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「かーつきくーん」
「……」
「ねぇ無視? 無視なの? ちょっとひどくない?」
「……」
「おーい。聞こえてますかー?」
「……」
「……かつきくーん?」

 最初は、声をかけたら「うるせェ」と言いつつもこちらに顔を向けて、何かしらの反応をしてくれるものだとばかり思っていた。だからいつも通り戯けていたのだ。
 しかし、何度名前を呼んでも私の存在を消すかの如く無視を決め込まれたら、さすがに戯け続けてはいられない。まさか彼にここまで本気で無視を決め込まれる日がくるなんて、思ってもみなかった。一体何があったというのだろう。私、仮にも彼女なのに。いや、仮じゃなくて、正真正銘、彼女なのだけれど。

 課題はとうの昔に終わっていて、お互い好きなことを好きなようにやっていた。けれども、持ってきていた雑誌を読み終えて、SNSをぼーっと眺めるのにも飽きてきたら、すぐ傍にいる彼氏とイチャつきたくなってしまうのは自然の摂理というもので。なんだかんだで彼も私と同じ気持ちでいてくれると思っていたのに、なんだかとても切ない。
 それにしても、折角可愛い(かどうかは分からないけれど)彼女が腕にぴったりと身体をくっ付けて名前を呼んでいるというのに、完全無視を貫くなんて酷すぎやしないだろうか。私は切ないを通り越して、いよいよ寂しくなってきた。そしてその感情は、やがて惨めさへと変化していく。
 私、何やってんだろ。彼はもともと、そんなにベタベタしてくるタイプではない。勿論、甘やかしてくれるようなキャラではないということも重々承知だ。だからこんなことをしていたって、うざったがられるだけなのに。私はそっと彼から距離を取った。

 この状況、私がここにいる意味ないよね。さっさと自分の部屋に戻ろう。私は持参してきていた雑誌に手を伸ばし、帰り支度に取り掛かろうとした。
 けれども、無視を決め込んでいた彼が、私より先に持って帰る予定だった雑誌を手に取ったことで、帰り支度はストップしてしまう。何だ。何がしたいんだ。イラっとして睨みつけたけれど、彼はこちらに視線を寄越しもせず、ヒーロー雑誌を読み続けている。ますます意味が分からない。
 それまでの対応にだって不満が募っているというのに、それに上乗せしてこの仕打ち。これはさすがに怒っても良いのではないだろうか。私はいまだに見向きもしない彼を睨み続ける。

「ねえ。それ私のなんだけど」
「だから?」
「返して」
「なんで」
「部屋帰るから!」
「なんで」
「なんでって……私がここにいる意味ないじゃん」

 今の今まで怒っていたはずなのに、帰ろうとしている理由を言葉にすると落ち着いていたはずの寂しさが再び溢れ出してきて、思ったよりしょんぼりとした声色になってしまった。けれど、これは仕方のないことだと思う。何があったか知らないけれど、もう少し私の気持ちを汲んでくれたって良いじゃないか。
 ヒーロー科はそれなりに忙しいし、夜の自由時間だって、そんなに堂々と二人きりでいることはできない。つまり、こうしてまったりと二人きりで過ごせるのは、結構貴重なことなのだ。だから私はこの時間を楽しみにしているというのに、彼はそう感じていないのかもしれない。
 私のテンションがあきらかに下がっていることに気付いたのだろう。彼はそこで漸く読んでいたヒーロー雑誌をパタンと閉じて、こちらを向いてくれた。はあ、と溜息を吐く様子は、完全に呆れている。
 いや、その反応はおかしくない? なんでそんな態度取られなくちゃいけないの? こっちは無視されてめちゃくちゃ傷付いてるのに! 溜息って!
 むっとした表情をして見せても、彼が怯むことはない。尚も呆れた様子で、そして少しばかり怒気を含んだ顔で私に視線を寄越してくる彼は、またもや大きく息を吐いた。これは俗に言う、逆ギレというやつだろうか。まあ彼はキレキャラかもしれないけれど、最近は落ち着いてきたと思っていたところなのに。

「よくそんなことが言えんな」
「どういう意味?」
「三十分前、テメェが何したか覚えてねえんか」
「三十分前?」

 彼の口から飛び出したセリフに、私は首を傾げる。はて。三十分前といえば雑誌を読んでいた頃だと思うけれど、何か彼が引っ掛かりを覚えるようなエピソードはあっただろうか。全然思い出せない。
 首を傾げて真面目に悩んでいる私を見て、彼の眉間に皺が寄った。この感じ、もしかして私は無意識のうちに、彼の気に障ることをしてしまったのかもしれない。つう、と背中に嫌な汗が伝う。
 よくよく考えてみれば、彼は私を無視するなんていう陰湿でチマチマした嫌がらせみたいなことをするタイプではない。それに、どれだけ彼がキレキャラだとしても、理不尽にキレたりしないことは私が一番よく知っている。となれば、あんな行動を取ったことには、何か意味があるのかもしれない。

「私、何かした?」
「先に無視したのはテメェの方だろうが」
「え?」
「はあ……」
「……もしかして雑誌読んでる時、私のこと呼んだ、とか?」
「確認してくるっつーことは覚えてねェんだなァ?」
「はい。全く」
「ったく、どんだけ耳クソつまっとんだ!」
「えー……ごめんなさい」

 どうやら私は雑誌を読むことに夢中になりすぎて、彼から名前を呼ばれたのに無視し続けてしまったようだ。そりゃあ彼がちょっとぐらい仕返ししたくなる気持ちも分かるかもしれない。
 私が素直に謝ると、彼はやっぱり呆れたように息を吐いた。キレキャラに認定されがちだけれど、彼が本気で怒ることはわりと少ない。口調が厳しいから誤解されやすいのだろう。クラスの皆は「口調が優しくなるのはなまえちゃん(みょうじさん)限定だから」と言うけれど、私はそんなことはないと思う。

「ったく……ちったァこっちの気持ちが分かったかよ」
「……え。勝己くん、寂しかったの?」

 こっちの気持ちって、さっきの私と同じ気持ちってことだもんね? つまり、私に無視されて寂しかったってことでしょ?
 それはもう、普段の彼からは連想できない単語だったものだから、私は思わず尋ねてしまった。だって、あの爆豪勝己が「寂しい」って。そんな気持ちを抱きそうなキャラじゃないし、まさか私に無視されたぐらいでそんな風に感じてくれるなんて、それこそ予想外である。
 まさかそんな、と半信半疑だったけれど、「うるせェ!」と怒鳴っているところを見るとどうやら図星のようだ。なにそれ。可愛い。
 三十分前にタイムスリップして、その時の彼の様子や表情を動画で撮影したい。そして皆に見せびらかしたい。「ほら見て! 勝己くんってこんなに可愛いんだよ!」って。そうしたら皆、今までのイメージを払拭してくれるに違いない。
 そんなくだらないことを考えてニヤニヤしていたら、彼の大きくて少しゴツゴツした右手で、両頬をむにゅりと掴まれた。お陰で私の顔はタコみたいになっていることだろう。痛い。うそ。そんなに痛くない。

「ブサイク」

 言って、左の口角だけを上げて笑った彼は、タコみたいな口になっている私の唇に自分のそれを押し当ててきた。ブサイクな女にキスしてくれるなんて、勝己くんは随分優しいのね。私は目元だけで笑顔を見せて、嬉しさを表現する。
 彼はそれに満足したのか、私の頬から手を離して、ついでに雑誌も返してくれた。もう私が帰るつもりはないと判断したのだろう。まあ返されたところで、その雑誌はもう必要ないのだけれど。

「次俺のこと無視しやがったらただじゃおかねェからな」
「はぁーい」
「分かってねーだろ」
「んー? 分かってるよー。勝己くんはどんなにブサイクな顔でも私のことが大好きなんだよねー? ふふふ!」

 わざと冗談めかして言った私に、「何言っとんだ!」などと照れ隠しで怒鳴ってくるかと思っていたのに、珍しく彼は何も言わぬまま。あれ、おかしいな、と思って顔を覗き込めば頭を引き寄せられて、先ほどの遊び半分のやつとは違う、ちゃんとしたキスをされた。今日の勝己くんはサービス精神旺盛だ。ってことは、ちょっとおねだりしても許されるかなあ、なんて。
 離れる唇。ほんの少しだけ見つめ合って、ちょっと照れながら「もういっかい」って囁くようにお願いしてみる。そうしたら彼は「調子のんな」と言いながらも、いつもの不敵な笑みを浮かべて、ちゃんと私を甘やかしてくれるのだ。

ブルーブルースイート