感情というのは基本的に邪魔なものだと思う。楽しそう、面白そう、カッコ良さそう、モテそう。そんな浮ついた感情に突き動かされてヒーローを目指す輩はこの世界に五万といて、そういう奴らは大抵ヒーローになれない。もしくは、なれたとしても大した活躍はできない。誰かの役に立ちたい、助けたい、守りたい。これらは感情というより信念で、この手の信念を持ち合わせている奴らはヒーローに向いている…というのが俺の個人的な見解だ。
俺の同期は大体がプロヒーローとして活躍していて、俺と同じく雄英の教師を務めている奴もいる。皆、信念を持って仕事をしている連中だ。そして今、俺の目の前で白いベッドに横たわっている元同級生の女も、例に違わずヒーロー……だった。数年前までは。
公にはなっていないが、オールマイトが深傷を負うことになった数年前の事件。その際、俺と彼女と数人のヒーロー達が、先にそいつと対峙していた。圧倒的な力の差に為す術がなかった俺達は、せめてオールマイトが来るまで時間稼ぎをしようとそいつを必死に食い止めていたのだが、束になってかかろうともどうにもならず。ほんの一瞬、引いた方が良いのではないか、などと少しでも怖気付いたのがいけなかったのかもしれない。
俺の隣にいた彼女はあっと言う間に敵に捕らわれてしまい、取り返そうとしたところで俺に手が届くわけがなかった。圧倒的な力の差。あの時ほど、自分の非力さを恨んだことはない。結局、俺が何もできずに手をこまねいている間に、彼女の“個性”は奪われてしまっていた。
「俺のせいだ」
「違うよ」
「守れなかった、」
「違う」
「俺が一瞬気を抜いた」
「違う! ……相澤くんはヒーローでしょう?」
「……、」
「私も“あの時は”ヒーローだった。だから、自分のことは自分で守らなくちゃいけなかったんだよ。相澤くんのせいじゃない」
白いベッドの上で俺を見つめてくる瞳に揺らぎはなかった。凛としていて真っ直ぐで、もう二度とヒーローには戻れないとは思えぬほど強い眼差しだった。
相澤くんはヒーローでしょう? その問いかけに答えられなかったのは、自分が本当にヒーローなのか、ヒーローでいても良いのかどうか分からなくなってしまったからだ。俺の“個性”が奪われた方がよっぽど良かった。俺よりもコイツの方がよっぽどヒーローに相応しい。何度もそう思った。だからヒーローを辞めようかとも考えた。けれど。
「相澤くんにはずっとヒーローのままでいてほしい」
「……、」
「私の分までみんなを助けてね、イレイザーヘッド」
俺はやはり返事ができなかった。泣きもせず嘆きもせず、けれども今にも消えてしまいそうなほど儚く笑う彼女に、何もしてやれなかった俺が一体何を言うことができただろう。正直、余計に迷った。ヒーローを続けて良いのかどうか。俺だけがヒーローを名乗って良いのかどうか。
悩んだくせに、結局今もこうしてヒーローを続けているのは、結論が出たからではない。彼女に託されてしまった責任を負う義務があると思ったからだ。俺は俺をまだ許していないし許す気もない。だから永遠に、答えには辿り着けないのだと思う。
俺は苦い過去を思い出しながら、あの時と同じように白いベッドに横たわって眠っている女に視線を向ける。まただ。また、守れなかった。あの時とは違って“個性”を持っていない、ヒーローではない彼女を、俺はどんなことをしてでも守らなければならなかったのに。ヒーローとして。男として。
ヒーロー殺しの騒動の最中、彼女は事件に巻き込まれたらしい。目の前でヒーローがめった刺しにされるところを見たという精神的ダメージと、逃走の時間稼ぎのために何ヶ所か斬り付けられたことによる肉体的ダメージが原因で、彼女は今、病院のベッドで眠るハメになっている。殺されなかったのは彼女がヒーローではなくただの一般市民だったからだろうが、一歩間違えば殺されていたに違いない。その最悪の展開を一瞬でも想像してしまった自分に吐き気がした。そうならないために、俺はヒーローを続けてきたはずなのに。柄にもなく感情がコントロールできなくなって、俺はギリリと唇を噛んだ。
彼女とは、頻繁ではないにしろ、ずっと定期的に会っていた。あんなことがあったのにそれまでと変わらぬ笑顔を振り撒いて、本来ならば聞きたくもないであろう俺のヒーロー活動や教師としての仕事について尋ねてきては「ちゃんとヒーローやってるんだねぇ」と自分のことのように喜んで。馬鹿な女だった。自分のことはいつも後回しで人の心配ばかりして、自分がどれだけ傷付こうとも相手が幸せならそれで良いと言うような奴だった。人間、根本的なものはそう簡単には変わらない。彼女は今でもヒーローの器を兼ね備えていた。
んん、と。小さな唸り声が聞こえてじっと見つめ続けていれば、閉じていた瞼がゆっくりと開く。きょろりきょろりと眼球だけ動かし、やがて顔をこちらに向けた女は俺を視界に捉えて。第一声「仕事はいいの?」などと言ってきた。何言ってんだコイツは。自分の身に何が起こったのか分からないほど馬鹿じゃないだろうに。そんなことを思いつつも、いつもと変わらない様子にこの上なくホッとした、なんて、コイツには口が裂けても言いたくない。
「他に言うことがあるだろう」
「……ひどい顔してるけど、ちゃんと寝てるの?」
「お前は本当に……」
頭を抱える俺に、彼女がくすりと笑う空気だけが伝わった。この状況でよく笑っていられるものだ。もしかしたら殺されていたかもしれないのに。この世からいなくなっていたかもしれないのに。俺はそんなことを考えるだけで気が狂いそうだったのに。
「無事で良かった」と呟いた俺に「心配してくれたの?」と尋ねてくる声は明るい。彼女はただの元同級生で、元ヒーロー仲間で、あんなことがあったとは言え、必ずしも守らなければならない相手ではなかった。けれど、俺はずっと守らなければならないと思い続けてきた。後悔。罪悪感。それも勿論あるが、きっと俺は自分が守りたかっただけなのだ。彼女を。元同級生としてでも元ヒーロー仲間としてでもなく、特別な存在として。
「私は大丈夫だよ、イレイザーヘッド」
あの事件以来、彼女は俺をヒーロー名でしか呼ばない。お前はヒーローだろ、前を向け。そうやって俺を鼓舞するかのように。そのお陰でここまで来れたのかもしれない。が、それによって彼女との距離を感じるようになったのも事実だった。
「次は……次こそは、守る」
「私を?」
「他に守りたいもんなんかねぇよ」
見つめ合うこと数秒。彼女がぱちくりと大きな目を瞬かせた。あまり表情の変わらない彼女にしては珍しく、驚いていることが窺える。
確かに、自分でもらしくないことを言ったという自覚はあった。が、勝手に口を突いて出てきてしまったのだからどうしようもない。そして、本音なのだから前言撤回する気もなかった。
「まるでヒーローみたいなこと言うんだね」
「俺は、ヒーローだ」
「……うん、知ってる……知ってるよ、相澤くん、」
久し振りの呼ばれ方に、思わず息をのんだ。あの時と違って揺らぐ瞳。俺はその瞬間、思った。コイツを失わないためにヒーローであり続けたい、と。らしくない。合理的じゃあない。が、時には感情的になるのもいいかもしれない。あれだけ合理主義を謳っておきながら、我ながらなんとも都合の良い男だと鼻で笑ってしまう。
数年ぶりに彼女の名前を呼ぶ。みょうじ、と。相澤くん。大切に俺の名前を呼ぶ彼女の懐かしい音色に引き寄せられるように立ち上がった俺は、その細い身体を抱き寄せた。こんなに感情的になるなんて、俺はヒーローに向いていない。