彼は忙しい。昔からずっと。
忍田真史という男は、自分のことを殆ど顧みない。市民のために。誰かのために。常に自分ではなく他人のためにしか行動していないのではないかと思う。
だから、誰かのためであれば、誰かに助けを求められれば、彼はいつどこであろうと行動を起こす。自分がどんな状況に置かれていようとも、その行動に変わりはない。
「忍田さん、最近ちゃんと寝てないでしょう?」
「そんなことはないと思うが…」
「二時間程度の睡眠は“ちゃんと寝た”うちには入らないって分かってます?」
会議を終えた後、広い背中を追いかけながら声をかければ、振り返った彼は疲れた顔で苦笑した。どうやら私の言っていることは理解しているらしい。
彼はここ最近、何かとバタバタしている。元々ボーダーの本部長をしている時点で忙しいというのに、私を始めとする部下に任せても問題ない仕事まで請け負っているからだ。
ネイバーの襲撃を受けてからというもの、ボーダー全体が慌ただしく、特に上層部は今後に向けて早急に改善しなければならないことがあると対策に奔走しているのだけれど、その分、彼らの部下である私達にも沢山の仕事が回されていた。彼はそんな私達の負担を少しでも減らそうと、自分の仕事量を増やしているのである。
頼られていない、というのとは違う。彼は上手に私達を頼ってくれているし、任せられる仕事は適度に任せてくれている。負担にならない程度に、疲労が溜まらない程度に。全て彼が調整しているのだ。
かたや彼自身はどうかというと、ボーダー本部にほぼ泊まり込みで仕事をしていて、食事もまともにできているのか分からない。日に日に目の下のクマがくっきりしてきているような気もする。
しかし彼は、不満を漏らすこともなければ疲れた様子を見せることもなかった。勿論、会議中にうとうとすることもないし、欠伸をするところさえ見たことがない。
単純に、凄いなあと思う。上司として、人として、尊敬もしている。けれど、とても心配だった。昔から、彼は一人で頑張りすぎてしまうところがあるから。
「もうあの頃みたいに、一人でそんなに頑張らなくても良いんですよ」
「……そうだな」
「そのために沢山の優秀なボーダー隊員を育ててきたんでしょう?」
いつの間にか、彼は私の隣を歩いていた。私の歩調が速くなったのかもしれないし、彼の歩調が遅くなったのかもしれない。どちらにせよ、彼の歩調は緩やかだった。
私と彼は、現ボーダーが設立されるより前の旧ボーダー設立時からの知り合いだ。彼がまだ現役バリバリでネイバーをなぎ倒していた頃のこともよく知っている。
今でこそ殆ど前線に出ることはなくなったけれど、その腕は衰えていない。今回だって、彼がいなければどうなっていたか分からないほどの活躍ぶりだった。
あの頃から、彼はブレない。誰も傷付かなくて済むように、誰も悲しまなくて良いように、ただそれだけを考えて行動している。そういうところが好きで、嫌いだ。
まるで自分のことはどうでも良いと思っていそうなところが、どうしてもいただけなかった。彼が人一倍優しいのは私以外の人も知っていることだけれど、彼の無茶の仕方が尋常じゃないことを知っているのは旧ボーダー設立時のメンバーぐらいのものだろう。
「あの頃ほど若くないんですから」
「……君は変わらないな」
「忍田さんに言われたくありません」
「ほら。相変わらず手厳しい」
はは、と乾いた笑いを零す彼は、この後も仕事に没頭するつもりなのだろう。その昔、不眠不休で動き続けて倒れたことがあるのを忘れたわけでもないだろうに、困った人だ。
人には随分と口うるさく「倒れられた方が周りに迷惑がかかるから無理はするな」と説教してくるくせに、自分のことは棚にあげる。そんな感じだから放っておけない。
放っておけない理由は、彼のことが心配だから。そして、好きだからだ。私はそんな浮ついた気持ちを抱きながらも、ずっと彼の傍で親しい友人として、良き仲間として、何食わぬ顔で過ごしてきた。
これからも、今まで通りで良いと思っている。というか、そうでなければならない。今更、この関係を変えることはできないのだから。
「今日は休息日にしましょう」
「少しだけ仕事を片付けたら早めに帰るようにする」
「そう言って朝まで粘る姿が容易に想像できるのでダメです」
「私に説教できるのはみょうじぐらいだ」
「ちっとも言うこと聞いてくれないから意味ありませんけど」
口を尖らせて拗ねたように言ってみれば、彼は「意味がないということはないさ」と薄く笑った。疲れている時ほど笑顔で誤魔化そうとするのは、彼の悪い癖だ。
分かれ道に差し掛かる。私は左。そして彼はいつもなら右に行く。が、今日は違った。私と同じく左に曲がったのである。
ギョッとして隣を歩く彼を見遣ると、彼はふふっと、悪戯が成功した子どものように笑みを零した。元来のやんちゃっぷりは健在ということか。いや、今はそんなことを考えている場合ではなくて。
「忍田さん、どうしてこっちに……?」
「今日は休息日にしようと提案してきたのはみょうじだろう?」
「じゃあもしかして、」
「帰ることにした」
自分から提案しておきながら、彼が私の提案をのんでくれるとは微塵も思っていなかったので驚いてしまう。長い付き合いになるけれど、こうもすんなりと私の言うことを聞いてくれたのは初めてじゃないだろうか。
「一緒に帰ろう」
「え、」
「私が寄り道してしまわないように見張れるのはみょうじしかいない」
「ああ……そういうことですか」
どうやら私は彼のお目付役ということらしい。別に構わない。今までずっとそういう役目を担ってきたわけだし。けれど「一緒に帰ろう」と言った時の彼の声音は、今まで聞いたことがない甘さを孕んでいたような気がしてどきりとしてしまった。
私が一方的に、彼にそういう気持ちを抱いてしまっているせいかもしれない。彼がいつもと違う行動を取って、初めて「一緒に帰ろう」などと言ってきたせいかもしれない。何にせよ、私の勝手なか勘違いに過ぎないとは思うのだけれど。
「たまには自分のために行動するのも悪くないと思ったんだ」
「そうですね。体調管理は大切ですから」
「それもあるが、本質的にはそういう意味じゃない」
彼が立ち止まったので、私もつられて立ち止まる。彼より一歩半行きすぎてしまった私は、僅かに振り返る格好で彼へと視線を向けた。
絡み合った視線は解くことができず、金縛りにでもあったみたいに動けなくなる。彼の考えていることが、私には全く分からない。
「私は君がいないとダメらしい」
「これからも補佐はしますよ」
「できれば、プライベートも含めて、だと嬉しいんだが」
「……どうしたんですか。忍田さん、疲れすぎておかしなこと言ってますよ」
「おかしなことだと思うのか」
思いますよ。だってそんなこと、今まで一言も言ったことないじゃないですか。プライベートも含めて補佐ってどういう意味ですか。そもそもプライベートで一緒に何かをしたことなんてないのに。
期待、しちゃうじゃないですか。忍田さんは女心をもてあそぶような人じゃないって知ってるから余計に。
「思います、よ、」
「人間というのは疲れた時に癒されたくなるものらしい」
「癒し、ですか……」
「この歳になると身に染みる」
だから少し付き合ってくれないか。
それは、真っ直ぐで不器用な彼の、精一杯のお誘いだった。期待しても良いのだろうか。……いや、今はそんなこと考えないようにしよう。柄にもなくそわそわしている彼を見たら、なんとなく自惚れてもいいような気がしてしまったから。
「仕方ないですね。今日だけですよ」
そう返した私の声は、ひどく浮かれていた。そしてその声を聞いた彼もまた、声を弾ませて言うのだ。「じゃあ帰ろうか」と。