「ただいま」
自分がこの一言を口にする日が来るなんて思ってもみなかった。なぜならこの一言は、誰かが俺を待っていてくれないと言えないセリフだからだ。自分の帰りを待ってくれている人間なんていない。そういう人生だった。だからこの先もそうなのだろうと思っていたのに、生きていたら往々にして予想外の出来事というのが発生するものである。
公安のお偉いさんたちも事務所の人間も、俺の帰りを待ってくれてはいる。しかし公安のお偉いさんが待っているのは「俺の知り得た情報」であって「俺自身」ではない。そして事務所の人間も「事務所の責任者であるホークス」を待っているのであって「俺自身」を待っているかどうかは定かではなかった。
寂しい人生だと思われるかもしれないが、俺は一人でも良かった。それでこの世界が平和になるのなら。平和になって、ヒーローが暇を持て余すようになって、その時やっぱり一人でも、俺は胸を張って幸せだと断言できる。
そう思って幼少期からブレずに生きてきたのに、彼女と出会ってからというもの、俺の気持ちは揺らぎ始めてしまった。ジェンガのピースを一つずつ抜かれていくように、彼女に会う回数を重ねるごとに自分の信念が揺れる。誰かと一緒に生きていけたら自分の世界は変わるのだろうか。俺を待っていてくれる人が現れたら、待っていてほしいと思う人に出会えたら、どうしたら良いだろう。そんな夢物語を描いてしまうのだ。
それならば会いに行かなければいいのに、俺は仕事帰りに何も考えずに飛んでいたら自然と彼女の家を目指してしまうようになっていて、いつの間にか「今日は絶対に行かない」とあらかじめ心の中で決めていなければ彼女を避けることすらできない状態になっていた。
世間ではこれを、依存というらしい。どうして無意識に求めているのだろう。どうして彼女なのだろう。自分のことなのにちっともわからなくて、でもそれはわからなくてもいいような気がして、深く考えないようにしていた。
……というのは建前。俺はそんなに鈍くないし天然でもない。だからちゃんとわかっている。彼女を求めている理由も彼女じゃないとダメな理由も、全ては俺がみょうじなまえという女に惚れてしまっているから。それに尽きるってことを。
どこが好きなのかと尋ねられたら、美味しそうに親子丼を頬張るところとか、ほぼ毎日のように理由もなくベランダに降り立つ俺をなんだかんだで邪険にせず相手してくれるお人好しなところとか、俺がどれだけ有名なプロヒーローでも媚を売らず色目も使わないサッパリしたところとか、他にも色々挙げられるが、一番惹かれているのは、ちゃんと俺を「俺」として認識して接してくれるところかもしれない。彼女にはまだ本名を教えていないが、それでも彼女は出会った時から俺を「プロヒーローのホークス」ではなく「鷹見啓悟」として見てくれている気がした。
初めましてのシチュエーションはドラマチックでもなんでもない。行きつけの鶏肉料理専門店のカウンターでたまたま隣の席に座った。ただそれだけ。俺に見向きもせず親子丼を頬張っていた彼女はあまりにも幸せそうで、子どもみたいで、俺は見惚れると同時に思わず吹き出してしまった。そこでようやく俺の存在に気付いた彼女に「もしかして私のこと見て笑いました?」とムッとした顔をされ「すみません、可愛くてつい」と返したら更にムッとされたのが印象的だったのを覚えている。褒められてムッとした顔をするなんて変わった子だなあ、と。初対面で興味を持った。
それからお店で何回か鉢合わせることがあり、俺が声をかけながらナチュラルに隣の席に座ったら「なんでここに座るんですか?」と毎回怪訝そうな顔をされた。その反応は新鮮だったが、もしかしたら俺がヒーローだと気付いてないからこの反応なのかもしれないと思い何回目かの時に「俺ホークスって名前でヒーローしてるんですけど知ってます?」と確認してみたら「そんなの最初から気付いてますけど」と、これもまた顔を顰めて返事をされて、彼女は最初から「俺自身」を見てくれているのだと確信して嬉しくなったりして。この時から既に、彼女は俺の特別だったのだ。
その後、彼女がストーカー被害に遭う事件が発生し、あくまでも警護人とその依頼者という立場で行動を共にする期間もあったが、ストーカーの一件が落ち着いてからも俺は彼女の元を離れなかった。しばらくの間は本当にストーカー被害が落ち着いたのか確認するためだったのだが、それが「会いたいから」「顔が見たいから」にすり替わって、そのままずるずる、今の関係。これでは俺がストーカーみたいだ。
俺にとって自分の誕生日はそれほど重要なイベントではなかった。ヒーローとして名を馳せるようになってからは色んな人から祝ってもらえるようになって、それは素直に嬉しいと思っている。しかしここでも、どうせ「ホークス」へのお祝いでしかないんだろうなと思ったら一気にどうでもよく感じてしまって、別にわざわざ祝ってくれなくてもいいですよ、と捻くれたことを思っていた。
しかし、彼女に出会ってから迎えた初めての誕生日では、どうしても彼女に「おめでとう」の一言をもらいたいと思ってしまった。プレゼントなんていらない。ただ「俺自身」に「おめでとう」を言ってほしい。今時の子どもよりずっと純粋でシンプルな願いだと思う。
いつも通りにヘラヘラと、しかしいつもとは違いベランダからではなく玄関から彼女の家にお邪魔した。どちらにせよ押しかけていることに変わりはないのだが、その日だけは少し特別な気分を味わいたかったのだ。
俺はポンポンと軽口を叩きながら、重たくなりすぎないように誕生日祝いを強請ってみた。すると彼女は俺が期待していたよりもずっと素晴らしいプレゼントをくれた。帰る場所という、この上ないプレゼントを。
本当は帰るつもりだった。着替えを取りに帰って、最速で彼女のところに戻ろうと本気で思っていた。しかし彼女の家を出てすぐに出動要請の連絡が入って、そこからは年末恒例の怒涛の出動ラッシュ。だから俺が彼女のところに顔を出せたのは、年越しの五分前だった。
「遅くなってすみません」
「ほんと、どこまで着替えを取りに行ったのかと思いました」
「ですよねぇ」
「……おかえりなさい」
玄関の方に回る時間すら惜しくて、特別感も何もなく、(今更ではあるが)不躾にもベランダからお邪魔したのに、彼女は困ったように笑いながら俺のほしい言葉を当然のように言ってくれた。たった七文字。その七文字を言われるだけで、自分の居場所が出来たような気分になれる。言った当の本人はそこまで特別なセリフだとは微塵も思っていないだろうが。
彼女は年越し間際だというのにカウントダウンも気にせず「年越しそば食べました? 余ってますけど作りましょうか?」「外寒かったでしょう。お茶でいいですか? コーヒーにします?」などと言いながら台所に立っていて、なんとなく初めて会った時のことを思い出した。着飾らずありのままの姿で接してくれる。そういうところが、
「好きです」
「え? 何か言いました? 勝手にそば作っちゃってるんですけど食べますよね?」
「…………あと二分で年越しちゃいますよ」
「そば湯がくのにまだ三分ぐらいかかるので待ってくださいね」
「年越しは待ってくれませんって」
「年越しはどうでもいいんですよ。そばの話です」
大真面目にそばを準備してくれている彼女の後姿を見て俺は笑うしかなくて、ついでに折角の告白が聞こえなかったことも笑うしかなくて、残り一分少々となった今年を笑って終えられそうなことに幸福を感じた。あと百秒もすれば新しい一年が始まる。その瞬間も彼女と迎えられるのだ。これは幸先が良い。
彼女は相変わらずそばを作ることに夢中でこちらに見向きもしない。そばを作ってくれるのは嬉しいし彼女らしくて良いと思うが、少しぐらいこっちを気にかけてくれても良いのになあ、とも思う俺は我儘な男なのだろうか。
「なまえさん」
「はい……って、私の名前知ってたんですか?」
「まあ、警護対象だったんで」
「ああ……なるほど」
「で、なまえさん。そろそろ本当に年越しちゃうんですけどそば湯がきながらでいいんで聞いてくれます?」
「いいですよ」
つけっぱなしのテレビから、遂にカウントダウンの声が聞こえ始めた。十からゆっくりカウントダウンされていく声は彼女にも聞こえているはずなのに、やっぱりこちらを見てくれる様子はない。
それならばこのままで言ってしまおう。もしかしたらまた彼女に届かないかもしれないが、今なら何度だって言えるような気がする。五、四、三、二、一、
「好きです」
「…………はい?」
「あ。年越しましたよ。明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いします」
「え、ちょ、そば、もう少しまって、あの、何って?」
「まあまあ落ち着いて。まずはそばを完成させましょ」
「誰のせいでこんなことになってると思ってるんですか!」
今度はきちんと届いたらしい俺の声。彼女が慌てふためきながら、俺と完成間近のそばへと視線を送る姿が滑稽だ。大急ぎでそばをどんぶりに盛り付けているのは、早く俺のことを問い詰めたいからだろう。そもそも俺、そば食べたいなんて言ってないけど。まあいいか。
どん、と俺の目の前に置かれたそばからは湯気が立ち上っていて、思っていたよりも美味しそうだ。手を合わせて「いただきます」を言って、何食わぬ顔でそばを啜る。彼女はそばが出来上がったらすぐにでも俺を質問責めにしてくると思ったのだが、意外にも静かに俺が食べるところを眺めているだけだ。それはそれで気になるのだが、のびないうちに食べてしまえるのは有り難い。
そうして俺がそばを全てたいらげて「ご馳走様でした」と手を合わせて箸を置いたのを確認して、彼女が待ってましたと言わんばかりに「あの」と口を開いた。きっと「さっきのって本気ですか?」「冗談ですよね?」「揶揄ってます?」とか、そういった類のことを訊かれるんだろうなあ、と予想していたのだが、彼女は俺の想像を良い意味で裏切る。
「そば、美味しくできてました?」
「美味しかったですけど、他にありません?」
「あ。明けましておめでとうございます」
「いやそうなんですけどそうじゃなくて」
「私もあなたのこと好きですよ」
「え」
「また違いました?」
「……なまえさん、俺のこと弄んでますよね?」
「それはこっちのセリフですけど」
お互いよくわからないタイミングで告白し合って、ムードなんてちっともなくて、でも二人で目を合わせて笑い合っていたらそんなことはどうでもよくなって。
「初日の出見に行きません? 初デートに」
「自由な人ですね」
「なまえさんには言われたくないです」
「仕事大丈夫なんですか?」
「さあどうでしょう」
「デートの途中で行っちゃうのは仕事なら仕方ないので良いんですけど」
「良いんですか?」
「ちゃんと帰ってきてくださいね」
絶対帰りますと約束できない俺のずるさを、彼女はわかっているような気がした。だからきっと、返事をせず曖昧な笑顔だけ浮かべた俺に呪いをかけたのだ。「待ってますから」と。
そんなこと言われたら帰らなきゃって気持ちになっちゃうじゃないですか。一人でいいと思って生きてきたのに、この世界のためなら身を滅ぼしても構わないという覚悟で今の仕事を遂行しているのに、今後ピンチに陥るたびに自分のことも諦められなくなるじゃないですか。まったく、俺よりも自由で困った人だ。でも、だからこそ俺は彼女に惹かれたのだと思うから。
「初日の出まで時間あるんで、もう少しここでゆっくりさせてもらってもいいですか」
「もちろん。好きなだけどうぞ」
居心地の良い鳥籠を手に入れた俺は、この場所に帰るために今までよりも速く飛べる。そんな気がした。