10.傷痕に責句
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居酒屋御伽で、藤井さんの電話が鳴ったのが午後9時48分。
「千、お迎えよろしく」
その一言で千さんが車を出した。
「君は帰るかい?」
「……ありきを待ちます」
「たぶんロクな状態で帰ってこないよ?」
「……」
それってどういう意味だろう。ただの脅し文句なのか。薄く笑みを浮かべた藤井さんの表情からは、読み取れない。
落ち着かないまま、グラスの水を飲んだり眺めたりして、ただ待つ。乙木さんが幾つか料理を出してくれたけど、食べる気にはならなかった。
そしてありきが戻ってきたのが午後10時13分。
「ありき!?」
藤井さんの言うとおり、ロクな状態じゃなかった。
薄汚れたスーツ。乱れた髪。青白い顔。
ぐったりと千さんにもたれて、まるで生気がない。
「あ……苑、くん」
それでも、俺の声に気付いて顔を上げようとしている。ああ、顔にも痣が付いてる。なんで、そんな傷だらけなんだよ。
「とりあえず手当てだな。こっちきて体見せてみろ」
手招く藤井さんに、ありきは力無く首を振る。
「苑くん、いるから……」
「おっ、俺がいたら駄目なのかよ!」
なんだよ蚊帳の外にする気かよ。ここまで来てそんな姿まで見たんだ。それなのに……!
「気持ちは分からんでもないが、お前の苑クンは相当ご立腹だぜ?この際だから全部見せてやれよ」
「……でも、苑くんは、」
「お前の保護要請に応じて今ここに苑クンがいるんだよ。貸し一つ、だろ?」
唇を噛んで俯くありきは、観念したらしい。おとなしく俺と藤井さんのところまでぺたぺた歩いてきた。
「あーあー、スーツ台無しだな。破かれなかっただけマシか?とりあえず座れ」
もう何も言わずにありきは藤井さんに従う。千さんが上着を脱がせてハンガーに掛け、乙木さんが水とおしぼりを持ってきた。みんな、ありきのこと心配してるのは、分かった。
藤井さんが躊躇無くネクタイを取り去り、シャツのボタンを外していく。やがて露わになった上半身には、無数の痕。
「ヒッ、なにそれ……!」
「また煙草か?しばらく跡が残るな」
どうやら俺以外は見慣れているらしく、動揺することもない。むしろ、軽く済んだとかってホッとしてる。
信じられない。どうかしてる。ありきが怪我させられてるっていうのに。本当に心配してんの?
「ほら、顔拭いて……」
「これがありきの仕事?こんな怪我するのが?」
見るに耐えない。古い傷の上に重ねられた新しい傷。きっと、ずっと前からこんなことしている。
「体売って、傷だらけになって?それでお金もらうの?そんなことが、仕事?」
「苑くん、もうやめてあげて。今の有木は君の非難には耐えられないよ」
乙木さんが言うように、ありきは項垂れて縮こまって震えていて、瀕死の小動物状態だった。
それ以上は何も言えなかった。
「まぁこの程度の火傷ならほっとけば治るし、病院行くほどの傷も見当たらないし。2、3日安静にしてれば回復するさ。今日はもう帰っていい」
ボタンを締め直しながら、藤井さんが淡々と告げる。千さんに車を出すよう指示をして、ありきに水を飲ませる。
「君も乗っていくといい。どうせお隣さんなんだから」
「でも、」
「それに君みたいな子がこの界隈を一人で歩くのは危険だ。有木を無事に送り届ける役目も、頼みたいしね」
その危険については先刻身を以て知ったし、何より今にも息絶えそうなありきを放ってはおけなかった。
「じゃあ、乗っていきます……」
「うん、賢い選択だ」
後部座席にありきを寝かせて、運転は千さん、助手席に俺が乗ることになった。
ありきは一言も口をきかなかった。うずくまったまま、死んだみたいに動かなかった。
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