眠たい奴ら冬の日暮れは早い。 まだ18時を回って間もないというのに、辺りはすっかり夜の風貌をしていた。数日前までの冬とは思えない暖かさもすでに身を潜め、一呼吸の間に冷たい風がむき出しの肌を攻め立てる季節となっていた。 トラファルガー・ローは首に巻いた黒いマフラーに顔を半分以上埋め、黙って家路を急いだ。 一般庶民が知れば目眩しそうな家賃を支払っているマンションのドアにカードキーを滑らせると、分厚いドアがそのセキュリティに反比例するように軽い音をたて開く。 部屋の中はすでに明るく、冷えた頬にまとわりつくような温もった空気が外の冷気を押し退けた。玄関には草臥れたスニーカーとサンダルが散らばっている。中に誰かいるのは確かなようだが、男の帰宅に何の反応も帰ってこない。 「……」 ここだけ春が来たのような温もりの中、きっちり身につけていたマフラーやコートを緩めながら男は部屋に上がった。男の様子を見る限り、中にいるのは侵入者ではないようだ。 床まで温もった廊下を進み、リビングに足を向けると、中から囁くような声が聴こえた。男が中を覗くと、大人一人が両腕を広げてやっと端に届くような大画面のテレビがついたままになっていた。カーペットに転がったリモコンを拾い上げ、バレーボール日本代表の勝利を告げる眼鏡の男を画面から消し、ローテーブルの下に転がり込んでいた空調のリモコンを拾い上げ、温風を吐き出し続けるエアコンに休憩を与えた。 「……おい」 それから男は、テレビの向かいのソファーを振り返った。ソファーの上には、ベージュの見るからに手触りのよさそうなブランケットにくるまれたでかい塊がある。その塊は、すよすよと気持ちよさそうな寝息と共に緩やかに上下している。 「……」 トラファルガーは懐から煙草を取りだし、火をつけた。ジジッと鳴いた煙草の先はすぐに赤くなり、一筋の煙が温風のなくなった室内にのぼる。 「……おい」 男は煙りを吐き出し、胡乱な目でその塊を見下ろし、再度低い声で呼び掛けた。しかし、一定のリズムの寝息が乱れる兆しは見えない。 「とっとと起きろこの穀潰しが」 「ぐわっ!」 ソファーの塊が踏まれた蛙のような声を上げた。「ような」ではなく、実際、ソファーの塊は男の長い足に踏み潰されている。ジタバタと動き出した塊から足を退けると、ブランケットがばさりと床に落ちた。 「何すんだトラファルガー!」 ブランケットの中からグレイのスウェットにTシャツ姿の男が現れ、あちこちに跳ねた赤毛を揺らし、尖った犬歯を剥き出して威嚇した。 「てめぇこそ何してんだ?ご主人様のお帰りに寝こけてんじゃねぇよ」 「'ご主人様'?お前そういう趣味あったのかよ」 赤毛の男が牙を見せたまませせら笑うと、トラファルガーは男の両頬を片手で掴み、グッと顔を近づけ笑った。 「キッド……てめぇに住み家を与え、飯を与えてる'ご主人様'が誰か分かってるよな?」 頬を掴むトラファルガーの右手の指の間には、火のついた煙草が挟まれている。キッドと呼ばれた赤毛の男は横目でそれを見ながら、頬を掴まれ強制的に唇を尖らせられた間抜け面で必死にこくこくと頷いた。 「……で?」 「おけーり!」 煙草をくわえなおしたトラファルガーが、腕を組み、男を斜に見下ろすと、掌を返すように愛想を振り撒いて男が首にすがりつく。 「うわ、トラファルガー冷てぇ」 合わせた頬の冷たさに驚いた男は、一度顔を離し、火照った頬の熱を与えるように再度すりよった。 「外は真冬だ」 「そりゃ寒いな」 キッドは首筋から頬にかけて何度もリップ音をたてながら、ソファーに徐々に背を埋めた。ソファーに沈んだ二人は、息を潜めるような静かで長いキスをする。 ふふ、と邪気なく笑い唇を離した男は、仕事柄きれいに切り揃えたトラファルガーの爪先に舌を絡めた。 「指先氷みてぇ」 男のくせに雪のような肌の手が、シャツの裾から直に男の熱を教える。固い腹筋、滑らかな脇腹、背骨の窪み。先ほどまで眠っていた男の体温は高い。 「いちばんあったかいとこ探してみな」 ゴムの中に一回、腹の上に一回、これからおそらく口の中に一回―――トラファルガーはソファーの上で新しい煙草をふかしながら冷静にカウントした。まだまだ若いなぁ、と男は他人ごとのように胸中で一人ごちる。 は……、ふっ……っ、 床に座り込み、男の股間に顔を埋めたキッドは、時折獣のような息づかいを漏らし、夢中で男のモノに食らいついている。 「くわえる」「舐める」というより「食らいつく」という表現がキッドの口淫をよく表している。口端からだらだらと涎混じりの液体を溢し、恥も外聞もなく荒々しく動く唇も舌も、魅せる努力など一つもされていない。大型犬が与えられた骨型のおやつに、前足を器用につかいかじりつく様に似ている。獣のような口淫でも、男の悦ばせ方を隈無く全身で学んだキッドのそれは、学も知性も品性も人並み以下の男の唯一の特技と言える。 (このバカの唯一の取り柄だな) あまりにも失礼な、だが事実でしかないことを思いながら、トラファルガーはキッドの赤い髪を撫でた。 「……で、今日は何だ?」 男がだるそうに煙を吐くと、喉奥までくわえこんでいたものを離し、キッドが顔を上げた。 「んあ?」 「お前が甘えてきたりサービスしてくんのは、何かやらかしたかお願いかあるときしかねぇだろ」 「……」 図星を刺された顔で男が押し黙る。 「……別に……なんもねぇよ」 誤魔化すように先端をくわえ、あぐあぐと口を動かす。目があちこちに泳いでいる。頭の弱いこの男は、嘘が壊滅的に下手なようだ。 ちなみに、前回似たようにキッドが自分からトラファルガーを誘ってきた時は、ベッドの下からトラファルガーが仕舞っていた年代物のワインボトルが粉々になった姿ででてきた。 「じゃあ何もねぇのな」 「……」 トラファルガーが投げ槍に言うと、しばらくの沈黙の後、頬をひきつらせただけのような下手くそな笑みで男は言った。 「………………………小遣いくれ!」 「却下」 溜めに溜めて言った渾身のお願いは、煙草の煙と共に一蹴に伏された。 「ちょ、ちょっとは考えろよ!」 「アホか。今月の小遣い先週渡しただろうが」 手も口も止まった男の頭を掴み、続きを促しながらトラファルガーは深い皺を眉間に刻んで言う。 「パチンコれ負けら……」 側面に唇を這わせながら、男が叱られた犬のような目でトラファルガーを伺う。 「自己責任だ、働けクズ」 「らってガマン苦手らひ……」 キッドに働く意思が皆無なのではない。ただ、社会適合力が極端に低いこの男は、我慢することを知らず、一月と経たずに上司か同僚か客を殴って首になるのだ。もう何度もそうやって首になる男の姿をトラファルガーは見ていた。 「金が欲しいなら我慢覚えて働け」 「……」 キッドは不満げな顔で押し黙る。このまま無言で誤魔化し、この話をうやむやにする気だろう。 「……キッド、ちょっと窓開けてみろ」 「?」 どうしようもないクズさを示す男に、窓の方を煙草で指してトラファルガーがそう言うと、くわえたまま目だけを上げてキッドは不審そうに顔を傾げた。 早く行けと、顎で窓の方を指すと、キッドは渋々立ち上がり、裸のまま窓に向かう。毎日毎日部屋内でごろごろしているくせに、しっかりと筋肉のついた体をしている。 窓の前に立ち、カーテンの隙間から僅かに窓を開けたキッドは、声にならない叫び声を上げ、ピシャリと窓を叩きつけるように閉じた。 「さ、さむ!さむい!死ぬ!」 だらだらと窓に向かった時の三倍の速さでばたばたと戻ってきたキッドは、ソファーの下に落ちていたブランケットを肩に掛け、トラファルガーを押し倒すように引っ付いた。 「何させんだよロー!」 縮こまっただろ、と一気に冷えた体を押し付けてキッドが吠えた。 「ああ、俺もな」 俺んとこまで冷えたのは誤算だったと、トラファルガーが素っ気なく嘯く。 「だから何がしたかったんだよ!」 「……ふー」 トラファルガーは気だるく煙を吐き出し、腕を伸ばしローテーブルの上の灰皿に灰を落とす。それからトラファルガーはキッドにとっての爆弾を投下した。 「今月中に仕事を見つけなければユースタス・キッドくんはこの寒空の下、家なき子になることになります」 「!」 トラファルガーの投爆により大打撃を受けたキッドは、顔をひきつらせた。 「お前はもう少し我慢を覚え、年相応の知性と理性を養え」 「!!」 キッドにとっては非情すぎる男の言葉に、キッドは青ざめて男の胸に顔を伏せた。 「今月中」はこのダメ人間には厳し過ぎたかと、トラファルガーはティースプーン一杯分ほど同情を感じた。しかし―――それから数秒後、煙草の灰が増える間もなく顔を上げたキッドに、トラファルガーはほんの僅かの同情も取り止め、‘正真正銘クズ人間’の称号をキッドに贈った。 (一回五千円で俺を買ってよオニイサン!) |