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スイッチONからのON

 なまえに大声で叫ばれた時、数秒間フリーズした。何が起こったのか、状況理解に時間を要したのだ。誰に何を叫ばれようがどんなに罵られようが、今まで動揺したことはなかった。動揺する必要がなかったからだ。しかし相手がなまえとなると話は別である。
 なまえが何を考えて何を思っているか、いつもわからなかった。小さなことであっても、我慢していることがあるのではないか。困っていることや悩んでいることは本当に一つもないのだろうか。妊娠したことを告げられた後は特にそれらが気になっていた。だから後から冷静に振り返ってみると、しつこく詰め寄りすぎていたのかもしれないと反省している。とはいえ、そのおかげでなまえの本音を聞くことができたのは良かったと思う。
 あの一件以降、なまえはまあまあ素直に思っていることを言うようになった。といっても、時々食べたいものをリクエストしてきたり、今日は早めに休ませてほしいと言ってくるぐらいで、俺からしてみれば我儘でもなんでもないレベルの内容ばかりだが、それでも、何も要望を言ってこなかった今までのことを思えば相当な進歩だと言えるだろう。
 クリスマスはなまえの好きなものを食わせた。年末年始はお互いの実家に顔を出し、なまえも腹の子も元気だと報告してきた。平凡で平和な日々だ。
 なまえには結局ほとんどつわりの症状が出ぬまま年を越し、一月中旬に差し掛かる頃には安定期に入った。そろそろ腹が出てくるのかと思っていたのだが、なまえの体型は今のところほとんど変わっていない。健診では問題なく育っていると言われたらしいが、こんなに細いままで本当に大丈夫なのかと不安になるぐらいだ。干渉しすぎると嫌な顔をされることがわかっているから何も言いはしないが、勝手に気にする分は許してほしい。

 安定期に入ってから、なまえは職場で妊娠していることを公表した。それと同時に、俺は上司に提案されて自分が父親になる予定であることをマスコミに発表した。世間的にどう受け取られるかは知らないし、世間の反応など俺にとってはどうでも良いことなのだが、「大・爆・殺・神ダイナマイトが父親になる」というのはビッグニュースらしく、今後の活動にも良い影響が出るだろうと言われたからだ。
 報道後、任務終わりに一般市民から祝福の声がかけられるようになり、他の事務所の人間からは祝福の言葉をかけられるだけでなく、なぜか感動された。まあ上司の見立て通り、俺の世間的なイメージは右肩上がりのようだ。イメージなど全く気にしていないが、四月から事務所を開設するにあたって人員を集める上では「良い影響」なのかもしれない。
 高校時代の奴らからは祝福や冷やかしの言葉とともにパーティーをしようと提案されたが、四月に事務所を開設して落ち着くまでは無理だと断った。それぐらい忙しかった。忙しいが、充実していた。そんな矢先の出来事だ。

「奥さんが妊娠して、たまったりしてません?」
「あ?」
「とぼけないでくださいよ。夜のアレ。できるもんなんです? できるとしても気違いそうだし、逆にストレスになるのかなと思って」

 うちの事務所と他の事務所で大きめの合同任務にあたり、その打ち上げと称して開催された飲み会の席。俺は隣に座っていた他事務所の同年代(おそらく一、二歳差)の男の口から飛び出したセリフの内容が何一つ理解できず、眉間の皺を深くした。
 男はビールを浴びるように飲んでいて、酔っ払っているのは一目瞭然。だからその口から飛び出した言葉をまともに受け止める必要は全くないだろう。こういう面倒な野郎は無視するに限る……と思っていたのだが、男は俺が何も言わないのをいいことに、ペラペラと胸糞悪いことを言い始めた。

「かなり稼いでるんでしょ? そういうお店にいけばいくらでもイイコトしてもらえるんだし、ダイナマイトの相手ならどの女の子も喜びますって」
「……」
「あ、それかアレ、ほら、このタイミングで浮気とか。よく聞きますよねぇ、妻が妊娠中の浮気。ぶっちゃけ奥さん以外の人に目を奪われることとか、」
「ねえわ」
「えぇ?」
「ねェっつってんだよ。いい加減黙れや」

 久し振りにここまで低い声を出したと、我ながら驚いた。地を這うような、という表現をすれば伝わるだろうか。本気で怒っている時、人間は大声で怒鳴ったりしない。少なくとも俺はそうだ。つまり俺はそれぐらい最高潮に頭に血が上っていた。
 男はそこでようやく少し冷静さを取り戻したのか、口を噤んだ。これでこれ以上イラつくことなく過ごすことができる。……と思ったのだが。俺の考えは甘かったらしい。

「浮気は男の甲斐性でしょ。俺の周りの既婚者は大体そんな感じのこと言ってますよ」
「テメェの周りにはろくな男がいねンだな」
「またまたぁ……飲みの席だしダイナマイトもぶっちゃけちゃって良いんですよ? 普段言えないことぱーっと言っちゃったらどうです?」
「……だったら遠慮なく言ってやる」

 堪忍袋の尾が切れた俺は、手に持っていたジョッキをドンとテーブルに置いた。騒ついていた周りもその音に驚いて静まり返りこちらに視線を向けてきたが、俺は気にせず続ける。

「さっきから黙って聞いてりゃぺらぺらと……こっちは浮気って単語聞くだけで胸糞悪ィんだよ!」
「へ……」
「惚れた女を守ンのが男の甲斐性だ! 覚えとけ!」
「は、はい!」

 前言撤回。本気で怒っている時は大声で怒鳴ったりしない……わけがなかった。俺は昔から、腹が立てば大体声量が馬鹿になる。これでも学生時代より沸点が高くなったと思っていたのだが、そうでもなかったのかもしれない。まあ今回ばかりはこのクソ男が全面的に悪いに違いないが。
 これも仕事の一環だと思って参加したが、やはり来なければ良かった。こんなところで無駄金を払ってクソ野郎と酒を飲むより、さっさと帰ってなまえと飯を食っていた方がどれだけ有益だっただろう。俺はジョッキの中に残っていたビールを飲み干して立ち上がると、いまだに呆けている幹事のところに行って「先帰る」とだけ告げて足早に店を出た。

 タクシーの中でもイライラは落ち着かずもう一言二言ぶちまけてやれば良かったと思っていたが、家に帰ってなまえの顔を見た途端、すうっと胸がすっきりするのだから不思議だ。「打ち上げ終わるの早かったんだね」と言うなまえを見つめながら、飲み会で言われたセリフの数々を思い出す。
 なまえの妊娠が発覚してから、セックスはしていない。だからたまっていないと言えば嘘になるが、代わりに他の女で……という発想は全く思い浮かばなかった。というか、なまえ以外の女にそういう目的で近付かれたり触れられたりすることを想像しただけで虫唾が走る。
 もちろん浮気などもってのほかだ。「浮気」という単語を作った人間の神経を疑うレベルで有り得ない。そもそも惚れた女と結婚していて他の女に目移りするなんてどういう思考回路になっているのか。俺には永遠に理解できないだろう。まあ理解する気もないし、したくもないのだが。

「どうしたの? 疲れた? お風呂準備できてるけど」
「なまえ」
「うん?」
「こっち来い」
「何……? ほんとにどうしたの? 何かあった?」

 俺がぼーっとしていることが珍しかったのか、なまえが心配そうに近付いてきて顔を覗き込んできた。その身体をそっと抱き寄せて、包み込む。
 理由はなかった。ただなまえの体温を欲していただけ。コイツは俺のものだと、離さないと、泣かさないと、守るべき存在の温かさを確かめたかっただけだ。

「酔ってる?」
「かもな」
「勝己、酔ってるのか酔ってないのかわかりにくいから……」
「酔ってねえ」
「ほら……会話噛み合ってない」

 躊躇なく俺の背中に手を回して「もう寝る?」と鼓膜を擽る声に安心感を覚えた。と同時に、急にムラっとしてきて、顔をなまえの首元に潜り込ませ何度か口付けを落とす。最後に強く吸い付いて久し振りについた印を舐めて顔を上げると、女の顔をしたなまえと視線がぶつかった。
 キスとハグは毎日している。流れるように。日課のように。だから口付けぐらいでお互いのスイッチが入ることはないと思っていた。しかしそれはただそう思い込もうとしていただけで、実際は押しとどめていたのかもしれないことに気付く。もし俺だけではなくなまえもそうなのだとしたら? 今この瞬間、なまえがこの後に期待しているのだとしたら? どう動くべきか、激しく迷う。
 あえて触れないようにしていた。あえて確認していなかった。妊娠中の夜の営みについてどうするか。シラフじゃない時に勢いで訊くのはダメだ。今じゃない。たとえそういう空気になっているとしても、今日は違う。どうにか踏みとどまっている俺の理性を崩せるのは、当然、この世でたった一人だけだ。

「…………する?」

 ごくり。喉が鳴った。