「似合わないよ」と言ってやりたかった。けれど、言えなかった。言える雰囲気じゃなかった。言えるだけの余裕もなかった。でも落ち着いたらやっぱり言ってやりたいと思った。「こういうの似合わないよ」って。
付き合い始めて十年にもなる彼が「五時に迎えに行く」と連絡をしてきたのは、既に四時三十分になろうかという頃だった。いつも唐突に連絡を寄越してくるから慣れてしまったけれど、女は出かけるとなったら準備に時間がかかるから、本当だったらもう少し早く連絡してきてほしいところである。
それにしても、五時という中途半端な時間に迎えに来るのは珍しい。夜ご飯を食べる前に買い物にでも行くつもりなのだろうか。ていうか、仕事、早番だったのかな。私はそんなことを考えながら、薄くしか施していなかった化粧をやり直し、ノースリーブのワンピースに袖を通す。
早くも八月の上旬が終わり、太陽のパワーで焼け焦げてしまいそうな夏本番の季節。冷房の効いたこの部屋にいると忘れてしまいそうになるけれど、外は灼熱地獄だ。ノースリーブのワンピースでも暑いに違いない。
そうこうしているうちに、あっと言う間に約束の時間になった。彼はぴったり五時にうちのチャイムを鳴らし、私が扉を開ける前に合鍵を使って中に入ってきた。勝手に入ってくるならチャイムを鳴らす必要はないのに。彼は妙なところで律儀だ。
「行くぞ」
「はーい。どこに?」
「行きゃ分かる」
「ふーん」
深くは追求しない。彼の言う通り行けば分かることだし、心のどこかで「まあどこでもいっか」と思っているからだと思う。いつも癖のように「どこ行くの?」と尋ねはするけれど、答えを求めているわけではないのだ。しかし、今回ばかりはきちんと行き先を聞いておくべきだった。私は今更のように後悔している。
「何ここ……」
「さっさと行ってこい」
「いや待って! 置いてかないで!」
「取って食われるわけじゃねえだろうが」
「そうだけど!」
そうだけど! こんなところに一人で置いて行かれたら心細いじゃないか。
私が連れて来られたのは、今まで見たこともないような煌びやかな衣料品店。所謂、全身のドレスコードができてしまうような、セレブ御用達、みたいなお店である。
いつ誰にどういうタイミングでこんなお店を教えてもらったのかはこの際どうでもいい。そんなことよりも今は、どうしてこんなところに私を連れて来たのか。それが問題である。
しかし、彼は無情にも、この居た堪れない場所に私を取り残して、さっさと出て行ってしまった。十年付き合ってきたけれど、こんなことは初めてだ。なんとも酷すぎる。
振り返れば、美しい笑顔を傾けてくる店員さんが「こちらへどうぞ」と声をかけてきた。どうせここから逃げ出したところで、彼はどこに行ったか分からないし、一人で家に帰ることもできない。私は諦めて、店員さんに案内されるまま、店の奥へと足を進めるしかなかった。
「とってもお綺麗ですよ」
「ありがとうございます……」
入店から小一時間が経過した頃、私は漸く解放された。正直ぐったりである。全身、それこそ本当に頭のてっぺんから足の先まで、完璧にドレスコードされた。お陰様で、鏡に映る私は今まで生きてきた中で間違いなく最も綺麗な状態だけれど、こんな格好にさせてまで彼はどこに行くつもりなのだろうか。
ふわふわすぎるソファに腰掛けて待つこと十数分。お店の扉が開いて現れた人物は、彼だった。けれど、その格好は私と同じくバッチリドレスコードされていて、いつもの彼とは別人のようだ。
堅苦しくて窮屈な格好なんて嫌いなはずなのに、大人しくシャツにベスト、おまけにネクタイまでしているのが新鮮すぎて、思わず見惚れてしまう。つまり、似合っていた。とても。悔しくなるほどに。
彼の方はというと、私のことを上から下まで値踏みするように視線を注いだかと思うと「ちったあマシになったじゃねえか」と、彼女に言うには失礼すぎる言葉を浴びせて、私に背を向けた。彼の口が悪いのはいつものことだから気にしないけれど、ここまで綺麗にしてもらったんだからもう少し褒めてほしかったなあと思ったりもして。
それでも私は何も言わず店員さんに会釈をしてから、先に出て行ってしまった彼の背中を追いかけた。ヒールの高いパンプスは歩き辛くて、小走りするのも一苦労だ。折角セットしてもらった髪も、プロに施してもらった化粧も、この暑さではすぐにぐちゃぐちゃになってしまいそうである。
やっとの思いで車に辿り着いた時には、案の定、じんわりと汗が滲み始めていた。それほど歩いたわけでもないのにこんなにも疲れているのは、慣れないヒールだったからだろう。
助手席に乗り込む。車内はひんやりしていて、噴き出しかけていた汗が引っ込んでいくのが分かった。ふと運転席の彼を見れば、その額には私と同じく汗が光っていて、スーツは暑いんだろうなあと他人事のように思う。
「ねぇ、どこ行くの?」
「飯」
「この格好で?」
「ああ」
「ああ、って…」
私がシートベルトを付け終えたのと同時に、すうっと車が発進した。彼は気性が荒いわりに、運転は静かで心地いい。助手席に乗っているだけでいい私は、いつも快適である。
しかし、今は心地よさにぼけーっとしている場合ではない。先ほどの彼の発言から考察すると、こんなにもしっかりとしたドレスコードが必要なお店に行くということなのだろうか。テーブルマナーにそれほど自信がない私は、内心少し焦っていた。
「なんで急にそんなお店行くの?」
「てめェは馬鹿か」
「いきなりの罵倒。いつものことだけどひどい」
「今日、テメェの誕生日だろうが」
「えっ! 覚えてたの!?」
「十年も付き合ってンのに忘れるか!」
彼はそう言うけれど、去年も一昨年もその前の年も、こっちからケーキとプレゼントを強請らないと何もしてくれなかったのはどこの誰だっただろうか。…という文句はぐっと飲み込んだ。
この付き合い始めて十年という節目の年に、漸く彼が自発的に私の誕生日を祝おうと動いてくれたのだから、水を差すわけにはいかない。少しやりすぎ感は否めないけれど、ここは有り難く、彼の気持ちを受け取っておこう。
そうして大人しく車に揺られること十五分少々。車を止めた彼は運転席から降りると、私が追いつくのを待ってくれていた。いつもはずんずん一人で行ってしまうのに珍しい。今日はそれほど特別ということなのだろうか。
高級ホテルのディナーフルコースなんて堅苦しくて絶対に食べた気がしないと思う。けど、今日は彼が私のために特別に用意してくれたのだ。そう、今日は特別。だからたとえ厳かな雰囲気が苦手でも我慢して「ありがとう」と笑顔で言おう。
そんなことを考えていた数分前の私よ、さようなら。思っていた以上に大人な雰囲気が漂うリッチな空間に、私はどうも耐えられそうにありません。
「勝己くん…」
「なんだ」
「私ラーメン食べたい」
「ここでそれ言うってこたァ俺に喧嘩売ってるって意味でいいんだな?」
「だって…居た堪れない…」
上品なウェイターさんに「ご予約の爆豪様」と言われた時にはちょっと笑いそうになった。だって明らかに「爆豪様」って柄じゃないのに。
それでもプロヒーローとして大活躍中の彼は有名人だから、ウェイターさんからしてみれば「爆豪様」という響きには何の違和感もないのだろう。通されたのは夜景の見える個室という、なんともベタすぎて息苦しくなるような空間。だからつい「ラーメン食べたい」なんて言ってしまったのだ。
しかしここまで来て何も食べずに帰るわけにはいかない。私は彼が適当に頼んでくれたコース料理を緊張しながら黙々と食べた。楽しむ余裕も、美味しいなあと感じる暇もなかったけれど、ケーキが出てきた時にはさすがに喜んだ。
きちんと私の名前が記されたプレートがのったケーキ。これを彼が注文しておいてくれたのだと思うと面白くて、嬉しかった。これ以上の誕生日はないだろう。
「ちったァ満足したかよ」
「十分満足しました。ありがとうございます」
「誰がこれで終わりっつった?」
「え? まだあるの? 凄いじゃん今年。気合い入ってる!」
「馬鹿にしてんのか!」
「してないってば。驚きと喜びの感情が溢れてるんだよ」
食後のコーヒーを啜る頃になって、漸く慣れ始めたこの空気。いつも通りの軽口を叩く余裕も出てきた。
まだ何かあるみたいだけれど、考えられるとしたらあとは誕生日プレゼントぐらいだろうか。ウェイターさんが真っ赤な薔薇の花束を持って来て「爆豪様からお預かりしていたものです」とか言ってきたらどうしよう。私笑っちゃうよ。
申し訳ないことに彼がキメキメのシチュエーションを用意するのはどうにもおかしくて、真剣に考えてくれたのだとしても笑いが抑えられない。でも、うん、いいよ。薔薇の花束。いつでも来てくださいウェイターさん。できるだけちゃんと感動しながら受け取ります。
「オラ」
「へ?」
「受け取れや」
「……薔薇の花束は?」
「何言っとんだ。ンなもんねェわ」
呆れながらも「これで我慢しとけ」と突き出されたのは随分と小さな箱だった。ちょうど、よくプロポーズの時に渡されるようなアレが入ってるぐらいのサイズ。……えっ!? いや、そんなまさか! まさか……まさか、ねぇ……?
なかなか受け取らないことに痺れを切らした彼は、ガンっと音を立てて私の目の前にその小箱を置いた。置いた、というか、叩きつけた、というか。一応プレゼントのはずなのに。まあいいけど。
「これ、もしかして指輪とかだったりする?」
「確認すんな! 見りゃ分かんだろ!」
「急にどうしたの? 誰からのレクチャー? だいぶベタすぎるんだけど」
「あー!! うっせんだっつの!! いらねェのか!!」
「いるよ。いるけど……ほら、言葉が足りないじゃん」
例えばこれがそういう意味のプレゼントだったとして。例えば今日まで彼がそわそわしながらコソコソ準備してくれていたのだとして。それはとても嬉しくて、なんなら泣きそうなぐらい胸がいっぱいになるようなことではあるのだけれど、いつもなら言葉を求めて受け取るのを渋ったりはしないのだけれど。
今日は私の誕生日だから。今日ぐらい、ううん、人生に一度切りのお願いぐらい、きいてくれたっていいじゃないかって思うのだ。
彼は困っていた。この展開で何と言ったらいいのか分からないというわけではないと思うから、そのフレーズを言うことを躊躇っているのだと思う。今ならこっそり録音スタンバイできるかな、なんて考えている私は、案外余裕なのかもしれない。
「一生俺のもんにしてやる」
「上から目線すぎる。却下」
「はァ!?」
「もっと優しくストレートに」
「……俺の妻になれ」
そのセリフを聞いて、私は十年前を思い出す。お互い両想いだと分かって、さあどうぞ告白してください、という場面で彼が放った一言は「俺の女になれ」だった。あの時から彼は全然成長していない…というか、変わっていない。
私は「優しくストレートに」とお願いしたはずなのに、優しさはどこへ行ったのだろうか。まあいいや。十年経っても二十年経っても百年経っても、私はどうせ爆豪勝己という男しか選べないのだろうから。
小箱を手に取る。そして「ギリギリ合格」と了承の返事を。彼は不服なのか満足しているのかよく分からない表情をしているけれど、私は気にせず箱を開けた。キラキラしたそれは星屑を集めたみたいに綺麗だ。
いつどうやって、どんな風に、どんな気持ちで、これを選んでくれたんだろう。訊いても答えてくれないだろうけれど、いつか教えてくれたらいいなあと思う。
「勝己くんが嵌めて?」
「……貸せ」
「わーい!」
差し出した左手の薬指にするんと嵌められるキラキラ。ちょっとサイズが大きいような気がするけれど、こういうのって交換できるのかな。そもそもこれのサイズってどうやって測ったんだろう。すごく気になる。
そんなことを考えながら自分の指を見つめ続けていると「なまえ」と名前を呼ばれた。顔をそちらに向ける。彼の顔はいつになく真剣で「今その顔するの?」という気持ちになったのは内緒だ。
「俺より先にくたばったらぶっ殺すぞ」
「真剣な顔して物騒なこと言うなあ。そうならないように勝己くんがちゃんと守ってよ」
「大人しく守られるタマじゃねえくせに」
本当は「先にくたばった私をぶっ殺すのは無理でしょ」とツッコミを入れてあげようかと思ったけれど、やめておいた。…というのは見栄を張った言い方で、正確には、今更になってじわじわ感動してきて憎まれ口を叩けなくなった、というのが正解だったりする。そして彼はきっと、そのことに気付いているのだ。だからこのタイミングで「誕生日おめでとう」という、らしくもないセリフを言ってきたに違いない。
ほんとにもう、似合わないことばっかりしないでよ。感動して泣く、なんて、私も自分に似合わないことしちゃうじゃない。
よし、決めた。やっぱり今からラーメン食べに連れて行ってもらおう。私達には、そっちの方がお似合いだ。