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 私の彼氏はとても優しい。付き合い始めてから一年が経とうとしているけれど、彼に怒られたことは一度もないし、喧嘩はいつも私が一方的にイライラをぶつけて、彼のせいじゃなかったな……と反省して、謝って、終わる。つまり一人相撲というやつなので、喧嘩らしい喧嘩もしたことがないといえるだろう。こんな身勝手な私に愛想を尽かすことなく「俺がなまえをイラつかせることしちまったんだろ」と、逆に申し訳なさそうに謝ってくるのだから、彼の前世は仏や天使の類だったのではないだろうか。
 そんな彼が、玄関の扉を開けてすぐの壁にもたれかかり腕組みをして「おかえり」と出迎えてくれた。普通なら「ただいま」とにこやかに返すところだけれど、いつものふわふわした雰囲気はどこへやら。今まで見たことがない黒いオーラを身に纏っている上、完全に目が座っている彼の表情を見たら、まともに顔を上げることすらできなかった。イケメンの無表情はそれだけで圧力があることを、私は今ひしひしと肌で感じている。

「ただいまー……」

 かろうじて蚊の鳴くような声で「おかえり」に対する返事をして、そそくさと靴を脱ぎ家の中に入ろうとした私の目の前に、彼が当然のように立ちはだかった。その爽やかな顔つきに似つかわしくないほどしっかりした体躯に仁王立ちで行手を阻まれたら、私に成す術はない。
 ここまでされているのだからさすがにわかる。というか、帰ってきた瞬間からわかっていた。彼が私に対して初めて怒りという感情をぶつけてきているということが。普段怒らない人間が怒るとすこぶる怖いと聞いたことがあるけれど、まったくその通りである。
 こんなことになったのは、職場である事務所と、事務所所属のプロヒーローのせいだ。私はぶつけようのない怒りを燻らせながら、これから彼にどう接するべきかと頭を悩ませた。

 そもそも今日は、もともと仕事終わりに彼とおうちデートの約束をしていた。しかし突然、私がサイドキックとして勤めている事務所の飲み会に参加しなければならない流れになり、彼との約束をキャンセルしたという経緯がある。
 大きな案件を終わらせた後の打ち上げという名目だったから仕事の一環と言えばそうかもしれないけれど、断ろうと思ったら断れた……かもしれない。しかし、事務所のメンバーは基本的に参加するだろ、という雰囲気になっていたこともあり、私はどうしても断りきれなかったのだ。
 本来ならその時点で怒られたり不機嫌になられたりしても仕方がないのだけれど、彼は「仕事なら仕方ねぇな。またいつでも会いに行くから大丈夫だ」と、なんとも寛大な対応をしてくれた。だからせめて、飲み会が終わったらさっさと帰って彼と過ごす時間を確保しよう、と意気込んでいたのだけれど。
 我が事務所のプロヒーローたちは酒癖が悪いということを、私は失念していた。歌ったり踊ったり笑い上戸になったり、陽気になるのはまだいい。勝手に寝るのも無害だからよしとしよう。問題は、絡んでくるタイプの人だ。お酒を強引にすすめてくるぐらいなら飲んだフリをしたりグラスを入れ替えたりして適当に対処できるのだけれど、スキンシップが増えるタイプだけはどうにも対応しきれない。
 体格の良い男性プロヒーローに肩を組まれ、手や腕をベタベタ触られ、ついでに腰まで触られた時には叫びそうになった。やんわり距離を取ってもすぐに近付いてくるからどうしようかと思ったけれど、今回は他のプロヒーローが助けてくれたお陰でその場を離れることができた。あの時助けてくれたヒーローこそが、まさに本物のヒーローだと思う。
 そんなこんなで、やっとのことで飲み会を終えたものの、解散する前に事務所の広報担当から「実は今日の飲み会の様子は生配信してましたー!」というとんでもないサプライズ発表を受け、私の背筋は凍りつく。楽しい雰囲気をファンたちにもお届けしたかったとかなんとか言っていたけれど、それならそうと事前に知らせておいてほしかった。
 どこからどのアングルで撮影されていたのかわからないけれど、私が絡まれているところもバッチリ映っていたのだろうか。もし映っていたとして、彼が配信でその光景を見ていたら嫌な気持ちになるのでは……と不安を抱きつつ帰ってきたら、あの彼の様子だ。生配信を視聴していたに違いない。
 不可抗力とはいえ、彼以外の男とベタベタしていたのだ。しかも、彼との約束をキャンセルした結果がこれである。そりゃあ怒りたくもなるだろう。
 しかし、私が自ら望んであの状況に追いやられたわけではないのだから謝るのもおかしいような気がして、そして謝ったら私があの状況を受け入れていたと認めることになってしまうような気がして、何も言えない。しかし、何か言わなければ現状が打開しないこともわかっていた。

「あの、焦凍くん……」
「どこ触られた?」
「え?」

 私が会話の糸口を見つけ出すより先に、彼が鋭く本題に入った。怒気を押し殺しているような低めの声に戸惑うばかりで、私は答えを紡ぎ出せない。

「手と」
「ちょっ、」
「腕と」

 答えない私に代わって彼が答えながら、丁寧に、ゆっくりと、その箇所を撫でていく。その左手の指先が熱いのは彼の“個性”のせいなのか、もともとの体温によるものなのか、私にはわからない。

「肩と」
「っ、」
「首と」
「しょうとく、くすぐった……っ、」
「腰も、だったか?」

 言って、彼は私の腰と後頭部に手を回し自分の方に引き寄せると、痛いほどぎゅうぎゅうと抱き締めながら首筋に頭を埋めてきた。怒りはいつの間にか感じられなくなっていて、どこか甘えているように見える。
 彼は、優しい。優しいから、結局私に怒りをぶつけきれない。たとえ回避できない状況だったとわかっていても「勝手に触られるな」と怒ったらいいのに、彼は何も言わずただ静かに抱き締めてくるだけ。そんな彼を見たら私は抱き締め返すしかなくて、それと同時に自然と「ごめんね」が口からこぼれていた。

「なまえは俺のだ」
「そうだよ」
「だったらちゃんとそう言え」
「公表してないもん。言えないよ」
「じゃあ公表する」
「焦凍くんは売り出し中の大人気プロヒーローなんだから、スキャンダルはまずいって話したでしょ」

 約一年ものあいだ極秘恋愛を続けているのは、彼のヒーロー活動を邪魔しないようにするためであり、お互いの生活を守るためでもある。付き合い始めた当初、彼は隠す気など全くなかった。しかし、公になったら彼のファンがどんな反応をするか、どんな行動に出るか。それらを考えて行動するべきだと思い、私から隠しておきたいとお願いしたのだ。
 彼のファンは女性が多いから、交際していることがバレたら何かしら危害を加えられるかもしれない。そんなことは彼と付き合うと決めた時から覚悟していたし、どうでも良かった。ただ、私絡みで何かあったら彼に少なからず迷惑をかけてしまうし、ヒーロー活動に支障が出るかもしれない。彼に真相を確かめようと追いかけまわす記者や、自分ではダメなのかとストーカーまがいなことをする熱烈なファンが現れて、生活が脅かされるかもしれない。そんな事態は避けたかったのだ。

「関係ねぇ。なまえ以外どうでもいい」
「どうでもよくはないよ」
「肝心な時になまえを守れねぇなら公表したい」

 守るとは、と考えて、飲み会の時に助けてくれたプロヒーローのことを思い出す。確かにあの時、私はそのヒーローに感謝したし「こういうヒーローは素敵だな」と思ったけれど、それ以上の感情は全くない。

「なまえを助けるのは俺が良かった」
「それも気にしてたの?」
「俺よりあいつがいいって思ったんじゃねぇか?」
「思わないよ」
「そういう顔してた」

 生配信でどこまで私の顔が鮮明に映っていたのだろうか、「そういう顔」ってどんな顔だ、という疑問とともに、細部の表情までわかるほど見えていたのだとしたら恥ずかしいという気持ちも込み上げてきたけれど、そんなことより、彼がここまで嫉妬してくれるとは思わなくて、この状況には相応しくないと思いつつも嬉しくなってしまった。しかしその反面、私は彼以外眼中にないのに信じてもらえていないのかと不満にも思う。
 拗ねているようでいてどこか不安そうな声音を落とす彼の背中をポンポンと叩く。すると彼がおずおずと、私の首元に埋めていた顔を上げた。その表情はやっぱり不安そうで、まるで捨てられることを恐れている子犬のよう。

「私、焦凍くん以外の人にドキドキしたことないよ」
「……ほんとか?」
「助けてくれたヒーローには感謝してるけど、好きだなって思うのもカッコいいなってときめくのも焦凍くんだけだから」
「信じてないわけじゃねぇ……けど、やっぱり嫌だった」

 傍にいられないのは嫌だった、と。大事なものはちゃんと守りたい、と。真っ直ぐ突き刺さるセリフと視線に、心がほわりと温まる。
 いつも真摯に向き合ってくれて、素直に言葉を届けてくれて、全てを受け止めてくれて。私はこの人にこんなに想われていいのだろうかと不安になるほど素敵な人だ。だから私も、彼に向き合って、素直に言葉を届けなければならないと思った。

「焦凍くんが嫉妬したり心配してくれたりするのは嬉しいけど、信じてほしい。私が好きなのは焦凍くんだけだし、本当に救けてほしい時に呼ぶ名前も焦凍くんだけだから」
「……わかった」
「それから、嫌なことがあった時に私のことを癒せるのも焦凍くんだけなんだからね」
「任せてくれ」

 そうして、彼はやっと、目が眩むような微笑みを傾けてくれた。それから、ぎゅ、と私をもう一度抱き締めて、玄関先から寝室までお姫様抱っこで移動。そういうつもりで言ったわけではないのだけれど「触られたところ全部綺麗にしないとな」なんて大真面目な顔で言われたら、逃げられるわけがない。
 こんなに優しい彼に愛されているなんて私は幸せ者だと、改めて思う。この先もずっとあなたのものでありたい、と言ったら、彼はどんな反応をするだろう。「俺も同じこと考えてた」って笑ってくれたらいいな。

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