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 風邪をひいた。しかも咳も鼻水も出ず喉が痛いだけの地味な風邪を。季節の変わり目は風邪をひきやすいだとかなんとかゾエあたりが言っていたような気がするが、自分には関係のない話だと思ってスルーしていたらこのザマである。風邪をひいていようが換装体になれば体調云々は関係ないので、防衛任務にもランク戦にも支障をきたさないことだけは救いだ。
 風邪をひいたこととは関係なく、最近は授業を休むことが多かった。防衛任務がやたら立て込んでいたからだ。俺はお世辞にも成績が良いとは言い難く、赤点ギリギリの教科も結構ある。これで授業のノートも取っていないとなると、試験前に困るのは必至。一歩間違えれば卒業が危うくなってしまう可能性だってある。さすがにそれはマズい。
 というわけで、俺は今、三ヶ月ほど前に付き合い始めた同じクラスの彼女にノートを写させてもらっている。放課後の教室には俺達以外もう誰もおらず静かなもので、外から運動部の掛け声が小さく聞こえてくる程度だ。

「写すだけで良いの? 解き方、教えてあげよっか?」
「そんな時間ねーだろ」
「期末テスト前に詰め込む方が大変だと思うけどなあ」

 彼女の言うことは尤もだが、俺は数学以外にも写さなければならない教科がある。教えてもらうことになるとしても、今日は時間的に無理だろう。
 彼女は先ほどから俺の目の前の席に座って、スマホをいじったり俺の手元を覗き込んだりしている。手持ち無沙汰なのだろう。だからノートだけ借りて明日返すと言ったのに「いつまででも待つから一緒に帰りたい」などと言われてしまえば、それ以上突っ撥ねることはできなかった。

「カゲー」
「暇だったら先帰れ」
「そうじゃなくて」
「まだ終わんねぇぞ」
「うん、そうでもなくて」

 せめて少しでも早く終わらそうと思い暫く黙々と手を動かし続けていた俺に、間延びした声が落とされる。集中力が切れるから無駄に声をかけてくるなと言いたい気持ちはあるが、実際には「なんだ?」と手を止めてノートに落としていた視線を上げる自分が、自分じゃないような気がしてむず痒い。
 せめてもの抗議のつもりで鋭い視線を注げば、くるりとした眼と視線が交わる。すると次の瞬間、マスクをぐいっと引っ張られて顎の下までおろされた。そこで「何しやがる!」と口を開く前に、俺は本日初めて、自分の肌をふわふわとした感情が撫でていることに気付く。
 体調が悪い時や何かに集中している時など、生身の身体の時に限り、このサイドエフェクトは感情の感知が鈍くなることがある。今がまさにそうだ。マスクをずり下ろされて顔を目の前に近付けられるまで、彼女の感情が感知できなかった。
 感情云々に気を取られている間に、彼女の顔がどんどん近付いてくる。そして唇同士がぶつかりそうになる寸前で、俺はどうにか彼女の口元に手を当てて押し返すことに成功した。彼女はあからさまに、むう、と不機嫌さを露わにしているが、冷静に考えて俺の行動は間違っていないと思う。
 誰もいないとは言え、ここは教室。つまり学校内だ。いつ誰がどのタイミングでこの場所にやってくるかも分からないというのに、この女は何を考えているのか。ほんの数秒前とは打って変わってやや刺々しい感情がチクチクと肌を刺しているが、これぐらいで不愉快さは感じない。

「ちゅーしたい」
「何言ってんだ。こんなとこで」
「こんなとこじゃなかったらしてくれる?」
「……今日は駄目だ」
「なんで?」
「風邪ひいてんだよ」

 キスしたぐらいで本当に風邪がうつるのかは分からない。今まで試したこともないし、試そうと思ったこともないからだ。それにそもそも、俺には今までそういう相手がいなかったから、試しようもなかった。
 俺にとって初めての彼女である目の前の女は、今のように突拍子もないことをしてくるから対応に困る。何の前触れもなく飛び付いてくることも多いし、飛び付いてはこないまでも、名前を呼びながら駆け寄ってきて俺のパーソナルスペースに侵入してくるのは日常茶飯事だ。
 最初はいちいち引き剥がしたり「離れろ」と苦言を呈していたが、恐ろしいことにその状態に徐々に慣れてきてしまったらしい俺は、いつの間にか「またか」とスルーできるようになっていた。
 しかし、さすがに公共の場でキスはいかがなものかと思う。風邪をひいていなかったとしても、俺は今と同じように押し返していただろう。
 ずりおろされたマスクを引き上げて、邪魔するなと言わんばかりにノートへと視線を落とす。が、数学のノートを写し終えたところでまた「カゲ」と名前を呼ばれて、集中力が続かない俺は手を止めた。肌に感じる感情は、柔らかい。

「こっち向いて?」
「また変なこと考えてんだろ」
「変なことじゃないもん」
「しねーぞ」
「雅人くーん」

 普段「カゲ」と呼ぶくせに、突然名前を呼んでくるとはどういうつもりなのか。揶揄う目的だとしても心臓に悪い。

「いつまで経っても終わんねーから邪魔すんな」
「じゃあ一回だけこっち向いて」

 しつこい。こういうのは無視するに限るが、俺が顔を上げない限りこの擽ったくて居心地の悪い感覚は消えないのだと思ったら、ノートを写すどころではなかった。俺は渋々顔を上げる。ただし、マスクはしっかり引き上げたままだ。
 本日二度目。目の前のくるりとした瞳と視線がぶつかって、微笑まれる。肌を刺激する感情が、一際柔らかくなった。……と思ったら。
 顔が近付いてきて、マスク越しに唇が触れたのが分かった。直接ではないが、唇同士が触れ合ったのだ。ふふ、と笑う女は、非常に満足そうで癪に触る。

「マスクの上からなら風邪うつらないでしょ?」
「そういう問題じゃねーんだよ!」
「大丈夫。私、健康だけが取り柄だし」

 そういう問題ではない。風邪がうつるとかうつらないとか、俺はそういう話をしているわけではないのだ。何も大丈夫じゃない。この女は、俺より賢いくせに妙なところで馬鹿すぎて頭が痛くなる。

「カゲ、耳赤くない? 熱ある?」
「ねーよ!」

 もし熱があるとしたら、それはおめーのせいだ。口から飛び出しかけた悪態は、唾と一緒にごくりと飲み込んだ。
 あーくそ。喉痛ぇ。この風邪が治ったら覚えてやがれ。俺は心の中でそう独言て、再びノートに視線を戻した。

うつしていいよ