Chapter.65
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雨の中をふらふらと、どこへ向かうでもなく歩いた。今どの辺りにいるんだろう。駅まで戻って、家に帰らなきゃ。分かってるけどそんな気分になれない。
このまま雨と一緒に流れて消えることができたら、楽になれるかな。
水滴と一緒に涙が頬を伝って落ちる。
好きとさようならが交錯して、ぐちゃぐちゃだ。
仕方ない。どうしようもない。諦めるしかない。忘れるしかない。終わらせるしかない。
この気持ちをはやく断ち切らなくちゃ。
未練がましくしがみつこうとするのは、やめなくちゃ。
言い聞かせて、ただ歩く。下を向いて、足元を見て。ここはどこだろう。俺はどこに向かってるんだろう。
不意に、視界に入ってきたのは立ち止まる足。目の前に、誰が?
顔を上げると、見知った人がそこにいた。
「何してる、こんな所で傘も差さないで」
ユタカだった。
「……来い」
ぐい、と肩を掴んで寄せられ、傘に入れられた。もうびしょ濡れだからあまり意味はないけれど、ユタカの優しさだろう。そのまま歩くユタカに黙って従った。一人でも、この人と一緒でも、どこへ向かうか分からないのは同じだ。
道すがら無言で、辿り着いたのはアパート。一人暮らしではないのか、或いは自分の家ではないのか、ユタカは呼び鈴を鳴らしてドアの前で待つ。
「おかえりなさい、雨凄いですね……あれ?」
数秒後に出てきたのはマスターだった。
ユタカは持っていた買い物袋と傘を彼に渡して、中に入るよう背中を押して促す。
「タオル持ってくる」
そう言って、マスターと二人で部屋の中へ消える背中。
戻ってきた時にはバスタオルがその手にあって、頭から身体からとりあえずわしわし拭かれた。その間、俺はただぼーっと突っ立っていただけだったけれど、ユタカは何も言わなかった。
「体、冷えたでしょう?風邪をひいてしまうので、湯舟に浸かって温まってきてください」
にっこりと微笑むマスターは、そう言って俺の服を脱がせ始めた。
「あっ、あの…っ」
「このまんま家の中歩かれたら、部屋中びしょびしょになりますから。大丈夫、ちゃんとバスタオルありますから隠してくださいね」
「自分でやりますから……」
さすがに、脱がされるのは恥ずかしい。そうですか、と言ってマスターは離れる。ユタカは部屋へ戻ったようだ。
濡れて脱ぎにくくなった服を脱ぎ捨てる。上はそのまま、下はタオルで隠して。
脱ぎ終えた服はマスターが回収して、俺は風呂場に連れて行かれた。ごゆっくり、とだけ言い残して、マスターは部屋へと戻っていった。
浴槽に身を沈めると、温かさがじわりと全身に巡る。頭を浴槽の淵に預け、ぼんやりと天井を見つめて、仁を思い出した。
そうしたらまた涙が溢れてきて、しばらく浴室から出ていけそうになかった。
お風呂から上がる時には、瞼は泣いたせいで腫れぼったくなっていて、目は赤くなっていた。脱衣室には新しい部屋着が置いてあって、それに着替えるとだいぶサイズが大きい。たぶんユタカの物なんだろう、と袖を捲りながら思う。
風呂場を出ると、ユタカが廊下で煙草を吸っていた。床に胡座をかいて、脇に灰皿を置いて。その真っ黒い瞳に俺の姿を見留めると、ぎゅぎゅっと火を揉み消して立ち上がる。その背は俺より随分と高い。軽く見上げるくらいだから、180は超えているんだろう。
ユタカは無言で部屋のドアを開けて、目線で中へ入るよう促す。
「服、勝手に洗濯しちゃいました」
テーブルにコーヒーを用意して、マスターは「どうぞ」と椅子を引く。すみません、と言いながら着席すると、その隣にユタカが、向かいにマスターが座った。
「いやぁ、台風直撃だそうですよ。すごい雨風で電車も止まってしまったようです」
窓の外を見ながら、マスターは言った。電車が止まってしまっては帰れない。後で家に連絡しないと。
「というわけで、ゆーっくりお話、聞かせてもらいますね?」
ニコ、と笑うその顔は、有無を言わせない迫力があった。何でもないです、とは口が裂けても言えなさそうだ。
「え、っと……仁と、別れました」
「詳しく」
今日あったことも、堤さんに言われたことも、全部話した。その間、マスターは頬杖を付き相槌を打ちながら、ユタカは無言でコーヒーを飲みながら、聞いてくれた。
「……ふむ。それで、濡れ鼠になった巧斗くんを、樹が拾ってきたわけですね」
「いつき?」
「あ、ユタカくんの名前です。豊口樹。豊かな口で、豊口。無口なのにねぇ」
初めて知った。ユタカが名前なんだと思っていた。
「ユタカは店での源氏名みたいなもんだ。そんなことより、どうするんだ仁は」
「どうする、って……。どうしようもないです」
別れてしまったし、堤さんを選んでいるのだし、俺の出る幕はもうない。気持ちの整理をつけるだけ。それで終わる。
「それで、諦められるのか」
「諦めるしか、ないじゃないですか」
どうして、そんな意地悪なことを聞くんだろう。はやく忘れて、楽になりたいのに。
だって、まだこんなに苦しい。なんで?終わったのに。仁の気に食わないことに触れて、喧嘩して、嫌われたんだ。そうして仁は堤さんの所へ行った。取り残された俺は、この気持ちを消し去るだけ。
「まだ好きなんだろう、仁のことが」
嫌われても、まだ。別れても、まだ。
「…………好き、です。別れたくなかったし、堤さんに嫉妬してる」
「じゃあ諦める必要ないですね。それに、彼は仁を幸せにはできませんから」
「それって、どういう…?」
「以前の爛れた関係に戻って、また仁が傷付くだけです。きっと」
爛れた関係、って。
ああ、マスターは仁と堤さんの昔を知ってるから。だからそんな、悲しそうな笑顔なんですね。
「でも、俺に何ができるわけでもないですし…」
「まぁ、それは後で考えましょう。今日は疲れたでしょうから、もう休みましょうね」
親に、帰れなくなったから知り合いの所へ泊まると連絡すると、家の人に代われと言われてひやっとしたけれど、マスターがうまいこと言いくるめてくれた。何から何までお世話になりっぱなしで申し訳ない。
ダブルベッドに男三人川の字で寝ることになった。結局あまり眠れなかったけれど、二人が取り止めのない話に付き合ってくれたし、一人じゃないから心細くはなかった。
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