「相澤せんせ」
「その呼び方はやめろ」
「先生なのに?」
「お前の先生じゃあない」
「ふふ、じゃあ相澤くん」
かつての同級生は、何が面白いのか、くすくすと笑みを零しながら俺の名前を呼んだ。
頻繁に会うわけではない。しかし、全く会わないというわけでもなくて、むしろ定期的に、一ヶ月に一度は会う女だ。ただの同級生なのに。理由もなく。どちらからともなく声をかけて飯を食う。ただそれだけ。
友達、と呼ぶには希薄な関係だ。しかし、知り合い、と呼ぶには些か親密な気がしなくもない。だから、元同級生。それが一番しっくりくる。
「お誕生日おめでとう」
「俺が祝われて喜ぶとでも思ったのか」
「ううん。私がただ言いたかっただけ。相澤くんのためじゃないよ」
女が飲んでいるのはソフトドリンクで、酒ではない。というのに、どこかヘラヘラした様子で意味の分からないことを宣う姿は、酔っ払いと変わらない。というか、酔っ払いよりタチが悪いかもしれなかった。
明日は土曜日だから休みだと言っていたはずなのに酒を飲まないのは、俺が飲まないからだろう。気にせず飲めと言ったのに「今日は飲まないって決めてるの」と返された。禁酒でもしているのだろうか。どうせそれほど重要な理由ではないと踏んだ俺は、それ以上酒を勧めることはしなかった。
「他に誕生日祝ってくれた人いる?」
「何人か」
「山田くんとか?」
「まあな」
「相変わらず仲良いねえ」
「仲良くした覚えはないが」
「プレゼントはもらった?」
「それを確認してどうする?」
ソフトドリンクを喉の奥に流し込んで尋ねてみれば、口を噤まれた。答えに困っているところを見ると、俺には言いにくい内容らしい。言いたくないなら言わなければ良いだけのことだ。俺はハナから追求するつもりなどないのだから。
それなのに元同級生の女は、悩んだ後に口を開いた。何度聞いてもうざったくなるほど耳障りの良い声で、俺の鼓膜を擽る。
「プレゼントをあげるの、私が一番だったら良いなあと思ったから」
「わざわざ用意したのか?」
「そう。わざわざ用意したの。受け取ってくれる?」
「いらなかったら返す」
「えー。ひどいなあ」
言葉とは裏腹に、ケラケラと笑いながらウーロン茶を飲み下す女は楽しそうだ。先ほども思ったことだが、酔っていないくせに酔っ払っているようである。
「これでもすごく悩んだんだけど、何だと思う?」
「勿体ぶるな」
「せっかちな相澤せんせ」
「だからその呼び方は、」
「私」
「なんだ」
「だから、私だよ。プレゼント」
しつこいとは思うが、確認のためにもう一度言う。女は酒を飲んでいない。だから酔ってはいないはずだ。それなのに、先ほどからどうも酔っ払いみたいにタチの悪い冗談を言う。それも、ヘラヘラ笑っているくせにどこか真剣味を帯びた表情で。
だから、いつもの俺なら「もう少しマシな冗談を考えろ」とツッコミを入れていたところだが、その瞳と視線が交わった瞬間、声を飲み込まざるを得なかった。冗談っぽく言っているが、この目は本気だ。それを悟ってしまったから。
ガヤガヤとした店内で、俺達の周りだけに静寂が訪れる。長い付き合いになるが、この女と見つめ合ったのは初めてのことだ。よく考えてみれば“個性”を発動させる時以外で意図的に誰かと何秒間も見つめ合ったのは初めてかもしれなくて、柄にもなく戸惑う。
「ごめん。ちょっと言ってみたかっただけ。冗談!」
「違うだろ」
「何が?」
「冗談じゃないんだろう」
「……じゃあ、本気だって言ったらどうするの?」
また訪れる沈黙。そうさせているのは俺だが、この状況ですらすらと返答できる方がおかしいだろう。
本気だったら。プレゼントとやらが女自身だったら。有り得ない。が、本当に本気だったとしたら。俺は、
「良いよ、答えなくても。それより飲み物……」
「俺は返すとは言ってない」
「ん? 何? どういうこと?」
「自分の言ったことには責任を持て。受け取れと言ったのはお前だろう」
「えーっと……相澤くん、私の言葉の意味分かってる?」
「馬鹿にするな」
キョトンとして目をパチクリさせている女に「酔ってんのか」と言ってやりたくなったが、酔っていないことは俺が一番よく知っている。そして女同様、俺も素面なのだ。
「とりあえず受け取っておいてやる」
「とりあえず?」
「いらなくなったら捨てるからな」
「わーお。ひどい」
「捨てられないように努力しろ」
自分でも、どうしてこんな茶番に付き合ってやる気になったのかは分からない。ただ言えるのは、今年の誕生日は一生忘れられない日になったということ。女が元同級生というだけの関係ではなくなったということ。そして、俺自身の中で燻る何かに気付いてしまったということだ。
後になって聞いたが、女が酒を飲まなかった理由は「真剣な話をしたいのにお酒を飲んだら、酔っていると思われて何を言っても信じてもらえないと思ったから」らしい。まあ確かにその通りだ。酔っていなくても嘘だろと思ったぐらいなのだから、酒を飲んでいたら間違いなく適当に受け流していただろう。
「ねぇねぇ相澤せんせ」
「おい」
「そんな怖い顔しないでよ」
「何度言ったら分かる」
一応俺の彼女になったらしい元同級生の女は、いつものようにおかしそうに笑った。何がそんなに面白いのかは、相変わらずさっぱり分からない。
何度注意してもことあるごとに俺のことを「相澤せんせ」と茶化すように呼ぶことには何か意味があるのだろうか。俺への嫌がらせをしたいだけなら勘弁してほしい。自分が「先生」という柄じゃないことぐらい、俺自身が一番分かっているのだから。
俺の誕生日から一ヶ月が経とうとしている今日、仕事終わりに軽く食事を済ませて帰路を共にしている俺達に、冷たい風が吹き付ける。すっかり寒くなった。もう冬か、と今更のように思い知る。
隣を歩く女はマフラーに顔を埋め背中を丸めた状態で歩いており、かなり寒そうに見えた。俺も背筋をピンと伸ばして歩いているわけではないが、今の彼女ほど丸まってはいないと思う。
「寒いね」
「冬だからな」
「いつもその格好で寒くない?」
「上着は着てる」
「そうだけど」
「さっさと帰れば良いだけの話だ。もっと早く歩け」
「冷たいなあ」
文句を言うぐらいなら俺なんかと付き合わなければ良いのに、とは思ったものの、口には出さなかった。もし今のセリフを言って「そうだね」とあっさり引いてしまわれたら、なんというか、腹が立つ。……違う、俺はこの女が自分の隣からいなくなった状態が想像できないのだ。
その状態になることを恐れている、と認めたくはない。が、分かってはいた。俺は心のどこかでこの女を必要としている、と。
「早く歩けないから引っ張ってよ、相澤せんせ」
「だから、」
「間違えた。消太くん」
「な、」
「手繋ごうよ」
くすくす。いつも以上にご機嫌な様子で笑みを溢す女に、してやられたと顔を顰める。俺は僅かな動揺を悟られまいと、舌打ちをしてそっぽを向きながら冷たい手を引っ掴んだ。
いつも「相澤せんせ」の次は「相澤くん」だったくせに、どうして突然名前を呼んだりしたのか。ただの気紛れだとは思うが、思っていた以上の驚きを与えられたことが悔しい。そして何より、その呼び方を嫌だと思えなかった自分が恥ずかしかった。俺は、自分が思っている以上にガキなのかもしれない。
「なまえ」
「……珍しいね、名前呼んでくれるの」
「そうでもない」
「ふふ、なあに? 消太くん」
「さっさと歩け」
「歩いてるよ。それよりこっち、私の家の方じゃないけど」
「うるさい」
「私、あったかいココアが飲みたいなあ」
「知らん」
「買ってから帰ろうよ」
当たり前のように俺の家に帰ろうとしている女に「誰がうちに招いてやると言った?」と言ってやろうかと思ったがやめておいた。この女にそういう嫌味ったらしい言い方をしても意味がないからだ。
それに、うちに連れ込もうとしているのは事実。ココアでもなんでも買ったら良いが、それをあったかいうちに飲ませてやれるという保証はなかった。
今日は寒い。俺だって人肌恋しくなることがあるのだ。そんなことを口に出しては言わないが、この女は全てを見透かしたかのように笑いながら俺を受け入れるに違いない。
握っている手に、少しだけ力が入る。握り返す力も少しだけ強くなって、ほんの少し寒さが和らいだような気がした。
俺がこの女を捨てる日は来ないかもしれない。唐突にそんなことを思った冬の夜。