翼があるから、とか、そういう意味ではなく。彼は何の前触れもなくどこかに飛んで行ってしまいそうだと思った。言動は掴み所がなくて、ふわふわの綿あめのよう。口の中に入れたら溶けて消えてなくなるのと同じように、彼もまた、触れたら溶けて消えてしまいそうな危うさがある。だからといってどこにも行かないように、消えてしまわないようにと、彼に首輪を付けてずっと傍に置いておくわけにもいかないし、そもそも私にはそんなことをする権利などないのだった。
彼と出会ったのは、お洒落なバー。…ではなく、美味しいと評判の鶏料理専門店のカウンター。夜は鶏鍋が評判だけれど、お昼のオススメ料理は親子丼だ。私はそんなお店で、一人、優雅にランチタイムを楽しんでいた。
「綺麗な食べ方しますね」
「え?」
「それに、すごく幸せそうな顔だ」
「……あなた、確か…」
「あ、バレちゃいました?」
第一印象、なんとも軽薄そうな男だと思った。「バレちゃいました?」って。そりゃあバレるでしょう。有名なプロヒーローのホークスだもの。むしろバレないと思ったの? そう訊いてやりたい気持ちは山々だったけれど、私はこれでも大人として最低限のマナーを弁えているつもりなので、ぐっと言葉を飲み込んだ。
まさかこんなお店の中でホークスに会えるなんて、誰が予想できようか。しかもカウンター席の隣に座ってくるなんて、それこそ考えられない事態である。
たしかにホークスは親しみやすいヒーローとして名を馳せているし、普通に街中を歩いていることもあるらしい。基本的に空を飛んで移動するというのは何の雑誌に書いてある情報だっただろうか。何にせよ、この街で生きている以上、彼だって人間なのだからどこかで何かを食べたり飲んだりしているのは当たり前のことである。だからよく考えてみれば、こうしてお店の中で彼に会うのも何らおかしいことではないのかもしれない。
しかし、だ。彼はいつもこうして隣に座った見ず知らずの人間に声をかけているのだろうか。しかもこんな下手くそなナンパ紛いなセリフを使って。だとしたら「今後はやめた方がいいですよ」と教えてあげた方がいいかもしれない。
「ちなみに、誰にでもこんな風に声をかけるわけじゃないですよ」
「……そうなんですか」
「一応ヒーローなんで、女の子は口説かなくても寄ってくるし」
「まあ…そうでしょうね」
「でもほら、俺にだってやっぱり好みのタイプはあるじゃないですか」
「はあ……」
「つまりあなたは俺のタイプなんですよ」
「…どうも……?」
「アレ? そこはもう少し喜ぶところだと思ったんですけど」
彼は初対面の私に対して随分と饒舌だった。お店オススメの親子丼が運ばれてきてムシャムシャと食べている間も、私に「食べないんですか?」などと声をかけてくるのを忘れない。
ナンパだとしたら下手くそだとは思ったけれど、まさか本当にそういう目的だとは。いや、この軽さだ。もしかしたらからかわれているのかもしれない。十分に有り得る。というか、その線が濃厚だ。そう思ったのに、彼は私の考えを面白いほど把握していて、次の瞬間にはその考えを否定する。
「こう見えても結構本気です」
「…信じられると思います?」
「普通は無理ですよね、初対面ですし」
「分かってるなら…」
「でもまあ、言っとかないと伝わらないかなって」
「マイペースですね」
「よく言われます。何考えてんのか分かんないって。あ、名前教えてもらって良いですか? ついでに連絡先も」
マイペースすぎるにもほどがあると思う。けれども、なぜか彼の言葉には断ることができない魔力みたいなものがあって、私は下手くそなナンパに引っかかってしまった。
振り返ってみれば、私は最初からずっと彼のペースに飲み込まれていたのだ。出会った瞬間から今に至るまで、私は間違いなく彼に流され続けている。この感情さえも。
「いつも突然すぎますよ、ホークスさん」
「突然会いたくなることってあるじゃないですか」
「まるで恋人みたいなことを言うんですね」
「え?」
「え?」
「恋人でしょ?」
「は?」
いつものように突然会いに行くと言われて、断る間も無く私の家のベランダに降り立った彼は、衝撃的なことをさらりと宣った。お陰で私の顔はこの上なくマヌケな状態で固まっていることだろう。
私と彼は、連絡先を交換したあの日から時々会う関係になっていた。会うのは大体、行きつけの鶏料理屋さんか一人暮らしの私の家。そして連絡をしてくるのは必ず彼の方からで、私は常に受け身だった。
彼は先ほど私達の関係を恋人だと言ったけれど、私の記憶が確かであれば「付き合ってほしい」とか「好きだ」とか、そういうことはひとつも言われていない。だから私には、いつどこで、どのタイミングで恋人になったのか、さっぱり分からなかった。
「初耳なんですけど」
「こんだけ会ってたらもう恋人でしょ」
「いや、会ってる頻度の問題ですか?」
「あーなるほど。好きです付き合ってください、みたいなやつ、言ってないから」
「……ホークスさんは恋人の定義って何だと思います?」
「難しいこと訊いてくるなあ」
彼は私の部屋のラグマットの上に腰を落ち着けてから、うーん、とわざとらしく首を捻った。どう考えても何も悩んでいなさそうな顔。私がどういう意図でそういう質問をしたのか、彼なら分かっているくせに。私が何を確認しようとしているのか、何を求めているのか、どうせお見通しのくせに。
私は彼のことを何ひとつ知らない。知っていることといったら、プロヒーローとして活躍していることだけ。そこら辺を歩いている一般市民と何ら変わりない。むしろ、彼のファンに比べたら私が知っていることの方が圧倒的に少ないだろう。だから私には、彼が今どんなことを考えているのかなんて到底分からなかった。
「じゃあ恋人じゃなくてもいいです」
「どういうことですか」
「そういう肩書きがあった方が会いやすいかなあって思っただけなんで」
「…私にはホークスさんの考えていることが分かりません」
「分からない方がいい…俺のことなんて」
そう言った時の彼の顔は、初めて見る。怖いというのとは少し違う。けれどもひどく冷たい目をしていて、ぞくりとした。
自分のことは何も分からなくていいと言う。それなのに私を恋人だと言ってみたり、そうじゃなくてもいいと言ってみたり。じゃあ彼にとって、私はどういう存在なのだろう。あの日、偶然隣の席に居合わせて、たまたま彼のお眼鏡に叶った運が良いだけの女? 私みたいな女は他にもいる? ねぇホークスさん、それすらも分かる必要はないことなの?
「恋人じゃなくてもいいなら、恋人でもいいんでしょう?」
「…なまえさんがそれでいいなら」
「じゃあ恋人になりましょう」
「どういう心境の変化かな」
「ホークスさんのこと、ひとつぐらい分かりたくなって」
「面白いこと言うね。さすが俺が選んだ女の子だ」
にぃ、と口角を上げた彼は笑っているはずなのに、なぜか悲しそうに見えた。悲しそうというより、何かを後悔しているような、自責の念を感じているような、そんな表情。
彼が立ち上がる。「そろそろ行かなくちゃ」と。ヒーローというのは忙しいのだろう。私の家に来た時の彼はものの数分で帰ってしまう。だから思うのだ。いつかどこかに飛んで行ってしまいそうだと。飛んで行ってしまったらもう二度と帰ってこないのではないかと。
私から連絡をしなかったのは、自分から彼に近付いても良いものか悩んでいたから。求めたら逃げられてしまいそうな気がしていたから。つまり、怖かったのだ。彼との関係が唐突に終わってしまうのが。彼を失うことが。ヒーローとしての彼ではなく、ただのありふれた男である彼を失うことが。
「本当は恋人なんて欲しくなかったんじゃないですか」
「自分から恋人宣言しておいて?」
「だって、好きじゃないでしょう? 私のこと」
「……どうかな」
ばさり。ベランダに出た彼は翼を広げる。「じゃあまた」と言ってくれたということは「また」があると思って良いのだろうか。あっと言う間に闇夜に溶けて消えていった彼は、もう私のところに帰って来ない予感がした。
けれど、その予感はあっさり外れる。珍しいことに翌日の夜も、彼は連絡を寄越してから私の前に現れたのだ。
「突然すぎるって言ったのに」
「でもほら、恋人になったなら許されるでしょ」
「どういう原理ですか」
「…たぶん暫く会えないと思うから」
「そうなんで、す…か、」
「ごめん」
初めて触れ合った身体。触れられた私。それは一瞬。抱き締められたと言うにはあまりにも僅かすぎる時間だった。
「恋人なら、許して」
「……ダメだなんて言ってませんよ、私」
「さすが……俺の選んだ女の子だ」
ふわふわと掴み所のない綿あめみたいな男は、そう言ってまた私に触れた。触れたといっても、とん、と私の肩に頭をのせただけ。けれども私は、この時初めて、彼の甘さを理解した。…ような気がした。