「おかえりなさい」
彼は元々が粗野な性格だから世間の皆様には常識のない人間だと思われがちだけれど、事務所の人間や親しくしている友人、そして同棲中の恋人である私は知っている。言動はかなり乱暴だけれど、彼が意外と常識人であるということを。だから「おかえりなさい」という声かけをすれば、どんなに不機嫌であっても彼は「ただいま」という言葉を返してくれるということもよく知っているのだ。
しかし今日はその言葉がなかった。正確には、私が「おかえりなさい」と言った後は何の反応もなくて、暫くして忘れた頃になって「ただいま」と言ってきた、というのが正しい。まあそういう日もあるだろうと、その時はスルーした。けれども「お風呂いつでも入れるよ」「ご飯先に準備しようか?」というセリフに対しても無視を決め込まれたら、さすがにスルーすることはできない。
先にも述べたように、彼はどれだけ腹の虫の居所が悪かろうと私の言葉を無視することはなかった。だから私はこちらの声を無視されたことに対する怒りではなく、そんなにも彼の機嫌を損ねることがあったのだろうか、もしくは私が無意識のうちに彼の神経を逆撫ですることをしてしまったのだろうかという不安に苛まれる。
「今日の勝己くん、おかしいよ。何かあった?」
「……」
「それとも私、何かした?」
目付きが悪いのはいつものことだから、ぎろりと睨まれたぐらいで怯みはしない。私の問いかけに対して相変わらず無言を貫き通していた彼だけれど、こちらの絶対に引き下がらないという意思が伝わったのだろう。やがて、はあ、と大きな溜息をひとつ零すと、漸く口を開いてくれた。
「聞こえねえんだよ」
「え?」
「……耳。やられた」
いつもの三割増しぐらいで眉間に深い皺を刻み込んだ彼は、どうやら耳が聞こえないという事実を私に隠しておきたかったらしい。そんなの、一緒に住んでる以上無理でしょ、と思ったけれど、彼はきっと私に心配をかけたくなかったのだろう。言われない方が心配になるというのに、妙なところで気を遣う男である。
今日の仕事でヴィランとの戦闘中に聴覚を麻痺させるという“個性”の被害に遭ってしまったと話す彼は自分の失態が許せないようで「すぐ元に戻るからそれまで喋りかけてくんな」と、私に無理難題を押し付けてきた。話しかけんなって言われても、癖でつい話しかけちゃうんだよね。そんなわけで、とりあえず違和感の原因は判明したので一安心。私は彼の耳が元通りになるまで、いつも通りに過ごすことにした。
「いただきます」
「……いただきます」
いつもより数拍遅れて、けれどもきちんと手を合わせて食事を始めた彼は、ちらりちらりと定期的にこちらの様子を窺ってくる。いつもはそんなことしないのに。私、そんなに変な動きしてるかな。髪型が変とか? ゴミがついてるとか? そんなことを考えだして暫くして漸く気が付いた。彼がこちらの様子を窺っているのは、私が何か言葉を発していないか、口元の動きを確認するためだということに。
「喋りかけんな」とは言ったけれど、もし私が何か喋りかけた時に何の反応も返せないのは嫌だとでも思ったのだろうか。本当に、不器用で優しい人だ。そんなことを言ったら彼は全力で否定するに決まっているから今思ったことを伝えたりはしないけれど。
「何笑っとんだ」
「なんでもないよ」
「あ?」
「な・ん・で・も・な・い」
口元の動きが分かりやすくなるようにゆっくりと言葉を紡げば、彼は納得しきっていないのだろうけれどこれ以上会話をするのは無理と判断したのか、口を噤んで食事を再開した。
それから夜ご飯の食器の後片付けをしてお風呂に入った私は、ぼんやりとソファで寛ぐ彼の後姿を眺める。試しに「勝己くん」と呼んでみたけれど、振り返ってくれることもなければ返事をしてくれることもないところを見ると、まだ耳は聞こえないままらしい。
これが一生続くわけではないし、普段のやり取りを思い出してみれば大したことは話していないから寂しいと思うのもなんだかおかしいような気がするのだけれど、それでも他愛ないやり取りができないのはどうしても物足りなく感じてしまう。
「早く元に戻ったらいいのにね」
「…」
「勝己くん」
「…」
「好きだよ」
聞こえないのをいいことに、普段口にしない愛の告白なんてものをしてみる。すると驚くべきことが起こった。
「そっちで喋んな」
「えっ」
なんと私が言葉を発していることを見抜かれたのである。もしかして聞こえるようになったのに聞こえないフリをしていたとか? いや、そんな演技をするメリットなんて彼にはないし、恐らくそこまでの演技力もない。ということはまだ耳は元に戻っていないはず。じゃあなんで。
エスパー勝己くんの隣に座り、恐る恐る顔を見つめてみる。すると、こちらを見下ろしてきた彼と視線が交わって、そのまま数秒静止。そして。
「てめェの考えなんて手に取るように分かンだよ」
「……何って言ってたか分かるの?」
私が何と言ったのか、正確には分からないのだろう。彼は不機嫌そうに舌打ちすると「あとでな」と話をはぐらかしてしまった。
それから十数分後のこと。そろそろ寝ようかといつも通りに「もう寝る?」と声をかけた私の問い掛けに「あァ」と間髪入れずに返事があったことにより、彼の耳が元に戻ったことを知る。
「耳!」
「うるせえな」
「ちゃんと聞こえるようになってる!」
「だからすぐ元に戻るっつったろーが」
「すぐではなかったけど」
「揚げ足取んじゃねえ」
スムーズに会話ができるようになったからと言って甘ったるい恋人らしいやり取りなんてひとつもない。けれどもそれが私達らしくて安心した。
これで心置きなく寝ることができる。そう思ってほっと胸を撫で下ろす私に、珍しく彼の方から「そういえば」と声をかけられた。
「さっきなんつった?」
「さっき?」
「風呂上がり。俺の後ろで」
「あー……」
「なんつったんだよ」
よくもまあそんなどうでもいいエピソードを覚えていたなと感心してしまったけれど「あとでな」と言ったからには必ずこの話題を振ろうと心に決めていたのかもしれない。賢い彼は、無駄に記憶力も良いのだ。
「私の考えなんて手に取るように分かるんじゃなかったっけ?」
「分かった上で聞いてやるっつっとんだ。有難く思え」
「いやいいです。お気遣いなく」
「言えや」
「じゃあ答え合わせしようよ」
「はァ?」
「せーので言うの。同じだったら勝己くん正解! みたいな」
「くだらねえ」
折角の提案は鼻で笑われた挙句、華麗に却下されてしまった。悲しい。もしかしたら彼からの「好き」という愛の告白が聞けるかもしれない貴重な機会だったのに。
じゃあもうこの話はおしまい、ということで今度こそ寝ようと電気をパチリと消して寝室に向かう。後ろからのそのそと付いてきた彼と一緒に布団の中に入り込めば、あとはおやすみなさいと言って目を瞑るだけ。いつもなら。
「さっき」
「勝己くんって意外としつこいよね」
「好きっつったんだろ」
「ぅえっ」
「図星か」
「なに、なんで、」
「そういうことは聞こえる時に言っとけ」
「うーん…考えとく」
そう、彼は意外としつこい。そして意外と可愛い、愛に飢えた男なのだ。