Chapter.30
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気がつけば秋が過ぎ、冬がきていた。
それでも変わらない日々が続いていた。
寒くなって、先生の体温がひどく温かく感じられて。ただ何となくこんなことがずるずると続いていくんだろうと、感覚が麻痺した心で感じていた。
終業式を一週間後に控え、教室は冬休みを待ちわびてソワソワする生徒の空気で満たされていた。
その日の先生は、不機嫌だった。
いつものように、放課後、倉庫へ行って。中では顔をしかめた先生が待っていた。
「巧斗」
低く、怒りを含んだ声音で名前を呼ばれた。
俺を怯えさせるには、それだけで十分だった。
「はい…」
恐怖で声が掠れた。
何か、先生を怒らせることをしてしまった。
俺が、何か悪いことをしたんだ。
また叩かれる。きっと。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
「今日、えみと楽しそうに話していたね」
「当番で、一緒だったから……」
冬休みが楽しみだとか、宿題が多いとか、えみちゃんとそういう会話をしたのは覚えていた。
「笑ってたね」
「それは…」
「楽しそうだったなぁ」
「だって…」
「あの子のこと好きかい?」
「と、友達だから」
ガシャアン!と大きな音がした。先生が近くのボールが入ったカゴを蹴飛ばしたからだ。驚いて、思わず首を竦めた。
「巧斗、」
「ひ…ッ」
ぶたれる。そう思って目を閉じた瞬間、平手打ちが左頬に当たった。じんじんと熱を持って痛み出した頬。泣くまいと歯を食いしばった。
「お前は、女の子なんか好きにならなくていいんだよ」
バシッ、と今度は右頬に痛みが走った。
「先生だけ見て、先生の言うことだけ聞いていればいいんだ」
静かに、冷たく響く声が、耳に突き刺さった。先生は叩く手を止めなかった。
「分かるかい?巧斗」
髪を掴まれ、無理矢理先生の方を向かされた。涙が零れそうで、目はぎゅっと瞑ったままで。
「ほら、先生を見るんだ」
目は開けられなかった。怒っている先生を見るのが怖くて。
「言うことが聞けないのかッ!」
初めて先生が声を荒げた。怒号と共に、脇腹を蹴られた。予期せぬ攻撃に体が吹っ飛び、地面を転げた。
「っ!」
倒れ込んだ体に、また蹴りが二発、三発と入れられた。どうしようもできなくて、ただうずくまって耐えた。
俺が、先生の気に障ることをしたんだ。
悪いのは、俺。
「巧斗」
名前を呼ぶ声は、静かで穏やかで。
地面に這いつくばった俺を見下ろす表情は、薄っぺらい微笑みを浮かべていて。
「お前は、先生のモノだ」
大きな手が、頬を包み込んだ。焦点の合わない目で先生を見つめ返した。
「……ごめんなさい。もうしません」
そう言うように、先生に教え込まれてきた。
「そうだ。それでいい」
満足気に笑う先生。優しく頭を撫でられた。
全身が痛かったけれど、やっぱりいつもみたいに先生の欲を受け止めた。
苛立ちがまだ収まり切ってなかったのか、あまり慣らされずに強引にされたけれど、それでも受け入れるしか自分に選択肢は無かった。
その日家に帰ると珍しく早く帰宅した母がいて、ギョッとした顔で俺を見た。
「巧斗、どうしたのそんな傷だらけで…!」
顔も、腕も、足も。どこもかしこも擦り傷や痣だらけだった。
「どうしたの…?」
何も言わない息子に、母はもう一度問うた。
「お友達と喧嘩した?」
「…ちがう」
フルフルと首を横に振った。
誰にも言っちゃあいけないよ、と言う先生の声が聞こえた気がした。
「じゃあどうしてこんなに傷だらけなの?」
「ご、めんなさい」
心配してくれているのは分かっていた。けれど、先生が、秘密だって言ったから。約束だって言ったから。
「まさか…いじめ?」
「………」
「ねぇ、巧斗」
「…ごめんなさい」
「謝ってばかりじゃ、分からないわ」
膝を付き、目線を合わせてきた母は、とても困った顔をしていた。力無く下がった俺の腕を、母の温かい手が包んだ。優しく、でも強く。
「お母さんには、話せないようなことがあったのね?」
「………」
俯いて、小さく頷いた。
「お父さんにも、話せないかしら?」
「………」
やはり、小さく頷いた。
「困ったわね」
「ごめ、なさ…」
母が困っている。俺のせいで。そう思ったら、散々流したはずの涙がまた溢れて。
「泣かないで。責めているわけじゃないのよ?」
困った顔で、笑ってみせた母。
かえって申し訳ない気持ちになった。
「でも、心配しているの。とても心配よ。だって巧斗がこんなに傷だらけで、泣いてるんだから。それは、分かってくれるわよね?」
分かっていた。それは痛いほど伝わってきた。だから苦しい。
先生と言わないって約束した。でも、その約束を守ると母が心配して困ってしまう。どうしたらいいんだろう。俺がいいこにしていないせいで、みんなに迷惑を掛けてしまった。俺のせいだ。全部俺のせいなんだ。
「…お、れが、悪いから……ッ」
嗚咽混じりに声を絞り出した。
「だから……せんせ、も…お、おこっ、て…」
「先生…?担任の山中先生?」
母の声が、確認するように優しく問い掛けた。
「……き、むらせんせ…っ、優し、のに…俺が……ちゃんとしない、から…ッ」
「体育の、木村先生なのね?」
「ごめ、なさ…ぁ、」
「いいのよ」
母が、その胸に優しく抱き締めてくれた。
包み込んでくれる温もり。背中をさする手の平。母の匂い。どれも柔らかで、穏やかで、安堵を与えてくれた。
「話してくれて、ありがとう巧斗。大丈夫、こんなに反省してる巧斗を、許してくれないはずないわ」
ね?と言い聞かせるように、母が言った。精一杯頷き返すことしかできなかった。
「もう泣かないでいいのよ。さぁご飯にしましょう。お腹いっぱい食べて、お風呂に入ってスッキリしたら、よーく眠って、元気になるのよ?」
母は努めて明るく言った。俺を元気付けるために、無理に笑っているようにも見えた。そんな母の優しさを無駄にしたくなくて、ぐいっと拳で涙を拭い「うん」と強く頷いてみせた。
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