53.我慢の約束
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朝方、仕事から帰ってきて服を脱ぎ捨ててベッドへ倒れ込んだ。シャワーはラブホで事後に浴びてきた。空腹は居酒屋御伽で満たしてきた。今の僕に足りないのは、苑くん。
「会いたいなぁ」
ベッドからパソコンへ手を伸ばす。苑くんの画像が画面に出てくるまでそんなに時間は掛からない。日常の苑くんがたくさん。
「……触りたい」
画面に指を滑らせてみても、違う。僕はもう、本物の苑くんの感触を知っている。抱きしめた苑くんの温度も匂いも。
そうして、いつの間にか眠り込んだ僕が目を覚ましたのは午後。
適当なものを食べて、SNSをチェックしながら、苑くんが帰ってくるのを待っている。
日が長くなって、ベランダに出ても夕焼けにはまだ時間がある。ゆっくりと煙草を吸いながら、ぼーっと景色を眺めるけど、特に変わり映えはない。あの道を、自転車で帰ってくる姿が、早く見たい。
そんな調子で煙草を5本消費したところで、ようやく待ち焦がれた瞬間がきた。
「おかえり」
「ただいま」
6本目に火をつけなくて良かった。煙草を置いて、玄関に向かう。ちょっと待てば、インターホンが軽やかに鳴った。
「おかえり、苑くん」
「ただいま」
ああ、苑くんだ。自然と顔が緩んでしまう。
「昨日会えなかったから、寂しかった」
ついつい口から本音もこぼれてしまう。
「そっか。ごめん」
でも苑くんは、そんな僕に優しく笑ってくれた。それだけで、僕の寂しさはどこかへ飛んでいく。単純な頭だ。
ソファの定位置に座った苑くんへ、飲み物とお菓子を給仕して、僕もその隣に座った。食べている苑くんを見るのが、僕は好きだ。
「昨日は日直で、帰り遅くなったんだ。日誌が全然埋まらなくて」
「そうだったんだ」
「有木のせいで」
「僕?」
飲み物にもお菓子にも手を付けず、苑くんが話し出す。僕のせいで日誌が埋まらない。僕のせい?
「だって、恋人になったのに……キスもしてくれない」
ぼそりと呟いた苑くんは、耳まで赤くなっていた。まさか彼の口からそんな言葉が出るとは。予想外のことに、僕は何も言えずにいた。
「もしかして、そんなことで悩んでるの、俺だけ?ずっと、待ってたんだけど……っ」
ぎゅっと拳を握って、声を詰まらせて、そんな風に一生懸命言われたら、僕、困る。
「ごめんね。悩んでるの、気が付かなくて。でも、あの、やっぱり、できないよ」
「なんで……?」
「だって僕は、大人だから」
こんなんでも、僕は大人だから、ちゃんと守りたい。苑くんの握り拳にそっと手のひらを重ねて、足りない脳みそで言葉を探す。
「皇さんがね、大人は18歳未満の学生といかがわしいことはしちゃ駄目だって、言ってた。僕は、僕のエゴで苑くんを悪いことに巻き込みたくない。ちゃんと大切にしたいんだ。だから、今はまだ、できない。ごめんね」
伝わったかな。苑くんは僕の方を向いた。僕の目は見なかった。
「……理屈は、分かる」
「良かった。どっちにしたって、僕のわがままなんだよね、本当にごめん」
「でも俺多分、卒業まで待てない」
ゆっくりと苑くんが体ごと僕の方へ倒れ込んでくる。そして僕の肩口にもたれかかった。ああ、こんなに近くにいるのに、なんにもできない。
「じゃあ……誕生日、かな」
「ん、分かった。…………手、繋ぐのも駄目?」
手を繋ぐくらいなら、いいのかな。そう思って、苑くんの拳をそっと解いて指を絡ませた。温かい手。幸せな温度だ。
「今はこれで許して、ね?」
「しょうがないから許す」
「ありがとう」
顔が見たくて、あいている手で髪をどけてみたけれど、照れている苑くんは俯いたまま。顔は見えないけど、やっぱり耳まで赤かった。
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