Chapter.72
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仁のアパートまで、言葉を交わすことはなかった。ただ、仁が俺の手を固く握り締める感触だけが鮮明だった。
部屋に上がり、すぐに脱衣所へ仁を連れて行った。びしょ濡れの体をタオルで拭いて、服を脱がせなくては。
シャツのボタンをぷち、と外すと、その手を仁が掴む。
「リビングにいて」
「……わかった」
ソファに座って待っていると、数分で仁が出てきた。腰タオル一枚の仁はすぐに部屋の奥へ行って、着替え始める。
衣擦れの音を背中越しに聞きながら、初めてここに来た日を思い出した。あの日もこうしていたっけ。
「………」
無言で仁が隣に座る。触れ合わない距離が少し寂しい。
「ツツミと出会ったのは二十歳の時だった」
仁は静かに口を開くと、堤さんとの話を聞かせてくれた。
「春に会って、それきりで。夏にまた偶然会って、一緒に過ごすようになって、でも冬にツツミは結婚した。それから一度も会わなかった。ついこないだまでは」
少しだけ決まりの悪そうな顔をした仁は、俯いて続けた。
「お互い、都合のいい時に会うだけの関係だと思ってた。恋人とかじゃなかったよ」
「でも、好きだったんでしょ?」
「………」
はぁ、と小さく溜め息が聞こえた。
「だった、ね。過去形。もう昔みたいな気持ちは、ツツミには無いよ」
まだ少し冷たい手がすり、と俺の手に重ねられる。仁の方を向くと、目が合って。
「今、好きだって思えるのはタクトだけ。……好きだよ。信じてもらえないかもしれないけど」
心臓が跳ねる。うるさくわめき散らしている。
聞きたかった。ずっとその言葉を聞きたかった。好きだって言って欲しかったんだ。
目の奥が熱くなる。鼻がつんとする。
どうしよう。嬉しい。
「だから、もしタクトが許してくれるなら、もう一度俺と付き合ってください」
ぎゅっと手を握りしめられて、真っ直ぐに見つめられて、駄目だ、目が潤んでるのが分かる、泣きたくない、こらえるけどやっぱり駄目だ。
じわり、滲む視界。不安げな仁の顔。
そんな顔しないでいいよ。
「俺も……す…好き」
この後に及んでまだ素直に伝えることが恥ずかしいなんて。上手く言えないなんて。
仁は呆れるだろうか。
瞼に溜まる涙越しに見る仁は、笑っていた。
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