毎日、毎時間、毎分、毎秒、私はあなたのことを好きになっている。好きが更新されていく。好きすぎて苦しくて、悩むこともある。泣いたこともある。でも、それぐらいあなたでいっぱいだったのだ。
それがいけなかったのだろうか。重すぎたのだろうか。
「別れるか」
いつも通りに待ち合わせをして、いつも通りにぶらぶら歩いて、いつも通りに夜ご飯を食べて、いつも通りに家まで送ってもらった。だから私はてっきり、いつも通りに頭をくしゃっと撫でながら「また連絡する」って言ってもらえるとばかり思っていた。のに、彼の口から飛び出したのは全く予期せぬ言葉だった。
付き合い始めて四ヶ月。三の倍数が鬼門、みたいなことを聞いてヒヤヒヤしていた一ヶ月前。だから第一の鬼門を乗り越えて安心していたところでこれだ。全く意味がわからない。
大きな衝突もなく、ましてや別れの危機に直面するような出来事もなかったと思う。個人的には、わりと順調に過ごせていると思っていた。それなのに、急に、どうして。
「別れたくない」
「無理」
どうにかこうにか発した私の気持ちは、たった二文字で一蹴された。それが冷たくあしらうような声音だったら引き下がれたかもしれない。しかし彼の声は泣きたくなるほど柔らかくて、諦めきれなかった。
「嫌いになったってこと? 私何かした?」
「そういうんじゃねえ」
「じゃあなんで、」
「別れた方が幸せだろ」
しあわせ? 誰が? 私が? それとも勝己が? 少なくとも私は全く幸せじゃない。それなのに、どうしてそんなこと言うの? わかんないよ。何も、わかんない。
泣く女はずるい。うざい。それがわかっていても、私はこの状況で涙を押しとどめておくことができるほどいい女じゃなかった。勝手にぼろぼろ溢れてくるものを止める術はない。というか、そんなことに力を使っている余裕などなかった。
彼の服の胸元をぐしゃりと握って、縋りつく。みっともない。未練がましい。でも、嫌いになったわけじゃないなら別れなくてもいいじゃん、って。理由もなく別れ話切り出さないでよ、って。気持ちをぶつけることぐらいは許されるはずだ。
「…………ごめん」
背中に回されない手とぽつりと落とされた彼らしからぬ一言に、本当にもう終わりなんだと悟った。こうなる前に、何か思うことがあるなら言ってくれたら良かったのに。この期に及んで彼を責めることしかできない自分の弱さを呪う。
ごめん、って、何に対して言ったのかな。私の気持ちを受け止めきれなくて? 急に別れ話を切り出して? 泣かせて? 傷付けて? 全部ひっくるめて? ごめん、なんて、勝己の口からは一生聞きたくなかったよ。
「わかっ、た」
何もわかっていないくせに、私の口は嘘を吐き出す。彼はその返事を拾い上げたのだろう。私に触れることなく、熱を残さず、去って行った。一度も振り向かなかった。つまり、そういうことなのだろう。
それからの記憶は、あまりない。沢山泣いたことだけは覚えている。泣いて泣いて、目がパンパンになって、翌日仕事に行けないぐらいだった。それぐらい好きだった。……うそ。まだ、好きなままだ。
「なまえちゃん、泣いてたぞ」
「は?」
「爆豪に愛想尽かされねーか心配なんだってさ」
「また何か冷たいこと言ったの?」
「何も言ってねェわ!」
二ヶ月ほど前、腐れ縁の野郎三人に突然呼び出されたと思ったら衝撃的なことを告げられた俺は、正直混乱していた。泣いていた。なまえが。俺の彼女が。俺のことで。それらは俺が全く知らない情報だったからだ。
なまえは俺といる時いつもばかみたいにヘラヘラ笑っていて、特別なことをしているわけでもないのに楽しそうだった。だから、このままでいいのだと、何の問題もないのだと思っていた。順調だと思っていたのだ。三人からの話を聞くまでは。
三人となまえがどういう経緯で、どういう状況で話をしたのかは知らない。だがこの際、そんなことはどうでも良かった。大事なのは、なまえが泣いていた理由。それだけだ。
聞いたところによると、なまえはどこまで自分をさらけ出したらいいのか、どこまでなら受け入れてもらえるのかわからず、俺に嫌われたくない一心で頑張っているが、ずっとこのままではしんどいと言っていたらしい。好きだからこそ、俺の反応が怖くて臆病になる、と。酒の力もあって、泣きながら気持ちを吐き出していたという。
そんなこと、言われないとわからない。俺は人の感情を読み取る能力が高いわけじゃないし、そもそも今まで、誰がどんな気持ちで生きているのかを知ろうと思ったことなどない。しかし、なまえの表情の変化だけは気を付けて見ていたつもりだ。にもかかわらず、気付けなかった。それに加えて、俺の前では泣かないくせに、涙のひとつも見せず弱さのカケラも見せないくせに、三人にはそれを見せていた。
だからショックが大きかったのだろう。そして同時に思ったのだ。俺と付き合っていることでなまえが泣いたり、我慢したり、辛い思いをするぐらいなら、別れた方が幸せなのではないかと。
嫌いになったわけではない。むしろ好きなままだ。だからなまえを強く突き放すこともできず、別れの理由を告げることもできず、情けなく謝ることしかできなかった。奇しくもこの時初めて、なまえの涙を見た。もっと早くその顔を見せてくれたら違ったかもしれないのに、なんて、我ながらクソみたいに女々しくて反吐が出る。
今は納得できずとも、泣いていようとも、この選択がなまえの幸せに繋がるはず。俺よりも頼れて、心が許せて、辛い思いをしなくてすむようなヤツが現れたらいい。そう思った。好きだから。大切だから。俺とじゃなくても幸せになってほしいと思った。
彼と別れてからも世界は何も変わらないし、日常は私の気持ちを置いて流れていく。静かに、穏やかに。
別れてから一ヶ月ぐらいは、彼から時々気まぐれに連絡がきた。「もう飯食ったか」とか「アイツらと飲みに行ったんだろ」とか、くだらない内容だった。付き合っている時はほとんど連絡してこなかったから、別れてからの方がマメな気がして笑ってしまった。まるで私たちの間には何もなかったかのように、前からずっと友だちでした、みたいな距離感の方が、彼は楽なのかもしれないと思った。
ただ、こんな関係がずるずる続いてしまったら、もしかしていつかまた元通りになれるんじゃないかと期待してしまうのが嫌で「もう忘れたいから連絡してこないで」とメッセージを送った。私は彼を試したのだ。これで彼がどう出るか。その反応によっては本当に「もしかして」があるんじゃないかと思って。
その結果、連絡はあっさり途切れた。やっぱりそうだよね、これで良かった、と納得している自分と、なんであんなこと言っちゃったんだろう、と後悔している自分がいて、どっちが本当の自分の気持ちなのか、考えたら負けだと思って、考えることを放棄した。
それからまた二ヶ月ほど経った頃。彼と私の共通の友人である上鳴くんと偶然出会った時に言われた。「かっちゃんが元気にしてるかって心配してたよ」と。
なんで忘れようとしてるのに思い出させるようなこと言うの、なんて彼を責めることはできない。だって私は、本気で彼を忘れる努力なんてひとつもしていなかったから。むしろ、忘れようとすればするほど焦がれて、恋しくて、彼への気持ちが膨らむばかりで。
だから「心配してた」と聞いて、彼も私のことを忘れてないんだって思ったら嬉しくて、そのことばかり考えすぎていたせいだろう。気付いたら夜中の十二時前にもかかわらず彼に電話をかけてしまっていた。切らなくちゃ。でも少しだけ声が聞きたい。その気持ちを行ったり来たりしている間に、彼が電話に出てしまった。
「なんだよ」
久し振りに聞いた彼の声は冷たくて、途端、あの時とは違うんだと一気に冷静になって後悔する。うんざりしてるんだろうな。それでも出てくれるなんて優しいな。懐かしさと切なさと寂しさと、色んな感情がぶわあっと押し寄せて、目元が潤んでいく。
久し振りだね、元気にしてた? もう寝るところだったでしょ? 間違えて電話かけちゃった、ごめんね。
そんな風に適当に誤魔化して切ればいい。のに、私は嘘を吐くのが下手だから、演技も上手にできないから、彼には本音しか言えない呪いにかかっているから、勝手に口が真実を零してしまう。
「元気かなって、なんとなく声聞きたくなって電話しちゃったんだけど、ごめん、私から連絡するなって言ったくせに。もうしないから」
震える声で、しかも早口で、自分が言いたいことだけを捲し立てるように言って、一方的に電話を切った。最悪でタチの悪い元カノだなと、我ながら落ち込む。ぽろぽろ。涙が止まらない。
どうしよう勝己。私、全然あなたのことが忘れられない。忘れたくない。好き。まだ好きなの。もしかしたらあの時よりも好きになっちゃってるかもしれない。ねぇ、どうしたらいい?
今ここにいない彼に伝えたいことが山ほどあった。それが全て涙に変わってしまったみたいに、ぼろぼろぼろぼろ、水滴が落ちていく。近所迷惑だから声は押し殺している。だからなのか、そのぶん涙の量が尋常じゃなくて、大人になってからこんなに泣いたことはないと言い切れるほど、次から次へとこぼれ落ちていく。
そんな時にインターホンが鳴ったから、私はもちろん無視を決め込んだ。ひどい泣き顔だからという以前に夜中だし、誰かが来る予定はなかったから、そのうち静かになるはず……と思っていたのに、インターホンは鳴り止まない。こんな時間に誰だろう。
怖い、と思いかけた時に聞こえたのは「なまえ、いンだろ」という、忘れるはずもない、聞き間違えるはずもない、大好きな声。私は弾かれたように玄関に向かった。ぐすぐすと鼻を啜りながら、ひどい顔のまま、扉を開ける。直後、ぐわっと強い力で抱き締められて、既に壊れている涙腺が、遂に役目を完全放棄した。
ずっとずっとこの温度を待っていた。こうしてほしかった。だからもう絶対に離れたくなくて、離してほしくなくて、有りっ丈の力でしがみつく。
「なんで、」
掠れる声で紡げたのはたった三文字だけで、けれどもそれだけで彼には伝わったようだった。
「やっぱ無理だわ。お前がいねえと」
「っ……それ、私のセリフ……ッ」
なんで別れ話を切り出したのか、なんで何ヶ月も経ってからこんなことをするのか、彼の気持ちは何もわからない。あの頃と同じだ。しかし、そんなことはどうでも良かった。今ここに彼がいる。私を抱き締めてくれている。それだけで十分だった。
あの時言い忘れてたこと、聞いてくれる? もう知ってるかもしれないけど、ちゃんと伝えたいの。伝えなきゃいけなかったことなの。あのね、私、勝己のこと、
自分から別れを切り出したくせに、気持ちを断ち切れていなかった。だから思い出したように、定期的に、何度もどうでもいいメッセージを送った。たぶん忘れてほしくなかったのだ。俺のことを。自分にこれほど惨めで無様で最低な部分があるとは思わなかったが、どうやっても整理できなかったのだからどうしようもない。
しかしなまえから「もう忘れたいから連絡してこないで」とメッセージがきた時、いよいよ潮時だと思った。アイツはもう俺を断ち切りたいのだと、すっぱり終わらせて次に進もうとしているのだと、そう思ったら今すぐにでも奪いに行きたい衝動に駆られたが、どのツラ下げて行くつもりだと自分を叱責して踏みとどまった。
荒れに荒れて、腐れ縁の野郎三人を付き合わせて飲んだくれた日もあった。全く連絡を取り合わなくなって二ヶ月弱程度でなまえがどうしているか気になって仕方がなかった。しかし俺には、それを知る術も、権利もない。自分で決めた選択を後悔したのは生まれて初めてだった。手放さなければ良かった、と。誰か、ではなく、どうやってでも俺が幸せにしてやると言い切ってやれば良かった、と。何度も思った。
そんな矢先、夜中に電話が鳴った。寝ようとしていたのに一体誰だと思って画面を見て、固まる。なまえ。その文字を見ただけで、心臓が鼓動をはやめた。
なんで今更? 間違い電話か? それとも何かあったのか? 様々な思考を巡らせている間も電話は鳴り続けていて、間違いだったらすぐに切れるはずだと思い、何かあった可能性を考えて通話ボタンを押す。
あえて迷惑そうに出たのは、それが今の距離感として最適だと思ったから。なまえは俺を忘れたいと言った。それならば、電話をかけてきた理由はさておき、俺の下心とわずかな期待だけで下手な優しさや甘さを見せるのは違うと思ったのだ。
するとなまえは、電話の向こうで泣いていた。隠そうとしていてもわかる。声が震えていた。しかもその震える声で言ったのは、本音と弱音。
声が聞きたくなったってなんだよ。俺のことを忘れたいっつってたじゃねーか。なんで泣いてんだよ。誰が泣かしてんだ? また、俺か? 俺のせいで泣いてんのか? まだ俺のために泣いてんだとしたら、俺は。
泣いている理由を聞く前に、電話は一方的に切れた。絶対にまだ泣いているくせに。一人で抱え込んでいるくせに。なんでいつも救けてくれって言わねンだよ、お前は。
気付いたら走っていた。全速力で。忘れるはずもないなまえの家に向かって。
インターホンを鳴らしても出てくれないが、そこにいるのはわかっていた。だから呼んだ。名前を。そうしたら足音が聞こえてきて、やがて玄関の扉が開いた。
そうすると決めていたわけではない。しかしなまえの姿を見たら、勝手に身体が動いていた。なんで、と訊かれて、知るか、とはぐらかす余裕もない。腰にぎゅっとしがみついてくる力が懐かしくて、愛しくて、
「やっぱ無理だわ。お前がいねえと」
本音しか言えなかった。
別れた方がなまえの幸せに繋がるはず。俺よりも頼れて、心が許せて、辛い思いをしなくてすむようなヤツが現れたらいい。俺とじゃなくても幸せになってほしい。
そんなことを考えていた過去の自分に罵声を浴びせる。馬鹿じゃねーの。そんなヤツいねーわ、俺以外。俺がそういうヤツになりゃいいだけの話じゃねえか。好きなら、大切なら、死んでも離すべきじゃねェだろが。
一人で反省して、気持ちを改める。引き締める。向き合う。まずはなまえに伝えなければならない。あの時「別れるか」ではなく、言わなければならなかったことがあった。それを伝えよう。俺はお前のことが、