彼のことだから絶対に気付いていると思っていた。気付いていて、わざと知らぬフリを決め込んでくれているのだ、と。そんな確信めいたものがあったのだ。彼だけではない。もしかしたらあちら側の彼も、今目の前にいる彼とまるで示し合せるかのように、私の存在を無視してくれていたのかもしれなかった。
「ホークスさん」
「…あらら。見られちゃってたか」
「白々しい」
「いやほんとに気付いてなかったから」
「どういうことですか」
「まあ、そういうこと、ですよ」
そういうこと。エンデヴァーが必死になって命を賭してまで戦った状況は、自分達が作り出した、と。全てはシナリオ通りだった、と。「そういうこと」として解釈しても良い、ということだろうか。エンデヴァーが今この世界において正真正銘のナンバーワンヒーローだと世間に知らしめるかの如くお膳立てした彼が、まさかそんな。
背中の翼は随分と貧相になっていて、彼も満身創痍だったことが窺える。ナンバーツーヒーローとして、市民を守るために力を使ったのは間違いない、のに。どうして。
「裏切るんですか」
「何を?」
「世界を。ヒーローに…あなたに、憧れている人々を」
「違うなあ」
「何が違うんですか」
「本当にききたいのはそんなこと?」
違うよね? と。彼は不敵に笑う。曖昧で不明瞭で的を得ない問いかけにもかかわらず、彼が何を言わんとしているかが分かった私は、息を飲むしかなかった。私が本当にききたいこと。彼の部下として働き始めてまだ数ヶ月程度の私が、彼に本当にききたいこと。
彼の役に立てている自信はなかった。それでも振り払われないように、いらないよって捨てられてしまわないように、これでも必死に食らいついてきた。最近では現場に連れて行ってもらえることも増えてきて、漸く彼の背中が見えてきたと思っていたのに。彼は翼を大きく広げて、また見えないほど遠くに飛んで行ってしまう。私を置き去りにして。
「私を、置いて行っちゃうんですか」
「正解。それが本当にききたかったことだ」
「答えてくださいホークスさん」
「答えたら納得してくれる? しないでしょ」
賢い人だ。その賢さと素晴らしい“個性”、広い見聞を持っていて、周りもよく見えている。支持率の高さが示すように、市民達からの人望も厚い。それなのに彼は、自分がナンバーワンになれるとは思っていないようだった。というより、ナンバーワンになるつもりは最初からなさそうだった。
いつかきいたことがある。「ホークスさんはなにがしたいんですか」と。漠然とした疑問だったにもかかわらず、彼は特に気に留めることも嫌そうな顔をするわけでもなく、迷わずこう答えた。「ヒーローが暇を持て余す社会にしたいんだよ」と。そのセリフを吐き出した時の彼の顔は、夢を見ている子どものようでいて、遠く遠くの未来を見通している玄人のようでもあった。
アンバランスな人なのだ。優しくて人当たりがよくてよく笑う。それなのに、ふとした瞬間に、恐ろしいほど冷酷で生気を宿していない目をしたりする。どちらも本当の彼なのかもしれないけれど、そのどちらも彼ではないような気もした。結局私は、彼のことが何ひとつ分かっていないのだ。
「……今していることは、ホークスさんの手に入れたいものに繋がっているんですか」
「さあどうかな。俺には未来なんて見えないから分からない」
「でも正しいと思っているからやっていることなんでしょう?」
「正しいか正しくないか。それを決めるのは俺じゃないよ」
私と対峙する彼の眼光は鋭くて、けれどもどこか憂いを帯びていた。ほら、またアンバランス。いつもつけているゴーグルは先ほどまでの戦闘によって壊れてしまったのだろう。いつもは隠されている素顔が晒け出されていて、そのお陰で何かを察することができた。
彼が敵とどういう関係にあるのか。それは先ほどのやり取りだけでは分からなかった。本当にヴィランの仲間になるつもりなのかもしれないし、ヒーローとして危険を冒してでもヴィランの懐に潜り込もうとしているのかもしれない。問題はきっと、そこじゃないのだ。
「私、クビになっちゃいますか?」
「なんで?」
「それとも殺されちゃいます?」
「ヒーローは人殺しなんてしません」
「でもここに来て知っちゃいけないことを知っちゃいましたよ、私」
「んー、どうしようかな。どうしたら良いと思う?」
「それは私に委ねちゃいけないことだと思いますけど」
恐らく最重要機密事項を知ってしまったであろう私を生かしておくのは、彼にとってナンセンスに違いないだろう。勝手についてきて勝手に秘密を知ってしまった私を生かしておくことなんて、普通なら有り得ない。敵になるのであれば尚更。
だから優しい彼ができるだけ責任を感じなくて済むように、罪悪感を少しでも取り除くために、私は努めて明るく死を迎え入れようとした。良いんだ、私は。ここで命が潰えても。憧れの彼に、大好きなヒーローである彼に全てを奪ってもらえるなら。
「じゃあ、」
すうっと。彼の“剛翼”が私の首筋を撫でた。目を瞑る。そして、
「やめた」
「え、」
「帰りましょうかね」
「ちょっと待ってください! 私、死んでな」
「秘密」
「はい?」
「秘密、守れるでしょ」
「…そんな口約束だけで信じて良いんですか」
「裏切られない自信があるんで」
「どうして?」
大きな翼を元の位置に戻して光の方へ向かう彼の表情は逆光でよく見えない。目を凝らす。それでもやっぱり見えなくて一歩彼に近付けば、俺のこと好きでしょ、と攻撃的なセリフによって突然胸を突き刺された。
押し黙る。ヒーローとしては好きですよ。そう答えれば良かった。今からでも遅くないからそう言えばいい。のに、私の口はなかなか思うように動いてくれない。
「その“個性”、これからも俺のために使ってね」
「…当たり前じゃないですか」
「返事は全部終わってからでも良い?」
「返事?」
「そのオキモチに対するオヘンジ」
「全部終わるのっていつでしょうね」
「明日かもしれないし一年後かもしれないし終わらないかもしれないから何とも」
「良いですよ……待ってます。ずっと」
彼の手が私の手の方に伸びてきて小指同士が絡んだ。秘密の共有と未来の約束。あまりにも重すぎる二つの事柄を、子ども染みた小指に託す。
こうして私達は、共犯者となった。ヒーローが暇を持て余す社会を手に入れるために。