何も教えられていなかったら、気付かないんじゃないかと思っていた。けれども、帰ってきた瞬間にその変化に気付いたのは、彼がどんな時でも必ず「ただいま」と言ってくれていたからだと思う。いつも通り「おかえりなさい」と言っても、今日は彼からお決まりのセリフが返ってくることはなくて、私はたったそれだけのことで先ほどの連絡内容が嘘ではないことを確信した。
事前に連絡があったから心積もりはしていたのだけれど、それでもこうして無言で家の中に入ってくる彼の姿を見ると、やっぱり本当のことなんだと実感せざるを得ない。目が合って、その視線だけで「ただいま」を唱えてくる彼に、私は曇りかけていた表情を慌てて笑顔に切り替えた。
彼にしては珍しく捕らえるのに苦戦したというヴィランの“個性”は、一定時間喋れなくなるという特殊な能力だったらしい。何をどうやったらその“個性”が発動するのかは知らないけれど、兎に角、その“個性”によってヒーローサイドは連携が取りにくくなり手こずったと聞いた。結果的にヴィランの捕獲には成功したものの、多くのヒーローは未だに喋れない状態らしく、彼もまたそのうちの一人だという。
「大丈夫? …ってきいても答えられないか……ごめん」
当たり前のことながら、彼からの返事はなし。首を横に振ってパクパクと口を動かし「ごめんな」と音にならない謝罪をされると、こちらこそ話しかけたりしてごめんなさい、という気持ちになってくる。
一定時間というのがどれぐらいなのか、それはまだ解明できていないようで、今はひたすら時間の経過とともに起こる変化に期待するしかない。恐らく数時間、長くても一日程度のものだろうから、そんなに深刻に考える必要はないし嘆くこともないということは分かっている。けれども、たとえほんの一時間だったとしても、彼の声が聞けないというのは寂しかった。
彼は元々、そんなにお喋りというわけではない。むしろ寡黙な方だと思う。だから今回の事件について事前に連絡をもらった時も、まあそんなに支障はないだろうと思っていた。しかし、蓋を開けてみればどうだろう。帰ってきて第一声「ただいま」を言われないだけで寂しさが募って泣きそうになってしまうなんて。
彼はヒーローだ。こんなことぐらいでいちいちショックを受けていたら、彼女として身がもたない。今までだってヴィランの“個性”による弊害は幾らでもあったし、その度に何でもないことのようにその弊害を乗り越えてきた。しかし、乗り越えられたからといってちっとも心にダメージを負っていないというわけではない。本当はいつも不安と心配で押し潰されてしまいそうだ。けれどもそれを彼に伝えたところでどうにもならないし、困らせてしまうのは目に見えている。だから私は、彼が帰ってくるのを笑顔で出迎えると決めているのだ。
私は彼がヒーローになる前から彼のことが好きだったし、ヒーローになってからも変わらず、否、益々彼への想いを膨れ上がらせている。彼が私のことをどう想っているのかは、イマイチよく分からない。ただ、良くも悪くも、彼は非常に素直で裏表がなくストレートな表現しかできない人だから、突然驚くような愛の言葉を囁くことがあったり、私を求めるような行動を取ることがあったりするのは事実だ。
「ご飯、準備するね」
反応が返ってこないことを知りながらも癖で話しかけてしまうから、独り言を言っているような気分になるのが切ない。しかし、いちいち落ち込んでいたら何もできなくなってしまうからと、私は努めていつも通りに振る舞った…つもりだ。
手を合わせて一緒にご飯を食べる時も、食事が終わってリビングで寛ぐ時も、それぞれお風呂に入ってアイスクリームを頬張る時も、彼は無言のままだった。帰ってきてから三時間は経過しただろうか。今回のヴィランの“個性”の効力は随分と長持ちするタイプのようだ。
隣に座る彼に視線を送る。数秒そのまま見つめ続けていると、視線に気付いた彼がテレビからこちらに整った顔を向けてくれた。「どうかしたのか」と口パクしながら小首を傾げてくる姿は、小動物のようで可愛らしい。
「なかなか戻らないなと思って」
「……、」
「今日はもう寝ようか。明日も早いもんね」
いまだに声が聞けないというただそれだけのことで揺らぎかけた瞳を逸らしつつ、ソファから立ち上がる。寝てしまえば、喋れないことなんて気にならない。朝になったらきっと、いつも通りに「おはよう」と言い合えるはずだ。
私の意見に同意したのか、彼はテレビの電源を切って私の手を取り寝室に向かった。こじんまりとした和室に並べられた布団に仲良く寝転がると、彼の手が私の方に伸ばされ腕が頭の下に滑り込んできて僅か驚く。珍しい。こういうことは普段あまりしないのに。
彼なりに、私のことを気遣ってくれているのだろう。不器用ではあるけれど、きちんと私のことを大切にしようとしてくれている。そのことを日常の些細な動作の中で実感できるから、私は彼のことを好きでい続けられるのかもしれない。
「おやすみ、焦凍くん」
「……み、」
「え、」
掠れていたし上手く聞き取ることはできなかったけれど、今確かに、彼の声が聞こえた。ような気がした。私は弾かれたように顔を上げ、斜め上にある彼の顔を見つめる。
彼自身も驚いているのだろう。あ、あ、と何度か発声練習のように声を出して、自分の喉の調子を確認している。それを繰り返すことほんの数分。そして。
「なまえ、」
「…声、戻ったんだ、ね、」
「なまえ…、」
自分の声を確かめるように、そして言葉を発することができなかった間に空いていた私の心の穴を埋めるみたいに、彼はしつこいぐらい何度も私の名前を呼ぶ。「そんなに呼ばれなくても聞こえてるよ」と笑いかければ、ぎゅう、と抱き締められて苦しくなる。いとおしい苦しさだ。
「ずっと呼びたくて堪らなかった」
「…うん」
「いつもそんなに喋っているつもりはないが、声を出せないってのは辛いな」
「私も同じこと思ってたよ」
「好きだと言ってやることもできない」
「…元々そんなに言わないでしょ?」
「今回のことで分かった。言えるうちに言っておかないと後悔する」
「できたらもう二度とこんなことにはなってほしくないけどね」
私を抱き寄せる腕の力が少しだけ緩んで、こつりと額同士がぶつかった。彼が私に向かって「好きだ」と囁く声の、なんと甘やかなことか。久し振りのフレーズに、心臓がムズムズする。
別に毎日好きだって言ってほしいなんて思ったことはないけれど、言ってもらうこと自体は悪くないなあ、などと贅沢なことを考えたところで、私の口も彼とお揃いの単語を紡ぎ出す。
「私も、好きだよ、」
好き。たった二文字の陳腐な言葉。けれどもその安っぽいセリフに、私達は有りっ丈の愛を注ぎ込むのだ。