四月某日。寒いのか暖かいのかもよく分からない気候が続く中、今日は、季節間違えてるんじゃないですかね? と誰かに抗議したくなるほど暑い日だった。
くたくたになるまで働いて漸く辿り着いた我が家。私は玄関でパンプスを乱雑に脱ぎ捨てると、のろのろとした足取りでそれほど長くない廊下を歩き、リビングの机の上に通勤用の鞄を放り投げる。お腹はすいていたけれど、コンビニに寄り道して買って帰ることさえ億劫なほど疲れている状態で作る気力などあるわけがない。私はとりあえず肌に纏わり付いた汗とどろどろのメイクを落としたい一心で、這うようにしてお風呂場に向かった。
浴槽にお湯を溜めながら服をポイポイと、これもまた先ほどの靴と同様、乱雑に脱いで洗濯カゴにぶち込む。洗面台の鏡に映る自身の顔と目が合えば、実年齢よりも老けて見えて少し落ち込んだ。あーもう、それもこれも疲れのせいだ。そうに違いない。
私は浴室に入るなり全身の汗を洗い流して、どうにかこうにか溜まったお湯の中に身体を沈める。気持ち良い。気持ち良すぎてこのまま寝てしまいそうなほどに。けれどもこんなところで寝て溺死なんてしようものなら目も当てられない。何やっとんだ! アホか! と怒鳴る男の顔が脳裏に浮かんだ私は、ざばりと湯船から出ると適当に身体を拭いて寝間着に袖を通した。
本来ならここで夜ご飯の準備に取り掛かるところだけれど、先にも述べたように、今日の私にそんな元気はない。私がしているのはただの事務職。だから特別な仕事ってわけではないのだけれど、疲れるものは疲れる。ちなみに今日の疲れ度は、濡れっぱなしの髪を乾かすのも面倒臭いレベルである。
タオルで簡単に水分を取った程度だから、しっとり、というよりまだべちゃりとした髪。普通なら濡れて気持ち悪いと思うのだろうけれど、私はそんなことなど全く気にせずソファにごろりと横になった。だって今日は疲れたし。眠たいし。髪を一日乾かさなかったぐらいで死にはしないし、勝手に乾くもん。
そうしてうとうとと微睡みかけていたところで、がちゃん、ばたん、と派手に扉が開け閉めされる音が聞こえた。あれ、私、鍵閉めてなかったっけ。泥棒かな。そうじゃないとしたら合鍵を持っている彼だと思うけれど、今日来るって言ってたかな。聞いてないような気がするけど。まあ泥棒じゃないならなんでも良いや。勝己くんの気紛れはいつものことだから。
「おい」
「夜ご飯はセルフとなっております」
「ンなことどうでもいいわ」
「あ、こんばんは?」
「今更かよ」
「今日も一日お疲れ様でした。おやすみなさい」
「そこで寝んな。せめて髪乾かせや」
「えー…だって眠たいもん…無理……」
何の連絡もなくうちに押し掛けてきたくせに、顰めっ面でお説教を始めるのはやめてほしい。まあ不機嫌そうな表情は勝己くんのデフォルトだから仕方ないのだけれど、そんなことより私は今とても眠たいのだ。所謂、活動限界というやつである。プロヒーローの彼に比べたら、否、比べることすら烏滸がましいほどくだらない仕事しかしていない私だけれど、今日だけは勘弁していただきたい。
私を見下ろす彼は口調こそ荒いものの、本気で怒っているわけではないのだろう。全く動く気のない私を見ても、彼ご自慢の“個性”で攻撃してくる素振りは一切なかった。もっとも、彼が私を攻撃してきたことなんて一度もないのだけれど。
「風邪ひくだろうが」
「勝己くんったら私の心配してくれてるの? やっさしー」
ほんの冗談のつもりだった。いつもの軽いジョーク。だから「何調子乗ったこと言っとんだクソが!」と怒鳴られるのがオチだろうなという予想はできていたし、これで風邪をひいたら明日の仕事休めるからそれはそれでいいか、とくだらないことまで考えていた、ら。
「自分の女の心配しちゃ悪ィのかよ」
「……悪くは、ない、です」
「だったら起きろ」
「はぁい……」
さらりと私のことを気遣う発言をした彼に動揺してしまったせいで、少しだけ睡魔が遠退いた。けれどもやっぱり身体は重たくて、ソファから上半身を起こしたまではいいものの、ここから洗面台まで行ってドライヤーをする気力までは湧いてこない。 すると、ブォーン、と。突然背後から大きな音が聞こえてきて、一瞬、彼の“個性”が発動したのかと思った。いや、彼の“個性”だったらこんな間抜けな音じゃないと思うけど。
振り返って音の正体を確認すれば、彼の手にはドライヤーが。いつの間に取りに行ったのだろうか。「オラ、前向けや」と言われるまま後ろに捻っていた首を元に戻すと、私の髪をわしゃわしゃと乾かし始めた勝己くん。彼の手はごつごつしているのに、触れられれば触れられるほど心地良いと感じてしまうのはなぜだろう。もっと手荒に扱われそうなものを、意外と繊細に毛先まで乾かしてくれるあたり、普段とのギャップが凄くて口元を緩めてしまう。
「飯は」
「だからセルフですってば」
「違ェよ。てめーは食ったんかってきいとんだ」
「食べてないけど」
「何か食え」
「カップラーメンあったかなあ……」
なんだかんだで最後まで丁寧に髪を乾かしてくれた彼は、続いて私に夜ご飯を食べろと命令してきた。だからね、勝己くん。私、とっても疲れてて眠たいの。ご飯なんて用意する元気ありませんよ。
そんな私の心の声が聞こえたのだろうか。彼は大袈裟に溜息を吐くとドライヤーのコンセントを抜きながら「分かった寝てろ」という短い言葉を残し台所に向かった。まさかとは思うけれど、冷蔵庫の中を覗き込んでいるということは何か用意してくれるつもりなのだろうか。これもまた意外なことに、悪人面で口の悪いヒーロー様は料理までできてしまうから、ハイスペックすぎて恐ろしい。
「勝己くんだって疲れてるでしょ」
「あ? 疲れてねェよ。舐めんな」
「舐めてはないけど…何作ってくれるの?」
「焼きそば」
「辛くしないでね」
「するか。普通の作るわ」
まな板を叩く包丁の音がリズミカルに響く。私のような一般人よりずっと忙しくて大変な仕事をしていて、尚且つ、暴言暴力当たり前ですって感じの彼が、こんなグータラでだらしない彼女のために包丁を握っているなんて、誰が想像できようか。私だっていまだに慣れないし信じられない。けど。
ソファからゆっくりと重たい腰を上げる。カウンターキッチンの向かいに立って、人参を切っている彼目掛けて身を乗り出せば「危ねェ」と言われてしまった。けれどもその口調は柔らかいから、やっぱり怒られているとは感じない。
「勝己くんのこと、すき」
「そうかよ」
「勝己くんは? 私のこと好き?」
「…好きじゃなかったら飯作ってねェわ」
いちいちそんなくだらねえこときいてきてんじゃねえ、という気持ちを孕んでさも当然と言わんばかりに吐き捨てられた言葉は、たっぷりの甘さを含んでいた。そしてその甘さを直接口の中に押し込むみたいに、彼の唇が私のそれと重なる。
やることをやった彼は「寝とけや」と私を追い払おうとしているけれど、お陰様ですっかり元気になって眠気もちょっと吹っ飛んじゃったから、ここで焼きそばができるのを眺めていようと思うんですよ勝己くん。何も言っていないのに私の考えていることが分かってしまうエスパー勝己くんは「ちったァ手伝えや…」とぼやきながらも手際よく野菜を切っていくからさすがである。
あともう少しで美味しい焼きそばが出来上がるから、それを二人で仲良く食べて一緒に寝よう。その方が私も、そしてきっと彼も、明日また頑張ろうって思えると思うから。