×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -



 凄腕の営業部長だと聞いた時には、もっとイカつくて強面で、部下がミスをしたら眉をつり上げて怒るか、わざとらしく溜息を吐いて「君にはがっかりしたよ」と嫌味を言ってくるような、とにかく厳しくて怖い人というイメージを抱いていたけれど、会ってすぐ、そのイメージは綺麗さっぱり払拭された。
 思っていたより柔和な印象。ミスをしても怒鳴ることはないし、溜息を吐いて嫌味を言ってくることもない。それどころか「そういうこともある」と、肩を叩いて慰めてくれる。私はボーダー以外の場所で働いたことがないから偏った意見になってしまうけれど、彼はきっと理想の上司ってやつに該当すると思う。
 彼は特別私だけに優しく接しているわけではない。誰にでも同じスタンスで、同じように励ましや労いの言葉をかけ、自分の仕事を淡々とこなしていく。そんなところも、「デキる上司」として憧れる要素の一つだった。

「まだ帰れそうにないのか」
「いえ、もう帰ります」
「そうか」
「唐沢さんこそ、まだ帰らないんですか?」

 特に何事もない一日だった。いつも通りに仕事をしていたのに、就業時間ギリギリになって資料整理を押し付けられてしまって、それに少し手間取っていただけ。何の変哲もない、ただの慌ただしい月曜日だ。
 それが、彼の一言で特別な一日に変わる。

「君を待ってたんだよ」
「は?」

 パソコンの電源を切って、丁寧にまとめた資料の束を引き出しに片付ける途中だった私は、その手を止めて背後の彼へ振り向いた。涼しい顔をした彼は何食わぬ顔で懐から煙草を取り出して火をつけていて、動揺しているのは私だけなのだと思い知らされる。
 じじじ、と煙草の先端が赤く燃えて、彼の口からふぅっと吐き出された白い煙。そこでようやく視線が交わって、ふ、と笑われた。そんなに、思わず笑いが漏れてしまうほど、私はマヌケ面をしていたのだろうか。慌てて口元を引き締めてみたけれど、確実にもう遅い。

「片付けは終わったのかな」
「え、あ、はい、いや、まだです」

 彼の声にハッとして、イエスかノーかわからない返事をしながら慌てて資料を引き出しに押し込んだ。せっかく丁寧にまとめたのに、今の一瞬でたぶんぐちゃぐちゃになってしまったと思う。しかし、今はそんなことどうでもいい。だって、それどころじゃない。
 私が資料を押し込んだのを確認して、彼が近くに置いてあった灰皿に煙草を押し付け火を揉み消した。まだそんなに短くなっていなかったのに良かったのかな、勿体ないな、なんて考えているけれど、これは一種の現実逃避みたいなものであって、決して余裕があるからではない。むしろ余裕の「よ」の字もない状況である。
 だって、突然、本当に突然、憧れの上司から「君を待っていた」と言われたのだ。その他大勢いる部下のうちの一人である私を、彼が待っていた。特別な意味はない、なんてこと、あるわけない……と思うのだけれど、妙な期待で胸を膨らませている私は自惚れすぎだろうか。彼の表情はいつも通り整っているだけで、何を考えているかちっともわからない。

「終わったなら帰ろうか」
「一緒に、ですか?」
「そのつもりだったんだが、嫌なら……」
「嫌じゃないです! 全然!」

 必死すぎて食い気味に言葉を発してしまった私に、彼はまた笑う。こんなに笑う人だっけ? と思ったけれど、そもそも私は仕事中の彼しか知らないから、よく笑う人かどうか判断する材料が不足しすぎていることに気付いた。
 いや、そもそもただの部下が上司のプライベートな部分を知ることなんて、本来なら有り得ないのだ。けれども私はどういうわけか、彼のプライベートな部分に足を踏み入れかけている。その領域に入ることを、たぶん、許されている、と思う。なんで、って、考えれば考えるほど自惚れたくなる自分が浅ましい。

「パワハラにならないか心配だな」
「本当に嫌じゃないです! むしろすごく嬉しいです!」

 三十歳間近、いわゆるアラサー女が、まるで小学生みたいな返ししかできないことに泣けてくる。しかし彼はそれすらも笑ってくれて「安心したよ」と落ち着いた声音を落とした。
 その音色を聞いて私の胸がきゅうっと疼いていることに、彼は気付いているだろうか。彼のことだから、もしかしたらここまでの一連の流れは全てシナリオ通りなのかもしれない。だとしたら私はマリオネットみたいなものだけれど、この際それならそれでいいやと思えた。それぐらい、彼に近付きたくて堪らない。

「嫌いなものは?」
「ないです!」
「じゃあ好きなものは?」
「なんでも食べるんですけど……しいて言うなら洋食より和食が好きです」
「ちょうど良かった。それならいい店があるんだ」

 彼の落ち着いた声音にいちいち胸を高鳴らせながら、夢見心地で後を追う。どうして私を待ってたんですか、と何度も尋ねようとしたけれど、それは音にならぬまま。時間だけがあっという間に過ぎていった。
 彼の好きなものが釜飯と明太子だという収穫を得て、釜飯専門店を後にする。美味しい釜飯御膳をご馳走になり、いよいよ夢の終わりが近付いてきたことを悟った私は、ようやく決意を固めた。どうして私を待ってたんですか。その一言を口にする決意を。
 それなのに彼は、私の決意を見透かしていたかのように先手を打つ。

「ところで君を待っていた理由なんだが」
「えっ」
「知りたいんだろう?」
「それは……まあ、はい……」
「随分と前から君に惹かれていてね。タイミングを見計らっていたんだ」
「そ、そんなまさか、」
「期待していたんじゃないか?」

 そんなまさか。これは紛れもなく私の心の声。しかし、確かに彼の言う通り、全く期待していなかったわけではない。脈ありかも、って、もしかしたらもしかするのかも、って思っていた。そうだったらいいな、って、勝手にドキドキしていた。
 彼にはそれすらもお見通しだったのだろう。できるだけ平然を装っていた自分が恥ずかしいけれど、彼を前にしたらどんな女だって気持ちが透けて見えてしまうと思う。

「期待、しますよ……二人で食事に行く流れになったら」
「それは良かった。これで期待されていなかったら男として自信を失うところだったよ」
「自信もってください。すごくドキドキしてますので」
「はは、じゃあこの後のことも期待してくれていると思っていいのかな?」

 この後のこと? 家まで送り届けてくれるんですか? ……なーんて、そんな雰囲気じゃないことぐらい、ちゃんとわかっているし、期待している。彼のお望み通りに。
 すごくドキドキしてます、という本音を冗談っぽく言ってみせたのは、本当に死ぬほどドキドキしているのを隠したかったからだ。けれど、きっと彼は私のドキドキをわかった上で更にドキドキを上乗せしようと企んでいる。私の下手くそな虚勢など、何の意味もないのだろう。
 憧れの上司から口説かれているというのは、いまだに現実味がない。けれど、ニヒルに笑う彼の顔を見て、ここから先のことはもっと現実味がない展開が待っているのだと思ったら頭がくらくらしてきた。
 返事ができずに黙り込んでいる私に「じゃあ行こうか」と落とされた悪魔の囁き。微笑まれているのに、どこか恐ろしさを感じるのはなぜだろう。ぞくり。背中が粟立った。

「どこに、ですか」
「もちろんうちに。嫌なら……」
「嫌なら?」
「嫌じゃない、とは言ってくれないのか。困ったな」

 嫌でも連れ込む予定なんだが。

 ちっとも困ってなさそうな顔で、本日一番の笑みを傾けながら犯罪まがいなことをさらりと宣う彼に、私は潔く白旗を振った。パワハラですよ、って言ったら逃げられたのかもしれない。けれど、残念ながら私は連れ込まれることを望んでしまっているようなので。

「嫌じゃないです。全然」
「安心したよ」

 その時、彼が本当に安堵したように見えたのは、たぶん気のせい。……いや、もしかしたら気のせいじゃない、かも。

常夜まで、今宵エスコート