年末年始。普通のOLさんだったら一週間以上の長期休暇をもらいまったりできるであろうその期間に、私は何が楽しくて職場に行かねばならないのだろうか。自分で選んだ仕事とはいえ、こういう時は「なんでこんな仕事選んじゃったんだろう」と思ってしまう。
12月の最終日。今日も布団から出るのが億劫な寒さだ。目覚まし時計が鳴ってなんとか目を開けたものの、布団から這い出る勇気が出ない私は、いつまでももぞもぞと布団の中で蠢く。あと十分。あと五分。あと三分。あと、
「遅刻すんぞ!」
「うわっちょっ、布団! やだ! 寒い! 勝己くんの馬鹿!」
「あァ? 誰が何だって?」
暖かい布団が剥ぎ取られ、一気に冷たい空気が私の身体を突き刺す。こんな荒っぽい手段じゃなく「そろそろ起きろ」って声をかけるとか、トントンって優しく揺さぶるとか、他に方法があったのではないかと思う。
……けれど、その反面、もしそんな優しい手段を取られたら、私はいまだに布団から出ることができていなかっただろうから、結果的に彼の取った行動は正しかったのかもしれないとも思う。ただ、やっぱり寒いものは寒い。だから勢いで「馬鹿」と罵ってしまうのも仕方のないことだったと思うのだ。
「ごめん……つい寒くて……口が滑っちゃいました……」
「ったく……今日も仕事だろうが。さっさと飯食え」
「え、朝ご飯作ってくれたの?」
驚きの発言に思わず寒さも忘れてベッドから降り寝室を出れば、ふんわりと香る味噌汁のいい匂い。同棲中であるプロヒーローの彼は、確か今日と明日が非番だと言っていた。だからそもそも私に合わせて早起きする必要などないというのに、本来早起きするべき私より先に起きて朝ご飯を作ってくれたらしい。そういえば最初の目覚ましが鳴った後で隣からごそごそと彼が出て行ったような気がしたけれど、眠たすぎて気にも留めなかった。
台所へ行けば、ヒーターのお陰で温まっている快適な空間に、ほかほかの白ご飯と湯気の立つ味噌汁が二人分並べられていて、彼が「早よ座れ」と自分の正面の椅子に視線を送る。私はその視線に促されるまま、定位置の席に腰を落ち着けた。
「……いただきます」
「ん」
手を合わせて味噌汁を啜る。ああ、美味しい。勝己くん、料理上手なんだよなあ。私は体中に染み渡る温かさを噛み締めながらご飯を一口頬張る。
朝ご飯を二人で食べるのは、基本的に毎日のルーチンワークだ。私は早起きが苦手だけれど、彼が仕事の時には必死に朝ご飯を作る。彼はそれを文句ひとつ言わず綺麗にたいらげてくれるのだけれど、その代わり「美味しい」と言ってくれたこともない。まあ彼は不味かったら「不味い」と言う性格だろうから、何も言わないということは「美味しい」と同義なのだろうと受け取っている。
いつも自分が作る味噌汁とは違う濃さ。違う野菜の切り方。全てが新鮮で、何より彼が私のために作ってくれたということが嬉しくて、私は今日が仕事だということを忘れてのんびりと朝食を楽しんでしまった。共働きだから彼が時々ご飯を作ってくれることもあるのだけれど、朝ご飯を作ってくれたのは今日が初めてかもしれない。
「なんで今日朝ご飯作ってくれたの?」
「なんとなく」
「なんとなく?」
「くだらねェこと気にしてっと遅刻すんぞ!」
「わ! ほんとだ! やばっ」
くだらないことだとは思わないけれど、仕事に遅刻するのはまずい。今年最後の仕事だ。何事もなく仕事納めをしたい私は、朝食を全て掻き込んで支度を済ませた。その間に食器の後片付けをしてくれて、ついでに洗濯機を回してくれている彼は、意外と主夫に向いているのではないかと思ったりしたけれど、主夫よりもヒーローとして活躍している彼の方がずっとカッコイイことは私が一番よく知っているので何も言わない。
全ての準備を終えた私は玄関に向かう。のそのそと来てくれた彼は見送りをしてくれるつもりなのだろう。普段は私が「行ってらっしゃい」と見送る立場だから余計に後ろ髪引かれる思いで、仕事に行きたくないという気持ちが募る。
「やっぱり仕事行きたくない〜……」
靴を履くのを躊躇ってくるりと彼の方へと身体を反転させれば、容赦なく浴びせられる「うるせェ!」という怒号。まあそうですよね。勝己くんはそういう人だって知ってましたけど。ちょっとぐらい優しい言葉をかけてくれても……いや、勝己くんはそういう人じゃないんだよね。うん。分かってた。
「さっさと仕事終わらせて帰ってくりゃいいだけの話だろうが」
「それはそうなんだけどさぁ……」
彼の言っていることは正論だ。正論だけれど、人の心というのは正論だけで整理ができないことが沢山あるのだ。私はしょんぼりしながらのろのろと靴を履く。少しでもテンションを上げようと思って羽織ったコートは、今年のクリスマスに珍しく彼と買い物に出かけた時に買ったものだ。けれど、ちっともテンションは上がらない。
まあいいや。彼の言う通り、さっさと仕事を終わらせて早く帰る努力をしよう。そう思って一歩を踏み出したところで、背後からぼそぼそと彼の声が聞こえた。怒号を浴びせてきた時とは比べものにならないほど小さな声だったけれど、それでも私の耳にきちんと届いた愛おしさを孕んだ一言。
「飯作って待っててやるから、さっさと帰って来いや」
思わず振り返ってその表情を確認すれば、彼は首裏に手を回して明後日の方向を向いていて、なんだか少し照れている様子。その姿を見たら、つい先ほどまで上がらなかったテンションが嘘のように振り切れていくのが分かった。私はつくづく単純な女だ。彼の一挙手一投足、一言一言に、簡単に気持ちを上下させられる。
そしてテンションが上がりきってしまった私は、靴をぽいっと脱ぎ捨てて彼に飛びついてしまった。勢いよく飛びついたにもかかわらず「てめェは急に何やっとんだ!」と言いつつよろけもせずに私を抱き留めてくれるあたり、伊達に鍛えているわけじゃないということを思い知らされる。
「年越しそば、エビの天ぷら入れてほしいな」
「知るか」
「今年の食べ納めにアイスも食べたい」
「仕事帰りに自分で買って来い」
「年越しの時ちゃんと起きててね」
「いい加減仕事行けや!」
「はぁい」
彼にぎゅっと抱き付いて今日のエネルギーを補充。それを無理矢理引き剥がさない彼に隠れて小さく笑いを零して離れた私は、今度こそ靴を履いて「行ってきます!」と玄関の扉を開き、冷たい世界に足を踏み出した。着ているコートのお陰だろうか。寒さはちっとも感じなかった。彼から「行ってらっしゃい」の言葉はなかったけれど、帰ったら必ず「おかえり」と言ってくれるに違いない。
さっさと今年の仕事を終わらせて、彼の作ってくれた夜ご飯を食べてまったりした時間を過ごしながら二人で来年を迎えよう。その年が終わる瞬間も年を跨ぐ瞬間も、彼と一緒に分かち合える喜びを感じることができるなら、私はいつだって幸せに違いないのだから。