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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -



「辻くーん!」
「え、ちょ、ごめん……!」
「あー! また逃げられた!」

 本部の廊下を歩いている時に目の前から歩いてきた人物が誰なのか確認した私は、いつも通りに彼に走り寄る。そして彼もまた、いつも通りにたじろいで、来た道を猛スピードで逃げて行った。
 辻くんと一緒に歩いていた犬飼先輩だけはケラケラと愉快そうに笑いながらこちらに近付いてきたけれど、残念ながら私は犬飼先輩に用事などないので適当な挨拶だけをしておく。「つれないねぇ」なんて言いながらわざとらしく傷付いたフリをされたけれど、勿論無視だ。だってこの人は私如きの言葉で傷付くような男ではない。
 そんなことより、今日も逃げられてしまった。私はあからさまにガックリと肩を落とす。既にお気付きだと思うが、私が絶賛片想い中なのは先ほど猛スピードで逃げて行った辻くんである。整った顔立ちや、美しく、それでいて無駄のない戦闘スタイルは当然のように胸に刺さるのだけれど、彼の魅力はそれだけではない。
 彼が女の子を苦手としていることはそこそこの隊員が知っていると思うが、その反応を見た人はどれだけいるだろう。普段は凛としていて動揺なんて知りません、みたいな顔をしている彼が、あわあわと慌てふためく姿はとってもチャーミングで可愛いのだ。その可愛さを知っている人物(例えば桐絵ちゃんとか栞ちゃんとか)であれば私の気持ちを分かってくれると思うけれど、構いたくなってしまうのは仕方のないことだと思う。
 つまり私は、普段のカッコイイ姿から時折見せる可愛らしい姿まで、彼の全てを好きになってしまった。だからこうして毎日のように想いを伝えようと奮闘しているのだけれど、困ったことにこの三ヶ月、まともに会話をしたことすらないので何も進展していないのだ。とても切ない。

「大声で呼ぶから逃げられるんだと思うよ」
「でも、そーっと近付いてお化けか何かだと思われたら、それこそトラウマになって永遠に近付けなくなると思いません?」
「辻ちゃん、そんなにビビりじゃないと思うけど」
「それに私の目標は辻くんに近付くことじゃなくて、辻くんに想いを伝えることなんです!」

 親切なのか、ただ面白そうだから首を突っ込みたいだけなのか。恐らく犬飼先輩の性格から推察するに後者だろう。アドバイスとも言えないセリフに鼻息荒く答えれば、犬飼先輩は「じゃあ精々頑張って」と言い残してひらひらと手を振りながら去って行ってしまった。
 逃げられることに慣れてきたとはいえ、やっぱり挨拶さえもできないのは悲しい。このままでは、付き合いが長いからという理由ではあるけれど普通に話ができるひゃみちゃんが、彼の特別な存在なのではないかという嫌な感情まで芽生えてきてしまいそうだ。
 これはもう、私も長い年月をかけて彼にじわじわと近付くしかないのか。そんなことを考え続けていたせいかどうかは知らないが、私はその日の夜、珍しく熱を出して寝込んでしまった。まさか辻くんのことを考えすぎて知恵熱が出るとは。まるで初めてのことに挑戦していっぱいいっぱいになってしまった子どもみたいである。
 しかもこの熱は翌日まで続いた。ボーダー隊員になって身体を鍛えるようになってからは風邪もほとんどひかなくなったというのに、恐るべし辻くんパワーだ。いや、勝手に彼のことで頭をいっぱいにして熱を出したのは私だから、彼のパワーのせいってわけじゃないんだけど。
 そして、熱が出た翌々日。私は漸くボーダー本部に顔を出すことができた。フリーの隊員ではあるけれど、毎日のように本部をうろついていた私が丸一日顔を出さないのは珍しかったのだろう。今日は顔を合わせる度に色々な人から「昨日どうしたの?」「風邪? 大丈夫だった?」と声をかけてもらえる。ちょっと得した気分だ。
 そんな妙な浮かれ気分のまま廊下を歩いていた私は、つい二日前とほぼ同じ状況に陥った。目の前から歩いてくる辻くん。しかも今回は犬飼先輩はおらず一人きり。となれば声をかけねばなるまいと口を開きかけたところで、私の脳裏にはなぜか犬飼先輩の言葉が過ぎった。
 大声で呼ぶから逃げられるんだと思うよ。
 犬飼先輩の言いなりになるわけじゃない。けれど試しに、静かに、近付けるだけ近付いてみよう。そんな考えに至った私は、正面から向かってくる彼に視線を送りつつ足を進める。彼はまだこちらに気付かない。一歩二歩三歩。そしてもう少しで擦れ違うというところまできて、彼が私の方を見た。
 別に何も悪いことはしていないのに、やばい! バレた! という罪悪感みたいなものに苛まれるのはなぜだろう。元々後ろめたさみたいなものを感じていたからだろうか。何にせよ、これで事態が悪化したら犬飼先輩のせいだ。抗議しに行ってやろう。そんなことを思っているうちに、彼は足を止めて私を凝視していた。あれ? 今日は逃げないの?

「辻くん、えーと、あの、逃げるの忘れてるよ?」
「みょうじさん、」
「え?」
「き、のう」
「きのう?」
「何かあった……?」

 逃げないことにも驚いたけれど、私の苗字を覚えてくれていたことやそれに続く発言が信じられなくて、彼を見つめながら思わずキョトンと首を傾げてしまう。すると彼は一瞬で視線を逸らした。口元を手で覆いながら頬をちょっぴり赤く染めている姿はやっぱり可愛い。
 ていうかそんなことよりも、辻くん、今何って言った? 「昨日何かあった?」って。まるで私のことを気にかけていました、みたいな口振りじゃないか。…え、もしかして、本当に気にかけてくれてた? まさか。でも、そのまさかだったりして。
 あまりにも御都合主義な解釈ではあるけれど、そう思い至った私の脳内は一気に花が咲き乱れていった。まったく、おめでたい脳みそである。

「実は熱が出てて寝込んでたんだけど! もうこの通りすっかり元気!」
「それ、なら……良かった、」
「心配してくれてたんだよね? 嬉しい!」

 我ながらなんとも一方的な気持ちの押し付けだとは思ったけれど、彼は否定の言葉を発さなかった。それどころか、とても小さな声ではあるけれど言ってくれたのだ。「毎日会うのが当たり前みたいになってたから気になった」と。
 あの辻くんが。女の子が苦手で私から毎日のように逃げていた辻くんが。今日は逃げないどころか、私のことを気にしていたという発言までしてくれた。こんなに幸せなことってある? いや、ない。ないよ。

「辻くん! 私辻くんのこと好き!」
「え! いや、そういうのは、ちょ、っと……ごめん!」
「あ! 待って! 辻くん!」

 脱兎の如く駆け出した辻くんを追いかけようと思って一歩を踏み出したけれど、二歩目を踏み出すのはやめておいた。だって、明日も明後日も明々後日も、来週も来月も来年も、辻くんに会える日はこれから先いっぱいあるはずだから。いつか私の気持ち、受け止めてね!

らぶ未遂