ストーカーですが、なにか? | ナノ




30.亀裂と逃避

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 何か、おかしいような気がしていたんだ。苑くんがレータくんと帰ってきたあの日から、苑くんの様子はちょっと変だった。

 それが、今。

「苑くん!」

 はっきりと、拒絶として示された。隣のドアの向こうに消えた苑くんの姿。怒っていた。彼は、僕に対して、怒っていた。触れられたくないこともあるだろうに、僕ときたら無神経にも深入りしようとした。そりゃあ苑くんだって怒る。

 力無くドアを閉めて、ふらふらとリビングまで戻った。心臓だけがドッドッドッとやけに大きく速く動いていて、嫌な汗が吹き出てきた。
 水でも飲んで落ち着こうと、冷蔵庫までひどく緩慢な動きで向かう。体がうまく動かない。冷蔵庫から取り出したペットボトルは冷たくて、それでも僕に冷静さを取り戻させるような効果はない。キャップを開けようにもうまく力が入らない。手が震える。そうか僕は動揺しているんだ。

「どうしよう……」

 独り言を呟いたところで、どうにもならないけど口に出していた。
 謝らなくちゃ。怒らせちゃったのなら、謝らないと。サイトで言ったところで、取り合ってもらえないかもしれない。直接言おうにも、苑くんの家のインターホンを鳴らす勇気がない。迷惑掛けるかもしれないし。メールも、電話も、できない。何もできない。

 ああ苑くんはどうして怒ってしまったんだろう。僕の余計なおせっかいのせいだろうか。レータくんに失礼な態度をとったからだろうか。もっと前から、なにか気に入らないようなことをしてしまっていたんだろうか。苑くんは優しいから、我慢して僕と接していたんだろうか。

 僕は苑くんの優しさに、寄りかかりすぎたんだろうか。

 もしそうなら、これ以上苑くんに嫌な思いをさせるわけにはいかない。僕は、苑くんの近くにいちゃいけない。いなくならなくちゃ。消えなくちゃ。

「ごめんなさい」

 届くはずもない謝罪の言葉を置いて、僕は部屋を飛び出した。

 向かう先はひとつだけ。僕がいても良い、唯一の場所。僕が存在する意味を与えてくれた、唯一の人。今日は月曜日だから、あそこにはあの人以外の誰もいないだろう。
 何も考えずに駅まで来て、はたと足を止めた。

「あ」

 ここまで来てやっと、スマホ以外何も持っていないことに気がついた。財布すら忘れるなんて、馬鹿にもほどがある。これじゃあどこにも行けない。呆れてただ溜め息が零れた。
 しかたなく電話をかけた。通話履歴のほとんどを占める番号に、迷うことなく触れて呼び出し音を聞く。

『どうした?』

 もしもし、もなく即座に様子を尋ねられた。いつもどおりのことに、ちょっとだけホッとした。

「藤井さん……今どこにいますか」

 電話の向こうからは雑音が聞こえないから、室内だろうと予測はついた。案の定「自宅」と返ってきた。店からそう遠くはないアパートに藤井さんは住んでいる。場所は知っているけれど、行ったことはない。

『何かあったか?』

 ほら、こうして僕を心配してくれる。こんな僕の面倒をみてくれるのは、藤井さんだけだ。

「今から会いたいです」
『いいよ。どこにいる?』
「自宅アパートの最寄り駅に。あの、財布、忘れました」
『はははっ、馬鹿だなぁ。迎えに行くから、待ってな』
「すみません」

 うん、と言って通話を切った藤井さんが来るまで、ただ突っ立って往来を眺めていた。車なら駐車場が見える場所がいいと思って、ベンチもない駅舎の外でぼんやりと人や自転車を視界に入れる。
 何も考えたくなかった。目を閉じて、耳を塞いで、口を噤んで、うずくまっていたかった。藤井さんが来るまでの辛抱だと言い聞かせながら、目に景色を映し、耳で雑音を聞き、口は閉じたまま、地に足を生やして立っていた。このまま木になれないかな、と現実味のないことが脳裏をよぎる。

 時計を見ていなかったから何分たったか分からないけど、しばらくすると見知った黒い軽自動車が駐車場に滑り込んできた。早足で寄って行くと、僕に気付いた藤井さんはどこに駐車するでもなく車を停めて、僕が後部座席に乗り込んだことを確認してすぐに発進する。

「すみません」
「うん。まぁこうしてお迎えに来るのも、保護者らしくて悪くないかな」

 車内は煙草の匂い。藤井さんは左手で煙草を扱いながら、右手でハンドルを操作する。斜め後ろから見る耳とか首筋は、幾度となくこの目に焼き付けてきたもの。穴ぼこだらけの僕の耳とは違って、藤井さんの耳は綺麗だ。

「あんまり見つめるなよ。事故りそう」
「あ……、すみません」
「嘘。慣れてるよ。お前はいっつも他人と目を合わせないくせに、そうやってじっと観察するから」

 くるくるとハンドルを回して右折したら、今度はすぐに左折。車が停まったのは狭い駐車場で、ここが藤井さんの住むところらしい。一棟二室の二階建て合計六棟がキチキチと建っている。駐車したすぐ目の前にあるのが、藤井さんの部屋。鍵を開けて中に入っていく背中に続いて、僕も初めてその場所に足を踏み入れた。

「ここに引っ越してからは来たことなかったな」
「はい。また広いところなんですね」
「そう、また家族向け。独り身のくせに」

 藤井さんは狭い部屋が嫌いだ。僕が今住んでいるところも、元は藤井さんが借りていた部屋だった。あの部屋に転がり込んで、僕は苑くんに出会ったんだ。
 もともと物をあまり持たない主義のせいで、部屋は相変わらずこざっぱりしている。ソファを背もたれ代わりにして床に胡坐をかいた藤井さんが「おいで」と手招きするので、その隣に座った。

「で、どうした?」

 膝を抱えて、ぴたりと体をくっつけてもたれかかると、大きな手のひらが優しく肩を抱き寄せてくれた。いつも甘やかしてくれる手のひら。一番安心する手のひら。

「苑くん、怒らせちゃいました」
「そうか」

 肩から二の腕をするすると撫でられる。ゆっくりとした動きが心地良いのに、気持ちは落ち着かない。

「なのに僕はちゃんとその理由も分からないんです。苑くん、いつもと様子が違ったから、気になって聞いたんですけど、余計なお世話だったみたいで」
「ふぅん」
「僕が全く関係ないくせに口を出したからなのか、僕が何かしたせいであんな……怒ってるのか……わかん、なく、て」

 息が詰まって、苦しい。眉を跳ね上げて険しい目をした苑くんが、何度もフラッシュバックしてきて僕を責める。無言の背中が何度も僕を突き放す。

「き、嫌われて、きっと、もう、挨拶も、会話も、笑ってくれることも、なにも、なくなる」

 僕のせいで、僕は、一番大切にしたかったものを失うのかもしれない。それがとても怖い。無意識のうちに全身が強張って、自ら抱えた両足に爪を食い込ませていた。そんな僕を藤井さんは宥めようと髪を触り、撫でてくれる。

「僕、調子に乗りすぎた、きっと。僕なんかが、仲良くなんて……無理だったんです」

 独白を静かに受け止めていた藤井さんの指先が、顎を掴んで顔を上げさせる。ああ、泣きそうになっているのがバレてしまった。もっとも僕の泣き顔なんて、藤井さんには何度も見られているから、今更なんだけれども。

「有木はどうしたい?」
「なに、を……?」
「苑くんを」
「……えん、くん、を」

 それは以前、皇さんからも聞かれた質問。見ているだけで良い、と答えたはずだった。このままで良い、と。今は、どうだろう。僕を嫌いになった苑くんの近くにいて、彼を見守ることは、できるのだろうか。

「苑くんをどうしたい?苑くんとどうしたい?有木は苑くんに何をしてあげたい?」
「わ、わかりません。わからない。どうしたら、正解なんですか。僕は、どうすべきなんですか?」

 何もわからない。馬鹿な僕には、何も。
 藤井さんは笑いもせずに僕を見ている。ただ静かに僕の目を見ている。なにもかも見透かされているような気になる。そのほうが楽だ。この人に何も隠さずにいられて、この人に全て分かってもらえるなら、僕は何も考えずに言うことに従えば良い。

「わからなくないだろう?ちゃんと考えな。自分が、どうしたいのか」
「僕が……どうしたい、か」
「そう」

 きっと、答えを出さなければずっとこのままなんだろうな、となんとなく思った。藤井さんの眼差しはそれくらい真剣で有無を言わせないもので、堪えきれず僕は目を逸らした。どうしたいか。どうしたいのか。

「もう、苑くんに、迷惑かけたくない。苑くんが、僕を嫌いなら、僕は彼の目の前からいなくなりたい。それで苑くんが、また笑って、普通でいられるなら、そうしたい、です」
「分かった」

 顎に触れていた指先が離れて、僕はようやく俯くことができた。折り曲げた自身の膝に顔を埋めて小さくなると、藤井さんはぽんぽんと僕の頭を軽く撫でて煙草に火をつけた。セブンスターの匂い。藤井さんに染みつき一部となったその匂いが、辺りに漂う。

「晩飯、何食べたい?」
「……何も食べたくないです」
「まぁそう言わずに、俺の晩餐の相手しろよ」
「じゃあ、おにぎり、食べたいです」
「はは、安上がりだな」

 夕食は本当におにぎりを二人で食べた。僕はひとつ、藤井さんはふたつ、近くのコンビニで買ったもの。たまには悪くない、と藤井さんは言っていた。普段は自分で作るか乙木さんのところで食べている人だから、なんだか申し訳なかった。そう言うと藤井さんは、良いんだよ、と笑って言うから、僕は何もかも許されたような気分になれた。苑くんとのことも、これでお終いなんだと、また元の僕に戻るだけなんだと、そう思うことにした。

 この日から、僕はあの部屋へ帰らなくなった。
 丸井苑くんのお隣さんでいることをやめて、藤井風路さんの部屋の居候になったのだ。




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