時々思うことがあった。私は今、長い夢を見ているだけなのではないかと。長い眠りから目覚めたら、隣に彼はいないのではないかと。そんなわけないのだけれど、これは現実だとちゃんとわかっているのだけれど、それでも怖かった。こんな、まさしく幸せを絵に描いたような日々のど真ん中に、自分がいることが。
もちろん、この意味のわからない漠然とした不安を口に出したこはない。しかし彼はどういうわけか、私が謎の不安を胸に抱え始めると、決まってタイミングよく名前を呼んでくるのだ。まるで私を現実世界に引き戻すみたいに、私が生きている世界は夢の中じゃないと諭すみたいに、「なまえ」と。
私たちが結婚して一年が経った。彼と出会って三度目の春。桜はつい最近満開になったばかりだと思っていたのに、いつの間にか葉桜になり始めていた。
暖かさと寒さが入り混じるこの季節は、服装に悩む。春もののコートと薄手のカーディガンどちらを羽織るか。ニットはさすがに暑いけれど、暑いからといって半袖シャツを引っ張り出すのは早すぎるし、それなら何を着るのが正解か。悩んだ挙句、結局いつも薄手の長袖シャツやブラウスばかりを着回しているのだけれど、天気予報には毎日振り回されてばかりだ。
彼は特別オシャレに気を遣っているわけではないようだけれど、おかしな格好をすることもなかった。周りの目は気にせず着たいものを着る精神なのに、季節感を考えたコーディネートをスパッと決められるのが羨ましい。おかげで出かける前は、いつも彼を長々と待たせてしまう。だからといって彼が「早よしろや」と急かしてくることはなくて、私が悩んでいるのを呆れたように眺めているだけだった。その視線が生温かすぎて居た堪れないのは、私だけの秘密。だってこんなことで文句を言ったら、世間の皆様から「贅沢者!」と怒られてしまうに違いないから。
二人で街中を歩いていても好奇の目で見られることはなくなった。ただやっぱり彼は人気者のヒーローなので「ダイナマイトだ」とひそひそ指をさされたり、子どもに「ダイナマイト!」と大はしゃぎされることは避けられない。プライベートで絡まれると眉間に皺を寄せていた彼も、いつからか適度にあしらう程度の対応はできるようになっていて、少しずつサービス精神ってものをわかり始めたのではないかと思う。
時々「結婚してから丸くなったなあダイナマイト!」と見知らぬおじさんに声をかけられて「俺ァ今も昔も変わってねェわ!」と叫んでいるけれど、その光景すらも「また言ってるよ」と和やかな目で見られていることに、彼は気付いているのだろうか。何にせよ、世間から「幸せそう」「愛妻家」として認知されるようになったのは、嬉しくもあり恥ずかしくもあり、擽ったかった。
彼もなんだかんだでそう言われることに慣れてきているのか、その手のテレビ番組に呼ばれてもあまり拒まなくなったらしい。バラエティ番組に出るのはヒーローの仕事じゃないと言っていたのに、こういうところでもやっぱり彼は「変わった」のだと思う。
そんな、ぬるま湯に浸かっているような日常が続いていたから、すっかり忘れていたのだ。彼にも私にも、少なからず敵がいることを。そして敵はヴィランだけとは限らないということも。
「ダイナマイトの奥さんですよね?」
「……どちらさまですか?」
仕事帰り、正面から現れた女性に突然声をかけられた私は立ち止まった。日が長くなってきたので、夜の六時でも世界は明るい。だから目の前の女性の顔もよく見えた。
肩ぐらいまでの黒髪に丸い眼鏡をかけた中肉中背の女性。記憶力には自信がある方だけれど、彼女に見覚えはなかった。髪型が変わったとか以前は眼鏡をかけていなかったとか、多少の変化はあるかもしれないけれど、整形でもしていない限りほぼ間違いなく初対面だと断言できる。しかし彼女は一方的に私のことを知っているようだ。なぜだろう。
先にも言ったように、彼はバラエティ番組にも出演するようになった。そして結婚後は当然のように私との関係をネタにした番組が多い。けれど彼は、私の顔出しに断固としてNGを出していた。おそらく私の過去のあれこれやプライベートを配慮してのことだろう。だから、街中で一緒に歩いている姿を見られた時ぐらいしか私を「ダイナマイトの妻」として認識する機会はないはずなのだけれど、たまたま見かけた程度で特別美人でもなければ可愛くもない平凡な顔立ちの私のことを認識しているなんて、明らかにおかしい。
彼の熱烈なファンか、私に個人的なしがらみがあるか。そのどちらかの線が濃厚だろう。どちらにせよ、私に対して負の感情を抱いていることはなんとなく察した。
「私に何か用ですか?」
「ええ、まあ」
一歩、彼女が近付いてきたのと同時に、一歩、後退る。彼女がどんな“個性”をもっていたとしても私には効かないけれど、どんな能力かわからない以上、最大限の注意を払わなければならない。私に何かあったら、少なからず彼に迷惑をかけてしまう。それだけは絶対に避けたい。
ゆっくりと歩を進める女性から一定の距離を保って後退し続ける。運の悪いことに人通りの少ない路地裏だから、誰かが歩いて来てくれそうな気配はない。このまま大通りまでダッシュするべきか。しかし背中を見せるのは危険な気がする。
あらゆる可能性と現状の打開策を考えている私に、女性は言う。抑揚のない声で、怒気も嫌悪感も攻撃的な姿勢もなく、淡々と。
「私はね、ずーっとダイナマイトのファンなんです。彼がプロヒーローとしてデビューする前、雄英高校の体育祭で高校一年生の彼を見た時からずっとですよ。あなたは? いつからダイナマイトのことを知っていますか?」
「それに答えてどうなるんですか?」
「答えてくれなくても結構です。どうせ私より前から知っているわけじゃないでしょうから。それにね、いつからダイナマイトのことを知っているかは問題じゃないんですよ」
「あなたが何を伝えたいのか私にはわかりません」
「単純なことです。私はずっとダイナマイトを応援し続けてきた。常にヒーローとして輝き続けていた彼を。もちろん今もです。でも残念なことに、あなたのせいでダイナマイトは変わってしまった。私はそれが許せない。ただそれだけです」
「だから私を殺そうとでも?」
「まさか! そんな力、私にはありませんよ」
確かに彼女から殺意は感じなかった。けれど、油断はできない。と、身を引き締めた時だった。後ろに動かそうとした足が壁にぶつかる。どうやらまんまと行き止まりの道に追い込まれてしまったらしい。さてどうするか。
大丈夫。こんな時のために護身術を身に付けているのだ。相手は女性。屈強な男なら厳しいかもしれないけれど、体格差もそんなにない女性なら十分対処できる。
身構える私に、やはり攻撃的な動作をひとつも見せずに近付いてくる女性。その距離、あと三歩、二歩、一歩。そこで私は手を伸ばしてきた女性の横をすり抜けた。武器らしきものを持っていないところを見ると、最初から危害を加えるつもりはなかったのだろうか。
そんなことを考えたせいで、ほんの一瞬、気が緩んだ。その隙をついて、彼女が私の肩を叩いてきた。ポンポンポンと軽く三回。しまった。これで彼女の何かしらの“個性”が発動してしまうかもしれない。今更かもしれないとは思いつつも、私は再度身構える。けれども彼女はもう私に近付いて来ようとはしなかった。
「さようなら、爆豪勝己」
彼女はなぜか私ではなく彼の名前を唱えた。意味がわからない。しかしもっと意味がわからないのは、私より彼女の方が困惑していることだった。
「どうして……?」
「どういう意味? 私に何をしたの?」
女性は私の質問に答えず、困惑したまま逃げるように走り去って行った。一体何だったのだろう。わからない。けれど、とりあえず危機は免れた。一気に肩の力が抜ける。しかしこれで終わりとは思えなかった。
彼女の狙いが何かわからない以上、もしかしたらまた同じように接触を図ってくるかもしれない。となると、このことは彼に伝えておくべきだろう。本当は無駄な心配をかけたくないから彼には言いたくないけれど、後からこんなことがあったと知ったら激怒されること必至だ。
彼に守ってもらうために結婚したわけではない。私は今まで通り、自分のことは自分で守りたいと思っている。ただ、以前の私と違うのは、誰かに頼ってもいいと思えるようになったことだ。もっともその「誰か」は彼しかいないのだけれど。
「気色悪ィ女だな。怪我は? 本当に何ともねえのかよ」
「今のところは」
「しばらくは一人で帰るのやめろ。迎えに行く」
「いいよ。大丈夫」
「お前の“大丈夫”は信用できねェ」
「できるだけ誰かと帰るようにして大通りを歩くようにすれば“大丈夫”でしょ?」
「ったく……何かあったらすぐ連絡しろ。わかったな?」
「うん。ありがとう」
女性の話をしたら、彼は予想通りと言うべきか、非常に怪訝そうな顔をしていたけれど、今のところ無事だと確認できると安堵で表情が和らいだ。きっと彼は、無意識に責任を負っているのだ。私と結婚すると決めた時から。
結婚する前、彼は私と私の両親の前で宣言した。「俺が一生守ります」と。そして結婚式の時にも「絶対幸せにします」と言ってくれた。そんなの結婚する前なら誰だって言うかもしれない。口先だけならなんとでも言えると思うだろう。しかし彼はそんな人間じゃない。自分の言ったことは絶対に守る。そういう男なのだ。だから私に何かあったら自分のせいだと思うに違いない。それゆえの安堵。
いらぬ責任を負わせたことは申し訳ないと思う。しかし、申し訳ないなどと言ったら彼は本気で怒るだろうから、私は何も言わず甘えている。私だって結婚する前に決心したのだ。彼に頼るって。一人じゃなくて二人で生きていくって。だから私は、私のできることをしなければならない。彼の宣言を守りきるためにできることを。
そんなわけで私は、彼との約束通り、極力一人にならないよう行動し、人通りの多い道を選んで歩くようにした。何かあった時すぐ彼に連絡ができるよう、スマホの設定まで変えた。しかし私たちの心配をよそに、それから一ヶ月が経っても女性は現れなかった。お陰で彼の誕生日をゆっくり祝うことができたのは有り難かった、けれど。どうにも胸のざわつきがおさまらない。
杞憂ならそれでいい。このまま、何もなかったね、で終われば万々歳だ。しかしなんとなく、このまま終わるとは思えなかった。理由はない。しいて言うなら女のカンだ。そしてそのカンは当たってしまう。最も残酷な形で。
私たちの世界はいつだって、容易く壊れる。