────その手はいつも決まって、夜に伸びてくる。







するり、不意に温かな寝具の中に忍び込んできた異質な温度に、はっと目を覚ます。





「おや、起こしてしまったかな」





いたずらっ子の様にくふくふと笑う声音と、外から忍び込んだ僅かな光に浮かび上がる、腕に巻かれた白い包帯でその正体を悟る。





「太宰、さん……?」

「今晩は、なな子ちゃん。夜分遅くに申し訳ない」





声の元に向き直ってみれば、にっこり、と擬音が聞こえてきそうな程、完璧な弧を描く唇と、眇められた瞳が見えた。





「太宰さん、鍵は……」

「安心し給え。施錠はちゃあんとしてあったし、きちんとかけてもきたよ」





問うたのはそういう事ではないのだが、彼がわざとはぐらかして答えているのは明白だったし、いつもの事だった。寝惚け眼にまた意味もない事を聞いてしまったと、彼にではなく自分に小さく溜息をついて、それからなな子は、彼が未だ夜気を吸って冷たいままの外套を着ている事に気付いて、「コートは、脱がれないのですか?」と言った。

太宰は一瞬目を丸くして、すぐにいつもの笑みを浮かべる。





「深夜、大して親交もない同僚に自宅に、それも寝所に忍び込まれたというのに、君は相変わらずだね。……それとも、もう慣れてしまったかな?」





彼がこうしてやって来るのは、確かこれで五度目になるだろうか。

くふくふと笑う彼の頬は、まだ冷えている。無意識に両手で温めてやりながら、なな子は「今日はどういうご用件でしょうか」と聞く。





「夜食ならお作りしますけれど……」

「……君は矢張りもう少し警戒心を持った方が良いと思うよ?私、ちょっと心配になってきたなぁ」





忍び込んだ本人がどの口で、と思いつつも口には出さないでいると、「っと、私が言う事ではないな!」と自ら言い、彼は一人で笑う。

……今日はやけに饒舌で、そして自虐的だ。





「……何か、ありましたか?」





改めてその頬を両手で包んで問うと、うっそり笑みを浮かべて「何か、とは?」と問い返してくる彼。

僅かな沈黙の後、不意に身を起こした彼が、なな子に馬乗りになる。





「それとも、何かあったと言えば……君は慰めてくれるのかい?」





意味深に肩を、寝間着の上を、するすると滑っていく手のひら。その瞳は闇よりも暗く淀んで、表情は読み取れない。ただ、ゆるりと身体をなぞる手のひらだけが、所在なさげにたゆたい続ける。

まるで迷子の子供が、温かな手のひらを求めて、手を泳がせる様に。



ぼんやりとそう思考して、やがてなな子は黙ったまま、“おいで”と腕を広げた。

その所作にか、深淵を映していた瞳が、不意にこちらに帰ってくる。呆然と広げられた腕を眺めて、やがて彼はそれらを微笑みの下に仕舞い込んだ。



コートを脱ぎ捨て、ゆっくりと腕の中に身を倒して来た太宰を受けとめて、その背に手を回す。

暫くもそもそと身動ぎして、居心地のいい場所を見付け息をつく彼にそっと布団をかけて、ゆるゆると頭を撫でてやりながら、なな子もまた目を閉じた。

強くなな子の胴を抱き締めながら、彼が何事か呟いた気がしたが、聞こえなかった事にして。ただ、黙ってその柔らかな髪に、指を通した。








────朝。
目が覚めると、其処に太宰はいなかった。

一人の部屋はいつも通り殺風景で、隣家の生活音と、鳥の声だけが遠くから聞こえている。ただ、微かな残り香だけが、其れは夢ではなかったのだと主張してくるのだ。





「……莫迦なひと」





言って、窓を開け放つ。
朝の冷たい空気が、身体の熱と、甘い香りを散らしていった。

今もこの街の何処かを、おどける様にゆらゆらとさ迷っているであろう彼のコートが、脳裏で翻る。



振り払う様に……或いは愛おしむ様に。
ただそっと目を閉じてから、何かを祈ろうとして……やめた。



彼の幸福を願うなんて。
きっと、物好きだと、有難迷惑だと、笑うだろうから。



朝日の中で、ただひとつ、溜息をついた。








夜に伸びる手




あさには いない手。



(20161003)





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