「なんでテメェが泣いとんだ」
「だって勝己くん…、勝己くんは、もう…」
「だから、俺のことでテメェが泣く必要ねえだろうが」
「でも!」
「俺が一番、分かってる」
その声はひどく静かに、そして冷ややかに響いた。昔に比べて随分と落ち着いたとはいえ、爆豪の元々の気性の荒さ自体は変わっていない。だからその落ち着き払った声音にはいっそ恐ろしさを感じた。
白いばかりの病室のベッドの上で上半身を起こしている爆豪の身体には至るところに生々しい傷痕が残っていて、これもまた白いばかりの包帯があちらこちらに巻かれている。プロヒーローをしていれば、怪我のひとつやふたつ当たり前。だからそんなことで泣いたりするほど、爆豪の彼女であるなまえは弱くなかった。
けれどもなまえは今、泣いている。自分も爆豪と同じくプロヒーローとして活動しているからこそ、爆豪の置かれた立場を痛いほど理解していた。それゆえの涙である。
同じ現場で同じ任務に当たっていた。だから爆豪の身に何が起こったかは知っている。けれども、俄かには信じ難い出来事だった。というか、いまだに信じきれていない。
かつて高校生だった頃、たしか似たようなことがあった。緑谷から聞いただけで漠然とした情報しかなかったからか、その時は「そんな“個性”があるのか、怖いな」と思ったぐらいだったが、なまえは今になってその“個性”の恐ろしさを思い知っている。
どんなに口が悪くても、どんなにヒールっぽいと言われようと、爆豪はプロヒーローだ。なまえは爆豪ほどヒーローらしいヒーローを知らない。誰が何と言おうと「救ける」こと、「勝つ」ことにこだわる。
だから今回も爆豪は「救ける」ために行動した。それはヒーローとして当たり前のことかもしれない。しかしなまえは、あの一瞬だけは、爆豪にヒーローとしての行動を取ってほしくないと思ってしまった。ヒーローである自分を押し殺して、自分を守ってほしかった。
けれども爆豪勝己は、決してヒーローである自分を捨てない。たとえ天地がひっくり返っても、世界が滅亡すると言われても、そして自分が二度とヒーローとして活躍できなくなるかもしれないとしても、最後の最後までヒーローであり続ける男なのだ。
「……もう帰れ」
「やだよ」
「なんで」
「なんでも」
「…頼む、帰ってくれ……」
爆豪は顔を上げることなく、辛うじて聞こえる程度の声量で言葉を落とした。こんなにも弱っている爆豪を見るのは初めてで、なまえはどうしたものかと戸惑う。しかし、どうすることもできないのは火を見るより明らかだった。
爆豪にはもう、“個性”がない。失った。違う。奪われた。違う。無にされた。そう、無かったことにされたのだ。爆豪の大切な“個性”は、その存在自体を消失させられた。この世に存在しないものとして処理された。詳しくは分からないが、ヴィランの使用していた武器にそういう作用があったらしい。
爆豪もみょうじも、勿論その武器のことについては聞かされていたし、効果が本物かどうかは分からないが、もしもの時には自分の身を最優先にするようにと伝えられていた。だが、爆豪は巻き添えになりかけた一般市民を「救ける」ために自分を犠牲にした。違う。ヒーローとしての責務を果たしたのだ。
なまえが現場で爆豪に駆け寄ることはなかった。ヴィランの確保ができておらず戦闘が続いている以上、なまえもまたヒーローとしての責務を全うしなければならなかったからだ。
本当は一秒でも早く爆豪の元に行きたかった。しかし爆豪はそうされることを望んでいない。きっと逆の立場でも、爆豪は自分の元に駆け寄ってきたりしないだろう。だから全てが落ち着いたら無事を確認すれば良い。そう思っていた。
聞かされていた武器に関する情報は信憑性が低いし、あの爆豪勝己がそう簡単にヴィランの攻撃を受けるはずがない。だから「大丈夫?」って声をかけたら「ったり前だわ」って返事をしてくれるはずだ。そう思っていた、のに。
「大丈夫?」
「……、」
「勝己くん?」
「……使えねェ」
「え、」
「“爆破”できねえんだよ」
その時の爆豪の顔は、怒りではなく恐怖に怯えているようだった。そりゃあそうだ。物心ついた時から当たり前のようにあったそれが、忽然と消え失せた。使えることが普通だったのに、急に使えなくなった。そんな状況に陥ったら、誰だって怖くなるに決まっている。
爆豪はすぐさま病院に連れて行かれた。最新の医療機器を使用し、ありとあらゆる検査を受けたらしい。が、その検査によって分かったのは、爆豪から“個性”が消え失せたという残酷な事実だけだった。
病室に行ったら何と声をかけようか、なまえは必死に考えていた。下手に明るく振る舞うのは違うと思うし、そもそも明るく振る舞えるだけの強さがなまえにはなかった。せめていつも通りに…と思ったが、いつも通りとはどんなものだったか、それすらも思い出せず。答えが出ないなら会いに行くこと自体を諦めるべきではないかと考えておきながら、顔を見ずに帰ることなんてできなくて、気付けばなまえは爆豪の病室に足を踏み入れてしまっていた。
そして、爆豪があまりにも呆然としている姿を視界に捉えた瞬間、次から次へと溢れ出す涙。泣きたいのは爆豪のはずなのに爆豪が泣いた様子はなくて、なまえはそれが逆に辛くて堪らなかった。
何も言わず泣きじゃくるだけのなまえにゆっくりと視線を向けた爆豪が声をかけてきたことで、冒頭の会話が始まった。そしてなまえは今、戸惑いを抱えたまま動けずにいる。
何も言えない。何もできない。何をしても無駄だ。それならば爆豪の言葉を受け入れて大人しく帰るべきだということは分かっているのだが、なまえは爆豪を一人にしてはいけないと思った。理由はない。無理矢理こじつけるとしたら、女の勘だ。
爆豪は強い。だからこそ、一度崩れ始めたら壊れるのはあっと言う間。誰かに頼ること、弱音を吐くこと、悩みや苦しみを打ち明けること、それら全てをしてこなかった爆豪が、今まで抱えてきた分の重みを一身に受けて倒れる姿が想像できてしまった。
「勝己くん、」
「……ンだよ…」
「“個性”がなくなっても、勝己くんは勝己くんでしょう?」
爆豪はなまえに優しくされればされるほど泣きたくなった。こんなことになってもなまえは自分から離れていかない。それが分かっているから余計に惨めで情けない気持ちになった。
守り守られ、そういう対等な関係が心地良かった。しかしこれから先、自分がなまえを守ることはできない。守られるだけになってしまう。プライド云々の問題だけではなく、もしなまえに何かあった時に何もできない自分の非力さを、まざまざと見せつけられることになるのが嫌だった。怖かった。
ふと思い出す。高校時代、自分の憧れでありヒーローを目指す原点となった男のことを。幼馴染に自分の力を継承し、オールフォーワンとの壮絶な戦いの末にヒーロー活動を引退した彼のことを。
あの男も、全ての力を失って戦えなくなった時、こんな気持ちだったのだろうか。全てを出し切って、納得のいく形で終わりを迎えられたヒーローと、何の心構えもなく唐突に力を奪われた自分とでは明らかに状況が違う。しかし、ヒーローとして活動できなくなったという点では同じだ。
守る立場から守られる立場になる。それを、受け入れなければならない。どうやって? 無理だ。自分には。
爆豪はなまえの問い掛けに答えられなかった。“個性”を失いヒーローでなくなった自分は、果たして何者なのか。爆豪勝己とは何で形成されているのか。考えれば考えるほど、暗闇の奥底に沈んでいく。
「私は今まで通り勝己くんの隣にいる」
「同情すんな」
「同情じゃない! これは愛情だよ!」
「……どっちでも同じことだ」
愛情。なんだそれは。好きだって気持ちだけでどうにかなんのかよ。俺は何もできねえんだぞ。
爆豪の瞳に光は宿らない。それでもなまえは煽り続ける。
「“個性”がなくなったら私を救けられないの?」
「テメェに! 俺の何が分かるってんだ!」
「分かんないよ! 分かんないけど! もし今と立場が逆だったら…勝己くんは私に同じことを言うんじゃないかなって…思ったんだよ…」
大きな声を聞きつけたのか「どうされましたか?」と看護師が部屋に入ってきた。なまえが「何でもありません、すみません」と謝ったことで看護師はあっさりと出て行き、部屋にはまた二人きりとなる。
「いない方がいいなら今日は帰る…けど、明日も明後日も一週間後も退院してからも、私は勝己くんから離れてあげない。逃してなんかあげない」
「……なんで…」
「ヒーローでもヒーローじゃなくても、勝己くんが勝己くんである限り、私が離れる理由はない。だから一生、傍にいる」
爆豪はハッとしてなまえを見た。交わる視線。目にいっぱいの涙を溜めているくせにひとつも溢すことなく唇を噛み締めているその表情に、これ以上ない胸の痛みを覚えた。
二人がヒーローになって間もない頃、なまえは失敗続きだった。同時期にヒーローになった爆豪を始めとするクラスメイト達は順調にステップアップしている。それなのに自分だけ上手くいかない。焦りと不安により更に自分を追い詰め、また失敗を繰り返すという負のループ。
自分はヒーローに向いていないのではないか。もう辞めてしまおうか。ヒーローじゃなくなったら爆豪は自分を邪魔だと思うだろうか。色んなことを考えた。考えて考えて考え抜いて、なまえは爆豪に捨てられる前に自分から別れを切り出した。
それに対する爆豪の反応は、殊の外、というか、かなり冷静だった。動揺のひとつも見せず、赤い瞳で真っ直ぐになまえを見据えていた。
「ヒーローを辞めたきゃ辞めろ。それはてめえの自由だ。ただ別れるってのは絶対に認めねえ」
「なんで…」
「俺は一生、なまえを離さねえって決めた。そう言ったはずだ」
「それは確かに聞いたけど、私は、」
「ヒーローだろうがそうじゃなかろうが、なまえがなまえである以上、俺が離れる理由はねェ」
かつて二人はそんなやり取りをした。まさか過去の自分の言葉をそっくりそのまま返される日が来ようとは、爆豪は思いも寄らなかった。言われるまで忘れていたのだ。自分がなまえに言ったことを。
「一人じゃないってのは、強いよ」
「……それも俺のセリフだわ」
「うん。そう。勝己くんを救けられるのは勝己くんだけだと思ったから」
なまえは自分が爆豪を「救ける」なんて烏滸がましいと思っていた。だから過去の爆豪に頼った。いつも自分を救けてくれている爆豪に力を借りた。もはやそれ以外に、今の爆豪を「救ける」手段はないと思ったのだ。
帰ろうかと踵を返しかけた足を白いベッドの方に向ける。近付いて恐る恐る爆豪の頭に手を伸ばし硬めの髪を撫でてみたが、嫌がられはしなかった。むしろ爆豪の手が腰を引き寄せたりするものだから、なまえはバランスを崩しかける。
泣きたくなった。さっきからずっとそうだ。泣きたい。それにたぶんここは泣いてもいい場面だ。じゃあいっそ泣いてしまおうか。爆豪はそう思ったが、泣かなかった。自分の頭を撫でているなまえの手が微かに震えていることに気付いたからだ。
なまえが声を押し殺して泣いていることを悟って、不思議と泣きたいと思っていた気持ちが和らいだ。自分の涙をなまえが吸い取っているのではないかと思うほど。それぐらい、落ち着いた。妙に冷静になった。絶望して投げやりになったのではない。
思い出させてくれた。自分が何を言ったか。思い出した。自分が何を思っていたか。
なまえをキツく抱き締める。
「一生とか、軽々しく言うな」
「先に言ったのは勝己くんの方だよ」
「俺はいいんだよ。覚悟が違ェ」
「私だって覚悟してるもん」
「……俺を救ける覚悟、か?」
「ううん、違う」
二人でしあわせになる覚悟だよ。
なまえの手はもう震えていなかった。
爆豪は思う。なまえが弱さを知っている女で良かったと。強いだけの女だったら自分の弱さをこんな風に受け入れてもらえなかったかもしれない。それこそ、あっさりと離れて行ったかもしれない。一人になっていたかもしれない。
自分が言った。一人でがむしゃらに戦っていたなまえに「てめェは一人じゃねえだろうが」「誰かいんだろ。救けてくれるヤツが」「一人じゃねえってのは強ェだろ」と。
まさか自分が一人より複数の方が強いと豪語することになる日がくるとは思わなかったが、その時の自分に今の自分が支えられているのはひどく滑稽だった。なまえにはああ言ったが、自分は違うと思っていた。しかし、違わなかった。爆豪は一人ではないことの心強さを、漸く知る。
「今日はもう帰れ」
「…うん」
「すぐ、帰る」
「う、ん」
「泣きすぎだろ」
「うん」
「……ありがとな」
「っ、うん、」
帰そうと思って離した手を、また伸ばして引き寄せる。今度は自分の胸になまえを埋めるためにベッドに座らせた。
手離すべきかもしれない。突き放して一人になる道を選択すべきかもしれない。しかし自分にはもう、なまえを手離せるだけの力がない。爆豪はそれを情けないと思った。しかしそれと同じぐらい、しあわせだとも思ってしまった。爆豪の目に、微かな光が宿る。
そしてそれを確認したなまえは、ヒーローに戻れなくなってしまった爆豪に言うのだ。
「これからはずっと、私だけのヒーローでいられるね」