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 太刀川は、お世辞にも賢いとは言えない。というか、オブラートに包まずストレートに言うなら、ずばり、馬鹿の部類である。だから大学での成績も、単位を取り切れるかどうか瀬戸際の状態。つまり成績開示をしたら、間違いなく下から数えた方が早いだろう。
 そんな太刀川は、学年首席のみょうじなまえの脳の構造がどうなっているのか、甚だ疑問であった。考えて分かることでもないが、それでも「どんな脳みそしてんだ?」と考えずにはいられない。それぐらい、太刀川にとってなまえは未知の生物だったのだ。

「太刀川くん、手が止まってる」
「書くことなくなった」
「そんなわけないでしょう。まだ二ページ目に差し掛かったばっかりなのに」
「俺としては一ページ書いただけで上出来だ」

 そんな(太刀川にとって)未知の生物・なまえは、太刀川の発言に深々と息を吐いた。しかしなまえは、先が思いやられる、と頭を抱えたくなるのをなんとか堪えて気持ちを切り替えると、太刀川が向き合っているパソコン画面を覗き込む。
 単位を取得するために出されたレポート課題のノルマは五ページ。そう、たったの五ページである。かなり良心的なページ数だ。なまえならものの数時間で終わるその課題も、太刀川の手にかかれば一ページを埋めるのにたっぷり二時間かかっているというのが現状。溜息を吐きたくもなるというものだ。
 太刀川が普段ボーダー隊員として活躍しているというのはなまえも耳にしているが、だからと言ってこんなに単位がギリギリになるまで授業に出られないものなのか、テストの点数が取れないものなのか。そこまでは分からなかった。
 しかしなまえの知る限り、太刀川以外のボーダー隊員(例えば二宮や加古や柿崎)は、問題なく単位を取得できている様子だ。となれば、太刀川に問題があるとしか考えられない。太刀川がなまえの生態を理解できないように、なまえもまた、太刀川の生態を理解することは困難だった。

「太刀川くんが頑張ってくれないと私も帰れないんだけど」
「それは分かってる」
「じゃあ頑張ってくれないかな」
「困ったことにもう限界まで頑張ってる」
「……さっき寝そうじゃなかった?」
「よく見てんなみょうじ。さては俺のことが好きなのか?」
「冗談を言う元気があるみたいだし、残りの四ページなんて私がいなくても終わるんじゃない?」
「待て! 分かった! 本気出す!」

 席を立って部屋を出ようとするなまえに縋り付くように腕を掴んだ太刀川は、格子の瞳でなまえを見つめた。なまえも太刀川を見つめ返す。

「限界まで頑張ってるんじゃなかったの?」
「細かいことは気にすんな」

 ちっとも細かいことじゃないと思うけど、という言葉は飲み込んだ。やる気になってくれたのであれば何でも良い。なまえは気を取り直して、太刀川が再びのろのろとキーボードを叩き始める姿を眺める。
 教授直々に「太刀川を助けてやってくれ」と頼んできたものだから断ることができずこんなことになってしまったけれど、なまえは内心「引き受けるんじゃなかった」と後悔していた。正直言って、ここまで時間を拘束されるとは思っていなかったのだ。

「みょうじ」
「何? 資料ならそこに山積みになってるけど」
「いや、レポートの話じゃない」
「じゃあ何?」
「彼氏いんのか?」
「……レポートに関係ないでしょ」
「お堅いこと言うなって」
「そんなの聞いてどうするの?」

 もともと遅かった太刀川のタイピングの手が止まる。なまえは「先ほど再開したばかりだというのにまた休憩するつもりなのか」と指摘しようとして、できなかった。先に太刀川が口を開いてしまったからだ。

「みょうじみたいな女がどんな男と付き合うのか、興味がある」
「……残り四ページ、自力で全部終わらせられたら教えてあげる」
「やっぱそうくるか〜……」

 太刀川は分かりやすく項垂れて、観念したようにのそりのそりと指を動かし始めた。本当はなまえが平静を装うのに必死だということに気付かぬまま。
 男性経験がゼロというわけではない。けれど、豊富というわけでもないなまえは、太刀川の妙なアプローチの仕方に戸惑っていた。
 興味があるってどういう意味? 揶揄われている? ただレポートの息抜きがてら適当に話題を振られただけ? だとしたら、一人で色々と考えている自分が馬鹿みたいだ。
 そうやってもやもやしている間に、太刀川はゆっくりと、けれども確実に文字数を増やしていっていた。途中で気難しそうな顔をして資料を捲ったりなまえにヘルプを求めたりしながら、カタカタとパソコンに向き合う。
 一ページを埋めるのに2時間かかったのはなんだったのか。資料を丸写ししただけなのかもしれないけれど、残りの四ページを二時間半で終わらせた太刀川に、なまえは驚くばかりだ。やればできるんじゃないか。最初からやる気になってくれればこんなに長い時間拘束されることはなかったのに。

「終わったぞ」
「これで帰れるね。お互い」
「で?」
「うん?」
「彼氏。いるのかって話」

 うーん、と伸びをしながら尋ねてくる太刀川は、意外と記憶力が良いらしい。まさか二時間半前のやり取りを覚えているなんて。と失礼なことを考えているのは、なまえが少なからず動揺しているからだった。
 さらりと「いないよ」って答えれば良い。それから「じゃあ帰ろうか」って続ければ良い。そう思うのだけれど、脳内で考えている通りの展開にはなりそうになくて、なまえは答えるのを躊躇う。

「もしフリーなら俺と付き合ってみるってのはどうだ?」
「は?」
「みょうじみたいなタイプ、興味ある」
「興味ある、っていうのは、好き、とは、違うでしょ……?」
「そうだな。でもまあ、嫌いってわけでもない」

 屁理屈。最低だ。お試しで付き合おうとしている。興味本位で女をたぶらかそうとしている。そんな男と、誰が付き合ってやるものか。
 なまえは自分の荷物をまとめると、静かに席を立った。返事は勿論しない。「その資料片付けておいてね」とだけ言い残し、部屋を出る、つもりだったのに、それを阻止したのは太刀川の手。不器用にタイピングしていた指先は、なまえの手首を絶妙な力加減で掴んでいる。

「返事は?」
「返事をしないっていうのが返事」
「俺には難しすぎるな」
「お断りしますってこと。分かったら離して」

 こんな男は願い下げだと心底思っている。それなのになまえは、自分がなぜかほんの少しだけ太刀川に惹かれかけていることに気付いていた。気付いているからこそ、そのおかしな気持ちに引っ張られないように、冷たく言葉を落としたのだ。
 しかし太刀川はというと、その冷たさを感じないほど鈍感なのか、はたまた冷たさを感じてはいるもののそれを気にするつもりがないのか、掴んだ手首を離すことはなかった。「分からないから離さない」。それこそ屁理屈でしかない感情をそのままぶつけるように、掴んだままでいる。

「私と似たような子、探したら他にいると思うけど」
「俺はみょうじが良い」

 太刀川は女に執着するタイプではない。自分が馬鹿で単純だということは太刀川自身自覚しているから、女関係も深く考えて付き合うことはなかった。だからなまえのような相手を選ぶことはなかったのだ。
 興味本位。確かにその通りではあるけれど、それだけではない。なまえのことを知りたいと思った時点で、踏み込みたいと思った時点で、今までとは違う。太刀川の本能が、そう言っていた。だから掴んだ手首を離すわけにはいかなかった。

「私と太刀川くんじゃ上手くいかないと思う」
「やってみないと分かんねーだろ」
「分かるよ」
「じゃあ賭けるか。俺とみょうじが上手くいくかどうか」

 太刀川が自分に固執する理由が分からないなまえは眉を顰める。賭けまでして自分のような女と遊び半分で付き合いたいというのか。太刀川の考えがさっぱり分からない。
 しかし太刀川よりも、その賭けにのってみようかという気持ちが少しでも芽生えている自分の方が、理解し難かった。間違いだと分かっているのにそちらを選ぼうとする。生まれて初めてのことだ。

「負けた方はどうなるの?」
「勝った方の望みを一つ叶える」

 もし上手くいったら太刀川の勝ち。なまえが太刀川の望みを一つ叶える。もし上手くいかなかったらなまえの勝ち。太刀川がなまえの望みを一つ叶える。至極シンプルで、複雑なルールだ。
 返事をするべきか否か。なまえは迷う。迷って、考えるために沈黙を重ねた。そして。

「いいよ」
「じゃあ決まりだな」

 太刀川はゆっくりとなまえの手首を離した。連絡先を交換する。
 勝敗の決め方も期限も、何もかも不明瞭なまま賭けが始まった。「これから宜しく」と笑い合うお互いの思考は、永遠に分からない。

きみが馬ならぼくは鹿