって見放されるかも。これで、終わっちゃうかも。
 ありとあらゆる悪いパターンを想定してから意を決して見上げた彼の顔は、私の予想とは違って悲しみや絶望の色が濃く滲んでいて、胸がぎゅうっと締め付けられた。変化がわかりにくい彼の表情が、今はこんなにもわかりやすい。

「……俺と別れたいのか」
「そういうつもりで言ったわけじゃ、」
「だからあの男について行こうとしたのか」
「それは、」
「俺はお前と関係のない人間なのか?」

 最後の問いかけには、彼らしからぬ自信のなさが垣間見えた。先ほどまでの威圧的な態度はどこへやら。なんなら今の彼は、いつもより小さく見える。

「ごめん。言い過ぎた」
「思ってないことは口から出ないだろう」
「思ってなくても勢いで言っちゃうことはあるよ」
「勢いで別れを仄めかしたくなるほど、俺はお前を追い詰めるようなことをしたのか」
「そこまでじゃ……ない、こともない、かもしれない……?」

 私の曖昧な返答に、ふぅ、と息を吐いた彼は少し冷静になったのか「場所を移して話そう」と言った。どうやらまだ愛想を尽かされたわけではないようだ。けれど、一瞬私の手を取ろうとした彼が手を引っ込めるのを見て、落ち着きかけていた心がまたざわつき始める。これが今の私と彼の距離感だと思ったら、もどかしくて、切なくて、寂しくて。
 さっと手を取って攫ってくれてもいいのに。強引に引っ張って連れて行ってくれてもいいのに。私が逃げないように捕まえてくれてもいいのに。彼はそんなことしてくれない。
 先を行く彼を追いかけなかったらどうなるだろう。反対方向に歩いたら、彼はどうするだろうか。さすがに怒るかな。今度こそ愛想を尽かされてしまうかも。でもこのまま大人しく彼について行って冷静に話し合ったって、私はきっと満たされない気がした。それならいっそ、ここで終わっても良いかなって。
本当はそんなこと一ミリも思っていないくせに、私は彼の気持ちを試したくて背中を向けた。
 二宮くん、私こういう面倒な女なの。知らなかったでしょ。好きになったら重たいの。うざいでしょ。そもそもどこを好きになってくれたのかもわからないままだけど、もういいやって見切りをつけたくなるでしょ。別れたくなるでしょ。
 自分の嫌なところをいくつも並べて、彼と別れるためのもっともらしい理由を探す。いつの間にか彼のことを好きになりすぎてしまったから、同じぐらい好きだって伝えてもらわないと足りなくなっていた。このままだともっと嫌な別れ方になりそうだから、ここで終わりにしたい。そんな身勝手なことを言ったら、彼はさっきみたいに顔を曇らせるだろうか。さっき、別れたいのか、と訊かれた時に別れたいと答えていたら、すんなり受け入れたのだろうか。

「なまえ!」

 呼ばれて振り向くより早く、彼が私の手を掴んだ。ちゃんと追いかけてきてくれたことと、私に触れるのを躊躇わなかったことにちょっぴり安心する。けれども捻くれ者の私は、その安心を表に出さず可愛くない女を貫く。

「俺と二人で話すのも嫌なのか?」
「嫌って言ったら? どうするの?」
「やっぱり、俺と別れたいのか……?」
「そうだよって言ったら?」
「理由をききたい」
「……二宮くんが私のこと本当に好きなのかわかんないからだよ」

 二宮くんから告白されて嬉しかったのに、私はどんどん二宮くんのことを好きになるのに、二宮くんは付き合いだしてからも前と変わらないし、忙しいかなと思って私から連絡するの遠慮してたらほぼ音信不通だし、デートもほとんどしたことないし、私といてもそこまで楽しそうじゃないし、キスもしたがらないし、そういえばまともに手を繋いだこともないし、そもそも告白する相手は私じゃなくて他の人だったんじゃないかなって、

「ちょっと待て」
「……まだ言いたいことあるのに」

 一気に吐き出したら幾分かすっきりしたものの、途中で彼に邪魔をされたせいで不完全燃焼に終わる。どうせこれで終わりになるなら最後まで言わせてくれという気持ちを込めてじとりと見つめれば、戸惑いの色に染まった瞳と視線が交わった。

「お前は俺のことが好きなのか?」
「え……はい?」
「俺のことが好きになれないから別れたいと思ってるんじゃないのか」
「違う、ね」
「それなら別れる必要はないだろう」
「二宮くん、さっき私が言ったこと聞こえてた?」
「聞こえていたから確認したんだ」
 
 彼はすごく頭が良い。戦略を立てるのも上手いし、勉学においても申し分ない成績をおさめていることは知っている。それなのにどうしてこんなにも話が噛み合わないのだろう。もしかして彼は国語の読解だけがもの凄く苦手なのでは、などと失礼なことを考えたくなるほど、そして他に何を言おうとしていたのか忘れてしまうほど、衝撃的な反応である。
 二宮くんのことが好きなのかって、好きだから付き合ってるし、好きだからこんなにも悩んで、好きだから泣きそうになりながら別れの決意までしたんですけど。今まで私の気持ちは全然伝わってなかったってこと?

「俺は告白する相手を間違うような馬鹿じゃない」
「うん? あ、さっき私が言ったこと?」
「なまえは俺のことが好きで付き合っているわけではないと思っていた」
「え、」
「だから不必要な連絡や接触はしないようにしていた。手を出すのも自重していたつもりだ。お前と一緒にいて楽しくないと思ったことはない」
「そう、なんだ……なんで私が二宮くんのこと好きじゃないって思ってたの」
「好きだと言われたことがないからだ」

 実にシンプルな回答だった。彼らしく賢く明快な理由。それに対して「直接的に好きだとは伝えてないけどそこはなんとなく雰囲気でわかるでしょ」と言い返そうとしたけれど、ぐっと飲み込んだ。だって、私も同じだから。言われないと何もわからない。だから勝手にごちゃごちゃ悪い方向にばかり考えて、行き詰まって、最悪の選択をしようとした。彼は良くも悪くも真っ直ぐな人だから、向き合ったらきちんとこたえてくれるってわかっていたはずなのに。
 彼もきっとそうだ。私が言葉にしないと、何もわからない。伝わらない。

「ごめんね、ちゃんと伝えてなくて。私、たぶん二宮くんが思ってるよりもずっと二宮くんのこと好きだよ」
「……そうか、」
「毎日寝る前に二宮くんのこと思い浮かべるぐらいには好きなんだけど……伝わった?」
「…………十分だ」

 嬉しがってくれているのかと思いきや、彼は何やらすごく悩ましげな表情を見せて片手で顔を覆うと、天を仰ぎ見た。パッと見ると何かの彫刻みたいなポーズになっているけれど、そんなに困らせるようなことを伝えた覚えはない。
 もしかしてストレートに伝えられるのは苦手なのだろうか。でも、ストレートに気持ちを伝えなかったから拗れることになってしまったわけだし、そうなると私は伝えるしかないわけで。時間にすると数秒だったと思う。その間に色々考えて後悔しかけていたけれど、彼が掴みっぱなしだった私の手を引いて歩き始めたところで思考がストップした。

「二宮くん、どこ行くの?」
「俺の家だ」
「ボーダーには行かなくて大丈夫?」
「今日は任務がないから行く必要はない」
「これでもう仲直り?」
「もともと喧嘩していたつもりはないが」
「えっ!? さっきのアレって喧嘩じゃないの?」
「話し合いだ」
「話し合い……」
「まだ途中だが」
「あー……じゃあ二宮くん、話し合いの続きなんだけど。昨日誰と歩いてたかきいてもいい?」
「加古だ。一緒に出かけたわけじゃない。あいつが勝手についてきた。任務の途中だった。加古に確認してもいい」
「そんなことだろうと思ったけど、人伝に聞いたら私に言えないことしてたのかなって、ちょっと寂しかったよ」
「次からはこまめに連絡する」
「うん。私もそうするから」
「お前はもう少しガードを固くしろ」
「ガード? 今のままでも二宮くんが心配するようなことは何も起こらないと思うけど」
「さっきのあれは心配するようなことだった」
「そうかなあ」
「自覚がないのが一番の問題だな」

 付き合い始めてから彼とこんなに会話が続いたのは初めてかもしれない。すごくどうでも良いことばかりを話している気がするけれど、すごく楽しい。

「もしかしてなんだけど、嫉妬してくれてた、とか?」
「ああ」
「え、うそ、ほんとに? 二宮くんが? 嫉妬?」
「好きな女に変な虫が寄り付いているのを黙って見過ごせるほど、俺の心は広くない」
「そうですか……」

 冗談のつもりで言ったのに少しも照れずに嫉妬していたことを認められたら、こっちの方が恥ずかしくなってしまう。恥ずかしさ半分、嬉しさ半分。やっと彼から好かれている実感がわいてきて、胸が高鳴る。色付き始める。
 明日、私のことを心配してくれていた友人に報告しよう。私ちゃんと大事にされてるよ、って。彼の特別だったよ、って。
 私の腕を掴む彼の手をするりと抜け出して、指を絡めてみる。彼は私にちらりと視線を落として、嫌がる素振りも見せずすぐに絡めた指に力を込めてくれた。たったそれだけで、また私の心臓が跳ねる。非常に単純だ。
 きっと私の世界は、これからも、彼の言動一つでくるくる回る。輝く。広がる。願わくばあなたの世界も、そうだったらいいなと思う。

カレイドスコープ・ワールド