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 果たしてこの男の頭の中の辞書に「恋愛」という単語はインプットされているのだろうか。何度も疑問に思って、そのたびに「インプットされても秒で削除されてそうだな」と考える。
 非常に無意味な作業だ。しかし無意味だとわかっていても、私はまた性懲りも無く同じ作業を繰り返す。理由は簡単。その男のことが好きで「恋愛」を知っていてほしいと思うから。そしてできれば私と「恋愛」してくれたらいいのに、と叶わぬ夢を抱いているからだ。

 ラブホテルのベッドの上。私と一緒にいるのは絶賛片想い中の同僚。当然のように二人きりの密室空間。邪魔者は誰もいない。これだけのシチュエーションが揃っているにもかかわらず、私たちの周りにピンク色の空気は全く漂っていなかった。
 それもそのはず。私たちはプライベートでこの場所に来ているわけではなく、潜入捜査で恋人のフリをしてこの部屋に入っただけ。ベッドの上に二人並んでいるのも、隣の部屋に聞き耳を立てるためだった。ピンク色の空気が漂うわけがない。
 対象人物の女性は違法薬物の売買をしている可能性が高く、男をラブホテルに誘い込んで「自分を抱きたいなら薬を買え」という条件を突き付けて取り引きしているらしい。そんな手で薬が売れるのかと疑いたくなるけれど、この手法で何人もの男がホイホイ大金を出して薬を買っているというのだから世も末だ。
 本来ならヒーロー事務所ではなく警察が扱う案件なのだけれど、今回の対象人物である女性は「催眠」の“個性”を持っているため、警察は外で待機、潜入捜査は我々ヒーローが行うことになったと言われた。
 もしかしたらその“個性”を使って薬を売りつけているのかもしれない。だとすれば、わざわざ自分の身体を売るようなことをしなくても良さそうなものだけれど、上手く密室に誘い込むにはこの手法が一番手っ取り早いのだろうか。私なら好きでもない男に近寄られるだけで嫌だけれど。

 そんなことを考えながら、隣で私と同じように聞き耳を立てている彼の様子を窺う。仏頂面なのはいつものこと。仕事とはいえ、私と恋人のフリをしてラブホテルに入るのが嫌だったとか、そんなことは思っていない……と信じたい。
 隣の部屋の話し声が微かに聞こえるだけで静かな室内。彼は、まさか私がドキドキしているなんてこれっぽっちも思っていないだろう。同僚として、普通に接してきた。私が彼にとって同僚以上のポジションに昇格することはないと割り切って。
 仕事関係の飲み会しか出席しない彼とは、プライベートで食事をしたことなどもちろんない。「休みの日って何してる?」と詮索するような話題を振ったこともない。とにかく、仕事の時以外は必要以上に関わらない。それが、「同僚」という、彼と最も近い距離を保つ秘訣だと思っているからだ。
 心の方もそれに対応してくれたら楽なのに、それだけはどうにもならないのが厄介なところ。一度好きになったら止められない。当たって砕けたら諦めもつくのかもしれないけれど、私は砕ける勇気も今の関係を壊す覚悟もないので現状に甘んじている。彼の言動に一人でドキドキして、一喜一憂して。そんな毎日は正直疲れるけれど、私の力ではどうしようもなかった。

 ラブホテルに入ったのは、恥ずかしながら初めてだ。だから、意外と壁が薄いことに驚いた。聞き耳を立てて声が聞こえる程度の防音設備で大丈夫なのかと、勝手にいらぬ心配をしてしまう。このホテルだけがそうなのか、他のホテルでも同様なのかはわからないけれど、本来の用途で使うのであれば隣の部屋の声なんか気にならないものなのだろうか。
 と、くだらないことを考えている間に隣の部屋からいかがわしい声が聞こえてきて、気まずい気持ちになる。女性が薬の取り引きに関する話を切り出したら踏み込む予定だったのに、なぜ先に行為が始まってしまったのか。今日は取り引きをしないのだろうか。いつ、どういう流れで決定的な瞬間が訪れるのかわからない以上、ここから撤退するわけにはいかない。とはいえ、だんだん鮮明に聞こえるようになってきた女性の声で行為がエスカレートしていることがわかって、私は居た堪れなかった。
 だって、隣には彼がいるのだ。何とも思っていない同僚ならまだしも、好きな人が隣にいるこの状況で、いくら仕事とはいえ他人のセックス中の声を聞くだけの時間は拷問すぎる。彼は気まずくないのだろうか。先ほどから表情がまったく変化していないところを見ると、仕事として完全に割り切っているのかもしれない。私はただの同僚だから、そりゃあ、彼は何も意識する必要がないのだろうけれども。私はやっぱり落ち着かない。

「ほんとにあんな声出るもんなんだね」

 いよいよ沈黙に耐えられなくなってひそひそ声で落とした発言は、どう考えても間違った話題だったと後悔する。よりにもよってなぜセックスについての話を振ってしまったのか。他に「早く帰りたいね」とか「いつ動くかな」とか、当たり障りない仕事関係の呟きだってできたはずなのに、咄嗟に出てきたのが女性の声に関する感想だなんて、自分の足りない知能を恨む。
 彼は私の呟きをどう捉えただろう。このまま馬鹿な独り言としてスルーしてくれた方が気まずさは持続しないかもしれない。まあ返事をしてくれたとしても、彼のことだから「うっせえ。黙って集中しろ」と指摘してきて終わりだろうし、私の失言はなかったことになるはず……と、虚しい期待をしていたのに、彼は意外にも会話を続けてきた。

「あんな声って?」
「え、あの……ほら、あれ、AV女優、みたいな?」
「お前AV見たことあんのかよ」
「ちょっとだけなら……」
「へぇ」

 ただの暇潰し程度のノリだったのかもしれない。彼は興味なさそうに相槌を打った。冷静に聞き耳を立て続けている彼とは反対に、私の心臓はバックバクだ。この手の話は苦手だけれど、彼とプライベートっぽい話ができるのは嬉しい。
 暇だから付き合ってくれているだけかもしれないけれど、今ならもう少しくだらない話ができるのではないだろうか。私は仕事中にもかかわらず、自分の欲を抑えきれなかった。

「爆豪も見るでしょ」
「何を」
「AV」
「見ねえ」
「嘘だ」
「見たことはあっけどチラ見で終わった」
「嗜好に合わなかった的な?」
「好きでもねェ女の裸見てる暇あったら仕事するわ」

 ポンポンと返ってくる答えが彼らしくて、表情筋が緩む。AV見ないのか、とか、この感じだと浮気しそうにないな、とか。三分前よりも彼のことがわかったような気分になって心が弾む。
 ただ、ここで「爆豪、好きな人いるの?」と切り込むまでの勇気はやっぱりなくて、私は「へー。真面目ー」と、茶化すように言うのが精一杯だった。だって、もしそんなことを訊いてさらりと「いる」なんて言われたら、この後まともに仕事を続けられる自信がない。まあ今の時点で仕事を逸脱しつつあるけれども、それはそれとして。
 さすがにそろそろ雑談終了かな、と口を噤んだら、身体の重心が左に傾いた。左、すなわち、彼がいる方。彼が私の方に寄ってきたから傾いたのは理解できたけれど、なぜ寄ってきたのかは理解できない。

「ちょっ、と、近いんだけど、」

 慌てて距離を取ろうとするも、無駄にふかふかのベッドの上は動きにくくてもたもたしてしまう。

「好きな女なら裸なんか見なくても近くにいるだけで興奮すんのにな」
「っ、なに、急に……、」

 私がもたもたしている間に距離を詰めてきた彼が耳元で囁いてきた言葉が全く頭に入ってこなくて混乱する。彼はこの状況で何を言っているのだろう。わからない。考えられない。何も。
 鈍さ全開になっている私は、彼から離れようとした反動でバランスを崩してベッドに倒れ込んだ。早く起き上がらなければならないのに身体は上手く言うことを聞いてくれないし、彼が私を組み敷くように馬乗りになって見下ろしてくるものだから逃げられもしない。一体何が起こっているのだ。

「お前は?」
「だから、急にどうしたのって、」
「この状況で何とも思わねえのかよ」

 笑顔など一ミリも存在していない、真剣な眼差しに射抜かれる。まるで「逃がさない」と言われているみたいで、私は微動だにできなかった。冗談……を言う男じゃないことはよく知っている。しかし、大真面目にこの状況を作り上げているのだとしたら、その意図は全く読めなかった。
 この状況で何とも思わないのか、って、何とも思わないわけないじゃん。ドキドキしてるよ。心臓飛び出そうだよ。爆豪が涼しい顔して仕事に集中してる時から、私はずっと爆豪のこと考えて心臓バクバクさせてたよ。でも、それを伝えちゃったら、好きですって言ってるのと同じになっちゃうじゃん。
 いっそのこと、口から飛び出してきそうな心臓と一緒にこの想いも吐き出してやろうかと考える。それぐらい追い詰められていた。……違う。溢れていた。抑えきれなくなっていた。彼への気持ちが。

「爆豪……、」

 私ね、と、意を決して一世一代の大告白をしかけたところで、隣の部屋から物音がして現実に引き戻される。そうだ。今は潜入捜査中。こんなことをしている場合ではなかった。いや、全然「こんなこと」ではないのだけれど、少なくとも仕事中にするべきじゃないことは間違いない。
 彼も仕事中であることを思い出したのだろう。私の上から素早く身を退けると、隣の部屋の話し声を聞いて動く準備を始めた。恐ろしいほど頭の切り替えが早く、完全に仕事モードに戻っている。私はまだ少しぼんやりしているというのに。

 そこからはあれよあれよと言う間に事が進み、思っていたほど手こずることもなく、呆気なく女性を逮捕し仕事を終えた。私たちがいなくとも解決できる案件だっただろうけれど、それはあくまでも結果論だ。無駄な仕事だったとは思いたくない。
 さて、今日は仕事で、というより、別のことでどっと疲れてしまった。事務所からはこのまま現地解散で良いというお許しが出たし、さっさと帰ってお風呂に入って寝よう。それが良い。彼とのあれやこれやも、寝て起きたら夢になっているかもしれない。それぐらい、私の中では有り得ない出来事だった。

「それじゃあ私はこれで……」
「はいはい、お疲れー」

 にこやかに手を振る上司に会釈をして、さあ帰ろう、と一歩を踏み出したところで「おい」と腕を引っ張られ動きが止まる。そんな気はしていたけれど、あんなことをしておいて、彼が私をすんなり帰してくれるはずがなかった。ということは、つまり、先ほどの出来事は夢ではなかったらしい。

「まだ話終わってねえだろうが。勝手に帰んな」
「話って言われても……ねぇ?」
「俺に言うことあンだろ」
「別に……何も」
「何か言いかけてたじゃねえか」
「そうだっけ? 忘れちゃった。思い出したら言うね。それじゃあ、」
「逃げんな。俺から」

 ぐ、と。掴まれている腕に力が入る。これでは帰れない。逃げられない。
 何なの? 爆豪は何がしたいの? 何で急に、今日、このタイミングで、今まで積み上げてきたものを壊そうとするの? 私が何かした?
 口ごもっている私に、彼は言う。いつもとは違う静かな声音で。「お前俺のこと好きなんだろ」って。何でもないことのように。ただの業務確認みたいに、言う。
 いつから気付いてたの、とか、なんで今それをここで言っちゃうの、とか、わかってたならさっきのアレは何だったの、とか、訊きたいことは山ほどあるのに声にならない。私ができたことといったら、頷くことぐらいだ。

「早よ言えや」
「言えないよ……絶望的なのわかってたし」
「勝手に絶望すんな」
「そんなこと言われても、恋愛の“れ”の字も理解する気がなさそうな爆豪が相手なんだから絶望的な気持ちにもなるでしょ」
「俺のこと何だと思っとんだ」
「爆豪勝己」
「……お前が惚れた爆豪勝己っつー男はそんなに馬鹿だと思うか?」

 知能指数的な意味で馬鹿だと思ったことは一度もないけれど、言動的に馬鹿だなあと呆れたことは何度もある。しかし今彼が尋ねてきているのがそういう主旨の質問じゃないことぐらい、私にもわかっていた。

「好きでも良いの?」
「駄目っつったら諦めんのかよ」
「たぶん無理かなあ」
「ならそのまま惚れとけ」
「一生片想い拗らせるの辛すぎるんだけど」
「誰が片想いだって?」
「え?」
「……俺よりお前の方が恋愛ってもんを知らねンじゃねーの」

 え、何、ちょっと待って、ちゃんと言ってくれないとわからないんだけど!
 呆れたのか、照れたのか、私の腕を離して何とも言えない顔で先に歩いて行ってしまう後ろ姿を慌てて追いかける。彼に「恋愛」を教えてもらえるまで、彼と「恋愛」ができるようになるまで、追いかけるしかない。

ら行はテストに出ますので