誰よりも彼のことを分かっているつもりでいた。知った気になっていた。長い年月を共にし、恐らく家族よりも一緒に過ごす時間が長かったから、私は彼のことなら何でも理解できているつもりになっていたのだ。けれどもそれは、自惚れにすぎなかった。というか、全ては私の一人相撲だったということなのだろう。
喧嘩らしい喧嘩をしたことがなかったのは、私がいつも彼を適当にあしらっていたからだと思っていたけれど、実はそうではないということに気付いてしまった。よくよく振り返ってみれば、どんな言葉を浴びせてきた時だって彼はいつも私を拒まなかった。つまり彼は、いつも本気で怒っていなかったのだ。
優しい、とはとても言えない。包み込むように柔らかく、なんて言葉も似合わない。常に強気で強引で、俺がこうと言ったらこうなんだよ! と突き進む男だ。何があっても自分の信念は曲げない。揺らがない。それが彼をヒーローたらしめる理由だと思っているから否定はしない。けれど、肯定しきれていないのも事実だった。
とはいえ、私はそんな彼のことが好きだったし、彼が選んでくれたのも私だった。いつからだったのだろう。彼が私を隣にいてもいい存在として認識してくれるようになったのは。きいても答えてくれないから、私にはいまだに分からないままだ。もう高校を卒業して十年も経つのに。私は彼のことが、あの頃よりも分からない。
「寂しい、なあ、」
彼はみんなのヒーローだ。だから、いつでもどこでも、誰かのために生きている。それが誇らしくもあり、寂しくもあった。この歳になって、寂しさが増した。彼がどんどん遠くに行ってしまうような気がして。
だって私を選んでくれた理由さえ教えてくれないのだ。それで、十年。よくもった方だと思う。隣にいることを許してくれた、イコール付き合っている、と思い込んでいたけれど、果たしてその解釈も正解だったのか。そもそもそこに特別な感情は存在しているのか。びっくりしたことに、私は今まで確認したことがなかった。
「私のこと好き?」「私達の関係って何?」そう尋ねたら、彼はきっとうざったそうに眉間に皺を寄せる。それを、何でもないことのようにスルーし続けてきたけれど、私はずっと心の奥底で恐れていたのかもしれない。彼に嫌われてしまうんじゃないかって。いつかそこらへんのゴミクズと同じようにぽいっと、簡単に捨てられてしまうんじゃないかって。
だからきけなかったし求めることもできなかったのだ。何度キスをしても身体を重ねても名前を呼ばれても、好きだとは言ってもらえない。それが当たり前で、それで良いと思っていた。違う。強請ることで失うのが怖かっただけ。けれど私はついに言ってしまった。
「爆豪くんは私のこと好きじゃないんでしょう?」
「あ?」
「今のこの関係も、よく分からないし」
「関係?」
「今更なんだけどね、もう、なんていうか、爆豪くんのことよく分からなくて」
「…何が」
「全部だよ。全部。何を考えてるのかとか、何を見て何を感じてるのかとか、ぜーんぶ。分かんないの」
キッカケがあったわけじゃない。しいて言うなら、友達が結婚したとか、街行くカップルが幸せそうに見えたとか、テレビで恋人の定義とはという特集をしていて私達がそれにちっとも当て嵌まらなかったとか、そういうことが積もり積もって崩れてしまったというところだろうか。
好きだって言ってくれたことないもんね。
ぽろり、口を突いて出た一言に、彼は何も言わなかった。何も言わぬまま、タイミングよく出動要請がきて、私の元を去って行った。彼はヒーローだから、仕方がないのだ。私を選んでくれた。彼の隣にいることを許された。でも、私は今、ひとりだ。
ベッドを背にして膝を抱えて蹲り、真っ暗な部屋の中で殻に閉じこもる。そうしてそのまま、いつの間にか意識を手放していた。器用にもベッドに横たわることなく眠っていたらしい。私が意識を浮上させたのは、がちゃん、ばたん、という大きな音が聞こえたからだった。どうやら彼が帰ってきたようだ。
真っ暗な部屋に入ってくるなり蹲っている私を視界に入れた彼は、恐らくお決まりの不機嫌な顔を象ったことだろう。暗いのでよく見えないけれど、無駄に長い年月を共にしてきただけあってそれぐらいは分かった。
「……ンなとこで寝てたら風邪ひくだろが」
「大丈夫だよ。寒くないもん」
「風呂は」
「入ってない」
「飯は」
「食べてない」
「今何時だと思っとんだ」
「分かんない」
我ながらどうしようもない女だと思った。自分でもそう思うぐらいだから、彼がそう思うのも当然だろう。はあ、と聞こえたのは彼の溜息。
仕事で疲れて帰ってきたというのに同棲中の彼女はご飯もお風呂も準備しておらず、ベッドにも入らず暗闇の中で蹲っているだけの無駄な時間を過ごしていたのだ。そりゃあ愛想を尽かしたくもなるだろう。
「そんなに大事かよ」
「…何が?」
「言葉が」
「えーと……、」
「言ったらそれで満足できンのかてめーは」
怒られるか、そうでなければ舌打ちしてここから退散するか、そのどちらかだと思っていた。のに、予想だにしない第三パターンを繰り出された私は、寝起きということもあって上手く切り返すことができずに口ごもる。
言ったら満足できるのか。何を? これまでの話の流れからいって、それは恐らく「好き」というフレーズについてのことなのだろうという察しはついたけれど、果たして彼は私がイエスと言ったら囁いてくれるのだろうか。囁いてくれるとして、そこに気持ちはあるのだろうか。
彼が私の前にしゃがみ込む。疲れているからなのか、珍しく静かで元気がない。私と会話をしているから余計に疲れてしまったのかもしれない。それでも私から離れない、私を拒絶しない彼は、何を思っているのだろう。ほら、分かんない。私には彼のことが、何も。
「俺のことが分かんねえとか、ンなことどうでもいいんだよ」
「どうでもいいって、」
「こっちだってテメェの考えとることなんか分かんねーわ」
「…それはそうだろうけど」
「分かんねえならきけや。してほしいことがあんなら言え。俺はそうしてんだろーが」
それはとってもシンプルなことで、最も難しいことだった。だって、そういうの、あなたは一番嫌いじゃない? 不安だからって瞳を潤ませたり、失いたくないからって縋り付いたり、怖いからって何度も強請ったり。あなたは、そういう女は求めていないじゃない? 私、知ってるの。だから…だから?
「好きだから一緒にいんだろ」
「っ、」
「いちいち言ってやんねえと分かんねェのかクソが」
「分かんないよ…分かるけど、分かんない、」
「はァ? 日本語喋れや」
「爆豪くん、爆豪くん、」
「あ?」
「ぎゅってして、もう一回だけ好きって言って」
「……ったく、」
めんどくせえな、という気持ちが全身から滲み出ていた。それでも彼はきちんと願いを叶えてくれる。ちゃんと抱き寄せて、ぎゅってして、好きだって、とてもとても小さな声で言って、すぐに離れた。暗闇に目が慣れてきたからなのか、彼との距離が物理的に縮まったからなのか。視認できるようになった彼の顔は予想通り不機嫌そうで、頬が緩む。いつも通りだなあ、って、安心する。
私は彼の見立て通り、とても面倒くさくて情緒不安定で気紛れな女だから、きっとまたいつか、今日と同じようにわけの分からないタイミングで突然彼を困らせて戸惑わせてしまうだろう。今度は十年後じゃなくて一年後かもしれないし、五年後かもしれないし、もしかしたらこんなことはもう二度とないかもしれない。でも彼はいつも、仮定の話はどうでも良いと言う。そうなったらそうなった時に考えりゃいい。そういう男なのだ。
「いつも一人でいると寂しくってね、たまには優しくしてくれないとまたこんなことになっちゃうよ」
「知るか」
「逃げちゃうかもよ?」
「すぐ捕まえるわ。舐めんな」
「ねぇ私達って恋人なのかな?」
「……肩書きが欲しけりゃ今はそれで我慢しとけ」
「今は?」
「オラ、寝んぞ」
「もうあんまり眠たくないけど、爆豪くんがどうしても一緒に寝てほしいって言うなら寝てあげないこともない」
すっかり元気を取り戻してしまった私にうんざりするのかと思いきや「じゃあどうしてもだ」と私をベッドの上に軽々と放り投げた彼は、自分もすぐさまベッドに乗っかってくる。優しいとは言い難い手付きで布団の中に引き摺り込んで、お腹がすいたかもとか汗臭いかもとか、そういうことは全部無視して眠りの体勢へ。
ごそごそと身を捩っていたら「何時だと思っとんだ」と本日二度目のセリフを吐き捨てられた。はて結局何時なのだろうか。枕元の時計を確認すれば、ちょうど夜中の一時になるところ。「一時だねぇ」と返せば「寝ろ」と短く命令されて、眠たくないって言ったのになあ、と思ったけれど声には出さなかった。私は彼の甘い香りを嗅いだら自然と眠たくなってしまう体質になったようで、きっとすぐに眠れるような予感がしたからだ。
おやすみ、マイヒーロー。明日も私を離さないでいてね。