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「#お仕置き」のBL小説を読む
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 もっと大人になってくれたら良いのに、と何度思ったことか。もっと大らかに、もっと柔軟に、もっとやさしく、もっと賢く。そう思っていた私は、彼が急激なスピードで大人の階段を上っていることに気付いていなかった。
 壁にぶち当たる度に、彼は強くなっていく。元々の戦闘センスが磨かれたのは勿論だけれど、それ以上に、精神的な強さの成長が著しかったように思う。
 それでも私は、彼はまだまだ子どもだと思っていた。……違う。そう思っていたかっただけだ。彼が大人になってしまったら、私は置いてけぼりにされてしまうような気がしていたから。

「相変わらず無茶するね」
「うるせんだよ。ほっとけ」
「こんな傷だらけなのに放っておけるわけないでしょ」
「っ!」
「ほら。痛いくせに」
「痛くねェわ!!」

 ヒーローとは、誰かを救けるために身を挺する職業である。だから生傷が絶えないのは致し方ない部分も多少はあると思う。
 実際、傷だらけなのは彼だけではなかった。同じ任務に当たっていたヒーローは重軽傷問わず何人もいて、私以外の救護係も忙しそうに走り回っている。
 今回のヴィランにはかなり手こずったらしい。彼と一緒に任務に当たっていたヒーローが、先ほどそう言っていたのをチラリと耳にした。最終的にヴィランを制圧したのはデクくんだったということも。

「今回かなり手こずったらしいね」
「俺は手こずってねェ」
「ヴィラン倒したの、デクくんなんでしょ」
「……だったら何だよ」
「別に、何も」

 以前の彼だったら、私の物言いに食ってかかってきたはずだ。「アイツだけの手柄じゃねえ!」とか「ほとんど俺がやった」とか、兎に角デクくんより自分の方が上だという旨の主張をして。
 しかしご覧の通り、今の彼は私の発言を冷静に受け止めている。これはきっと、私が望んでいた「大人」の対応なのだと思う。そしてそれは本来喜ぶべきことで、正しい反応だと言えるだろう。
 けれども私は、彼が自分の望んでいた状態になっているというのに、ちっとも喜べなかった。彼が急に私を置いて遠くに行ってしまったようで。私の知らないどこかへ消えて行ってしまいそうで。怖くて、堪らなかった。

 彼の左腕に包帯を巻く手が、自然と緩徐になる。この処置が終わったら彼は行ってしまう。そうしたらもう会えないような気がして、彼がいない世界になってしまいそうで。何の確証もないのに、私は無意識に彼を引き止めようとしていた。
 彼は聡い。「もっと賢く」なんて、ならなくて良かった。けれども彼はどんどん賢くなってしまった。私が望んだからではない。彼は彼自身の意思と努力により賢くなった。賢く、やさしく、柔軟に、大人になってしまった。私の知らないところで。
 同じクラスだったのに。同じ高校を卒業したのに。付き合っていた、のに。私はいつまでも、彼を、「爆豪勝己」を知ることができずにいる。

「遅ェ」
「ごめん」
「さっさとしろ」
「ごめん、」
「謝ってる暇あったら手ェ動か、」
「ごめん……、」
「ったく、てめェは……!」
「ごめ、」

 四度目の謝罪の言葉は最後まで言うことを許してもらえなかった。ざわつく救護フロアの片隅。近くに置いてあった彼の着替えであろうTシャツが、バサリと私の頭の上に放り投げられる。
 それは、私がみっともなく涙を零し始めてしまったのを隠すための咄嗟の行動だろう。泣きながら包帯を巻いているところを誰かに見られたら何事かと余計な心配をかけてしまうだろうから、彼の判断は正しかったと思う。
 私だって泣くつもりは微塵もなかった。けれども、現状を理解して、彼との距離を感じてしまったら、なんだかもう胸が苦しくて、頭の中がぐちゃぐちゃになって、気付いたら涙がポロポロ溢れてきていたのだ。完全に不可抗力というやつである。

 彼とは卒業と同時に別れた。別れたけれど円満な別れ方だった……と、思う。プロヒーローになったら忙しいし、お互い大人になって思い出すことがあったら復縁しても良いんじゃない? と軽いノリで私から切り出した。彼は僅かに眉根を寄せて、けれども「分かった」と返事をしてくれた。
 それがかれこれ五年前。現場でごく稀に出会うことがあったけれど、その時もいたって普通に挨拶を交わした。今日もそうだった。「久し振りだね。頑張ろうね」と声をかけたら「頑張るだけじゃ意味ねんだよ」と返された。普通のやり取りだった。だから自分がこんなに情緒不安定になるなんて思ってもみなかったのだ。
 ごめん。私は涙を拭ってTシャツを返すと、包帯を巻く手を動かし始めた。仕事中だというのに不甲斐ない姿を晒してしまい自己嫌悪に陥りながらも、最後までやるべきことをやろうと気を持ち直す。

「……なんかあったんか」
「ないよ」
「何もねえのに泣くんかよ」

 ごもっともなご指摘だった。包帯を巻かれている最中に突然泣き出されて、彼はさぞ驚いたことだろう。「急に何だ!」と責められても文句は言えない。そして私は、責められたかったのかもしれない。
 けれども大人になってしまった彼は、やさしく私に寄り添おうとする。私が知らない「爆豪勝己」だ。

「なんか、大人になったね」
「誰が」
「かつ……、爆豪が」

 勝己と呼びそうになって、慌てて中途半端なところで言い直した。別れを切り出したのは自分の方なのに、別れたことを後悔し続けているなんて、いまだに完全に離れることを恐れているなんて、悟られてはならない。
 お互い大人になって思い出すことがあったら復縁しても良いんじゃない? どの口がそんなことを言ったのだろう。他でもない私の口だ。
 大人になろうがなるまいが、忘れられやしなかった。付き合っているからといってそんなにベッタリした関係ではなかったし、依存しているわけでもなかった。だから別れても変わらないと思っていたのだ。結論から言えば、それは私の思い違いだった。
 彼が隣からいなくなったからといって、日常が劇的に変化することはない。私は今日まで毎日、それなりに生きてきた。ぱっと見変化したことなんて一つもない。けれども根っこの深い部分ではぐらぐらで、ちっとも安定していなかった。
 彼は私の精神安定剤みたいなものだったのだと思う。常にそこにいたから安定していただけで、なくなると途端に不安定になる。そんな存在だったのだ。

「てめェは大人にさせたがんのが好きだな」
「そう?」
「高校ん時からずっとだ。大人って何だよ」

 包帯は巻き終わった。けれども彼は立ち去ることなく私をじっと見つめている。私は彼の問い掛けに答えることもできず赤い瞳に吸い込まれそうになりながら見つめ返すことしかできない。
 大人って何? 具体的に考えたことはなかった。賢く立ち回れるようになること? 人にやさしくできるようになること? どうもしっくりこない。

「てめェはいつになったら大人になんだよ」
「分かんない」
「……待ってた俺が馬鹿だった」
「え」

 彼は呆れたように息を吐いて言葉を落とすと、私の腕を引っ張って歩き始めた。負傷者がいるなら私はまだ仕事をしなければならないというのに、一体どこに連れて行かれるのだろう。

「か、爆豪、」
「うるせェ」
「まだ仕事」
「一分で終わる」
「ちょっと、っ、」

 フロアを出てすぐの物陰に押し込まれ、壁に背中を押し付けられる。片手を壁につき凄んでくる彼から私が逃れる術はない。

「俺が大人になったっつーなら、もう良いだろ」
「な、なにが、」
「大人になって思い出すことがあったら復縁するっつったのはどこのどいつだ?」
「それは、あの、えーと、どういう……?」
「とぼけんな。大人なら分かんだろーが」

 彼の顔が近付いてくる。睨み付けられているのか見つめられているのか判断できない。どちらにせよ、私の心臓は忙しなく脈打っている。
 こういう時、大人ならどんな反応をするだろう。逃げる? はぐらかす? 自分の言ったことを忘れたフリをする? 適当に受け流す? 今挙げた選択肢のどれかが正解だとしても、私はどれも選ばない。大人として不正解でも良い。

「私、全然大人になれてないと思うんだけど、それでも良い?」
「今更かよ」
「爆豪、大人になったからって私のこと置いて行かない?」
「はァ? 何言っとんだ」
「なんか、遠くに行っちゃったような気がして」
「勝手に離れんな」
「……勝己、」

 その名前を囁くのが答えとして正解だったのかもしれない。彼は僅かに口角を上げて私の頭をぐしゃりと撫でるとゆっくり離れていった。「約束の一分だ」と言って。
 仕事には戻らなければならない。けれど、このまま別れるのは中途半端な気がする。もっと言うなら物足りない。

「もう帰る?」
「帰る」
「よね」
「仕事戻れや」
「分かってるよ」
「連絡先」
「うん?」
「消してねーだろうな」
「うん。終わったら電話しても良い?」
「さっさと終わらせねーと寝る」
「じゃあ頑張る」

 大人になりきれていない単純な私は、この一分のやり取りで胸を躍らせて仕事に戻った。
 私が気付かなかっただけで、気付こうとしなかっただけで、彼は別れのあの時から既に大人だったのかもしれない。私が大人になるまで待っていてくれたのは、きっと彼の方だったのだ。

大人の階段を駆け下りろ