1人って楽だ。好きな時に寝て、起きて、ご飯を食べて、お風呂に入って、グダグダして、気が向いた時にちょっと家事や掃除を頑張ってみたりして。もちろん仕事はあるけれど、それさえ頑張ったらほぼ自由。だから私は今の暮らしにおおむね満足している。
しかし、時々思うのだ。一人の部屋でぼけーっとテレビを見ていたら、無性に、つまんないなあ、寂しいなあ、って。別にそこまで深刻に考えている問題ではない。何の前触れもなく、なんとなく、人恋しくなることがある。ただそれだけ。しかも、そんなことを思うのはほんの数秒のことで、頻繁に塞ぎ込んでいるわけでもない。つまり、やっぱり私は現状に満足していると思うのだけれど。
「引っ越したいなあ」
ぽろり、こぼれ落ちた言葉に返ってきたのは「は?」という、心底意味がわからないという雰囲気を纏った低い声だった。声の主は眉間に皺を寄せているけれど、それがスタンダードな状態だと知っている私は怯まない。
住み慣れた我が家の寝室に鎮座している使い古された安物のシングルベッドを背もたれにして座っているのは、眉間に皺を寄せたままの強面の男。もう三年近くの付き合いになる私の彼氏、爆豪勝己だ。
「どういう風の吹き回しだ」
「別に……気分転換的な? 就職してからずっとここに一人暮らしだし。もうちょっといいところに住みたいなあって」
嘘ではない。けど、百パーセントの本音でもなかった。
彼も一人暮らし。私も一人暮らし。付き合い始めて三年弱。だから、そろそろ次のステップに進めないかなあという下心を孕んだ「引っ越したいなあ」。彼は賢いし察しがいいから、私のヘラヘラ、ふわふわした下手くそな切り返しの意味に気付いてくれるんじゃないか、って期待して言った。嫌な女だ。
彼はやっぱり眉間に皺を寄せたまま、怪訝そうに私を見遣っている。コイツ何考えてんだ。声にせずとも、そう顔に書いてあるのがわかった。
彼は賢いし察しがいい。しかしどういうわけか、色恋沙汰になると途端に、頭の回転も察しも悪くなる。つまり、私の期待を裏切られそうな雰囲気がたっぷり漂っていた。
「もう部屋探してんのか」
「それはまだだけど」
「条件は」
「……勝己、不動産屋なの?」
「違ェわ! 知っとんだろが!」
そりゃあもちろん不動産屋ではないことぐらい知っている。ただ、まるで不動産屋の人みたいに物件の条件なんか訊いてきたものだから、皮肉を言ってみたくなっただけだ。
やっぱり無理か。一緒に住むとか、そういう発想を彼に望むのは。まあいいや。今の暮らしにはおおむね満足しているわけだし、今はこのままで。
でも、私は果たしていつまで現状のままで満足していられるだろうか。年齢を重ねれば重ねるほど、きっと不満と不安が増えていく。このままでいいのかなって。これから私たちどうなるんだろうって。そんな思いを募らせていく私に、彼は気付いてくれるだろうか。……無理だろうなあ。
「やっぱり今のなし」
「はァ?」
「今はこのままでいいです」
「なんで」
「なんでって……」
「引っ越してェと思ったのは事実なんだろ」
適当にスルーしてくれたらいいのに、よくわからないところで踏み込んでくる彼に内心首を傾げる。私が引っ越そうが引っ越すまいが、ぶっちゃけ彼には関係ないと思う。それなのに、この話題にここまで食い下がるのはおかしいような気がした。
もしかしたら彼は私に引っ越してほしいのかもしれない。この部屋は手狭なのでシングルベッドしか置けない。そのため、彼が泊まりに来たら寝る時ぎゅうぎゅうになってしまうのだ。彼はそれに対して密かに不満を抱いているのかもしれない。もしくはIHコンロが気に食わない、という理由も考えられる。炒め物はコンロがいいとぼやいてたから、その可能性も大いに有り得るだろう。何にせよ、彼がこの部屋に不満があるというのなら、このタイミングで引っ越すのも本当にありかもしれない。
「勝己が不満ならやっぱり引っ越すかあ」
「俺がいつ不満だっつった?」
「言われてはないけど、なんか私の引っ越しに前向きな感じだったから」
「俺はどーでもいいんだよ。テメェはどうしてェかって訊いとんだ」
「うーん……ここより広くて安くて綺麗な物件があったら引っ越したいかな!」
私は彼からの「そんなとこねェわ!」というツッコミ待ちで、わざと無茶な条件を突きつけた。しかし、待てど暮らせど彼からのツッコミはない。
どうしたのだろうかと思って隣の彼を見てみたら、何やら深刻そうな面持ちで考え込んでいる。もしかして本気で条件に合う物件探しをしようとしているのだろうか。それはそれで有難いけれども。……と、彼が突然こちらに顔を向けた。ばちり、視線が合う。
「うちに来りゃいいだろ」
「……え?」
「ここより広くて安くて綺麗だろうが。文句あンのか?」
「広くて綺麗だけど安くはなくない?」
「俺が払ってんだから家賃はゼロだ」
「それじゃあ私が勝己の家に居候するってこと?」
消えかけていた彼の眉間の皺が、再び深く刻まれた。どうやら私の発言に不満があるらしい。でも、私は何も間違ったことは言っていないはずだ。がしがしと頭を掻きむしりながら「ったく……」と少し苛立っている様子の彼に、私はますます首を傾げる。
「同棲すんぞっつってんだよこっちは」
「…………え。わあ……ほんとだね! すごい、勝己から同棲のお誘いだって!」
「ふざけてんのかてめェは!」
「だって勝己そういうのちゃんと考えてなさそうだったから予想外だったんだもん」
「考えとるわ! なめんな!」
「えー……嬉しい。勝己と同棲。うわ、やだ、緊張する」
「なんでだよ」
つい先ほどまで下心たっぷりで望んでいたことなのに、彼の口から「同棲」という単語が飛び出すまでピンとこなかったなんて、私はなんてポンコツなのだろう。そしてそんなポンコツな私は、いまだに彼からの提案を理解しきれていなかった。
だって同棲って、なんかこう、暗に「一緒にいてもいいんだぞ」って言われているみたいで擽ったい。擽ったくて嬉しくて、居た堪れなくて。私はふざけていたわけではなく、その擽ったさを紛らわせたくて、わざと茶化すような反応をしていたのだ。
いまだに目をきょろきょろ彷徨わせ落ち着かない私を、彼は一発で冷静にさせる。たった一言、その口で、いつもより少し低めのトーンで、私の名前を呼ぶ。それだけで、私の頭はクリアになるのだ。そして同時に、彼の方を向かなければならないという条件反射が働く。これはもはや刷り込みみたいなものだろう。
反射に従い彼に顔ごと視線を向ければ、怒っているわけではなくやけに真面目な顔をした彼の表情が目に飛び込んできた。これほど真剣な眼差しを向けられるのは、告白されたあの日以来のことかもしれない。自然と背筋が伸びる。これはもう完全に茶化してはいけない空気だ。
「一緒に暮らすぞ」
「はい」
「で、ここの契約いつまでだ」
「さあ……三月ぐらい?」
「二年契約だったら更新が来年になンだろ」
「一年ごとだったと思うけどなあ。契約書どこに入れたっけ」
「あっちの棚の上から二段目」
なぜか私よりも私の家のことをよく知っている彼の言う通り、上から二段目の引き出しにあった契約書。パラパラと中を確認すると一年ごとに更新と書いてあったから、三月に問題なく退去の手続きができそうだ。こんなにトントン拍子に事が進んでしまっていいのだろうか。何やらバチが当たりそうなほど上手くいきすぎている気がしてならない。
妙な不安を抱いている私をよそに、彼は立ち上がった。このタイミングでどこに行くのだろうかと見上げていたら彼に「行くぞ」と声をかけられ、私も一緒に行かなければならないことを知る。行くぞって言われても、一体どこへ?
「えっと、」
「買い物」
「夜ご飯の材料ならあるけど」
「晩飯の買い出しじゃねーわ。ベッド新調すんだよ」
「勝己の家のベッド? そんなに古くないよね?」
「毎日寝んのにアレじゃ狭いだろーが」
「気が早いね、かっちゃん」
「その呼び方はやめろ」
頭をペシンと軽く叩かれたけれど、ちっとも痛くはない。再び「行くぞ」と言われ立ち上がった私は、もこもこのダウンジャケットに腕を通した。
年明けから二週間。今日は寒波が襲来するらしいけれど、買ったばかりのダウンジャケットはあったかいし、彼にくっ付いていたら更にあったかいし、寒さなんて全然感じない。寒いなら家から出たくないって思っていたけれど、これなら大丈夫そうだ。
一人は楽だし、自由でいい。きっと彼と暮らし始めたら窮屈に感じることや意見の食い違いで衝突することがあって疲れてしまうだろう。今までのような自由気ままな生活は無理かもしれない。それでも私は彼と一緒がいいし、百パーセント満足できると断言する。
全ては彼のことが好きだから。それ以外の理由はない。