ホルマリン




「帰らなくていいのか?」



湯上がりのうっすらと赤く上気した頬をぼんやりと眺めながら俺は口を開いた。何を今更、決まり文句だからしょうがないか。そもそも今更とはどこからの今更だ。意味のない思考に耽るフリをする俺に彼女は軽やかに笑いながら、僅かに汗ばむその白い首筋に綺麗な仕草でタオルを宛てた。



「隊長こそ…――彼、今日は残業だ、って」

「奇遇だな」



ベッドの傍らに立つ名前はやんわりと微笑んで俺を見下ろしてくる。目が合った瞬間俺はその手を掴み力任せに引っ張って、そうすると彼女は重力に逆らわずに落ちてきてそのまま唇同士が重なり合った。数秒肉感を感じ合い一度離れて見つめ合う距離感。俺の首に腕を絡めて膝に乗り上げ口付けてくる彼女を一瞥し、俺はその腰を掴んで押し倒した。


反転。



***



よく浮気相手にはキスをしないなんて言うけれど、それならこの関係の名前は何だ。愚問だと思いながらも問うことを止められないのは、きっとどこかで安定を求めているからだ。この関係を肯定してくれる何かを。正解なんて、そもそもが間違った二人に正しい答えなんて有りはしないのに。



「…好きだ」



情事後特有の気怠く甘ったるい空気に流されるままに俺は言葉を紡ぐ。ベッドヘッドに凭れて中途半端にたくし上げられたブランケットを指先で弄ぶ彼女の肩を抱き寄せると、私も、と彼女は微笑んだ。決して「愛してる」とは言わない。でもそれ以外は、所謂恋人同士の仕様とは何も変わらないのだ。何も。
だからこそ、この関係は歪みを生む。そこにあるのは、思い遣りも何もない、相手の事を顧みない独占欲だけだ。

俺は目を閉じて想像する。
大きな円柱内の液体に浮かぶ名前の姿。ぷかぷかと、行くも戻るも出来ずにただ浮いている。何度か訪れたことのある技術開発局の液体標本のように、誰に干渉されることも煩わしい世間体を気にすることもなく。腐敗せず時が止まったままの名前はただその姿を俺だけのために晒す。そこには当然、彼女の意志も自由もへったくれも有りはしないのだ。笑えてくる。



「(大概だ、全く)」



俺は静かに目を開けた。
ずっと俺の肩に頭を預けていた彼女が、ゆっくりと視線だけをこちらに向けてくる。上目がちに見上げてくるしっとりと潤んだ瞳はまるで想像の中で液体越しに見たそれと同じだ。
誘われるままに合わせた唇は単純な触れ合いだけでは満足出来なくて、徐々に深いものへ変わっていく。彼女の白い指が髪を掻き上げて梳いていく感覚が俺は好みで、もっと感じようと目を閉じる。閉ざされた視野に再び水中に浮かぶ彼女が現れる。

こんなにも触れ合い感じ合っているのに、見える彼女はガラス越しだ。それが物足りなくて更に彼女を求めると今度は酸素不足が邪魔をする。そんな中で見えた目の前の液体の中は、酸素を必要としない、今の自分には酷く焦がれる世界に思えた。彼女だって中に居る。
暗闇の中で手を伸ばす自分に釣られるように、俺は酸素を求めて口を開いていた。無意識のうちに、絆されるように……。瞬間、今まで彼女の中で彼女を犯していた俺の舌が押し出されて、今度は俺の口内が彼女の舌と唾液の侵入を許していた。
酸素と一緒に飲み込んだその唾液。ごくん。



「ねえ、知ってる?」
「ホルマリンって、毒があるの」



ガラスの中の彼女が笑う。合わせた唇が微笑みを形作る。脳内に響くのは、どの彼女の声だ?
驚いて開けた目に映ったのは、やはり水中のそれと同じ濡れた瞳だった。いや、違う…違ったんだ。彼女が濡れているんじゃない。濡れている、液体の中なのは…――。






ホルマリン
(行くも戻るも出来ない有毒の世界)






end
本当に怖いのは女の方(笑)


 

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