「────汝、陰鬱なる汚濁の許容よ。改めて我を目覚ます事なかれ────」





己の中の“何か”に向けて祈る様にそう呟くと、中也は中也ではなくなる。やってくるのは異様な高揚感、全能感────そして破壊衝動。それは解き放たれた中也の中の“何か”の歓喜の咆哮であり、始まりの合図だった。

“何か”と入れ替わる様に、中也は己の内の何処とも知れない、淡い闇に呑まれていく。全てが終わるまで、中也はその闇の中で何とはなく徒然と物思いに耽るのが常であり、しかし考え事の内容は不思議といつも同じ事だった。それは自分一人しかいない筈のその闇の中の何処かから、声がするからだ。





『中也』





姉とも妹とも、恋人とも違う柔らかな女の声。
中也はそれを、母の声だと思っている。

とは言っても確証などない。中也の母親は、中也が幼い時に亡くなっている。父親も同様だ。中也は二人の声どころか、顔も名前も、何ひとつ覚えてはいない。中也とはいくらか歳の離れた姉である蜜なら覚えているのかもしれないが、勿論確認する方法などある筈もなく、従ってそれが本当に母の声であるかはわからなかった。

ただ、その声を聞くと、何か懐かしい様な、温かく、そして寂しい気持ちに襲われるので、ならば恐らくそれが自分がとうの昔に忘れてしまった母の声なのだろう、と思っているだけの話だった。



父母が何故死んだのか、中也は知らない。一度だけ姉に聞いた事があるが、姉は暫く考えた後に『わからない』とだけ言った。それが嘘か真実かはわからない。なんとなく、姉は嘘をついているのではないか、と思いもしたが、どうだってよかった。理由を知ったところで、二人が帰ってくる訳でもない。姉と、自分と、幼い妹。それさえあればいいと思った。覚えてもいない、自分や姉妹を守りきれずに情けなくも死んでいった両親の事などどうでもいいと、幼いながらに荒んだ心で思い口を閉ざし、以降は蜜を想って口を閉ざし続け、今に至るまで二度目の機会はまだ訪れていない。



ただ、覚えている事もある。母の料理は美味しかった事。父の手は大きくて熱いくらいだった事。家族で買い物に行った時は、蜜は父と、自分は母と手を繋いで歩くのが常だった事。……ありふれた幸せの風景。

大きなお腹を抱えて、此処に妹がいるのよ、と微笑む母の顔は、夢の中では鮮明に見えるのに、目覚めるといつも思い出せない。次々に現れては消えていく記憶の肖像。



小さい頃の蜜はおてんばで、横暴なくらい天真爛漫で幼い中也には脅威だった。おやつの時間が近くなると、蜜は『おやつそうだつせん』といってプロレスごっこを仕掛けてくる。勝った者がお菓子をひとりじめ出来る、と言うのだ。勿論そんな事をさせてなるものかと中也は力いっぱい戦うのだが、負けるのはいつも中也の方で、悔しくて悲しくて毎回べそをかいた。

けれどもそう言いながらも蜜はいつもちゃんとおやつを分けてくれたし、半分こする時はいつも大きく割った方を中也にくれた。プロレスごっこを仕掛けてくる蜜は嫌いだったが、なくなよ、おとこのこだろう、とからかいながらも優しく頭を撫でてくれる蜜の事は好きだった。中也も真似して、自分が半分にする時はわざと大きく分けた方を、蜜にあげた。



そんな中也もいつしか兄になった。初めて会った妹の、ぱたぱた動く小さな手足。目も開いていないのに差し出した中也の指を、しっかりと掴んできたのには驚いた。ふにゃふにゃ柔らかくていかにも非力に思えるのに、その小さな小さな指が存外に力強いのにも。泣き声がとんでもなくうるさくて耳を塞ぎたいくらいなのに、なんて元気なんだろう、とどうしてか嬉しくて堪らなかったのを、よく覚えている。

ある日ぱちりと開いた瞳が、中也や蜜とは違って明るい茶色をしていたのも驚いた。母はアキがまだお腹にいる頃、おやつの時間になると、よく蜜と中也を呼んでお茶会を開いた。並ぶのは決まって焼き菓子とレモンティである。アキの瞳は、そのレモンティが日に透けた時の色と同じだった。きっと母さんが毎日飲んでたから、アキもお腹の中で飲んでたんだ。その色がうつっちゃったんだ。そう言うと母が嬉しそうにコロコロと笑った────。





幸せな思い出は、そこで途切れる。
次に見えたのは雨の降りしきる暗い路。アキを腕に抱いて、反対の手で中也の手を引いて歩く姉の背中。何処へゆくのか、父と母は何処にいるのか。そう尋ねたかったが、口を開けずにいた中也。聞いたら蜜が泣き出してしまうのではないかと思ったからだ。おかしな話だ。蜜が泣いているところなど、一度も見たことはないのに。





それからどうしたのかは覚えていない。暫くの間は、そうして街の何処ともしれない場所を歩いていた気がするが、記憶はそこからふっつりと途切れて、後に覚えているのはマフィアで暮らしはじめて以降の事だけだ。



清潔な住居と真新しい服。“尾崎 紅葉”と名乗った女性(今思えば彼女も少女と云うべき年頃だったが、当時の中也には随分大人に見えた)の微笑み、優しいてのひら。紅葉に中也とアキを預けて、毎日何処かに消えては、傷を負って帰ってくる様になった姉。日に日に大きくなる妹は誰にも人見知りせず懐いた。妹を構っては、紅葉に白い目で見られていた医師。『洋子様』と呼ばれ畏れられる、冷たい緑の瞳をした女性。時折やってきては、中也やアキと遊んでくれる黒猫。或る夜、何か奇妙な異臭を纏い帰ってきて、アキを抱きながらこっそり肩を震わせていた蜜の背中。松葉杖を突き、あちこちに包帯を巻いた暗い瞳の少年────。





姉を独りで戦わせてなるものか。その一心で磨きあげた拳を何かに叩きつける感覚を、他人事の様に遠くに感じながら、中也は微睡む。しかし限界が近いのだろう。中也を包んでいる淡い闇が、赤黒く濁り始めていた。

“汚濁”は絶大な力と引き換えに、中也の命を喰らう。そして命尽きるまで暴れ続け、やがて力を使い果たせば中也は、この闇の向こうへと滑り落ちていくのだろう。この先はきっと地獄に通じている。ならばここで見る、朧気な夢の様な過去の記憶たちは、正しく走馬灯と謂うに相応しい。



姉と妹が笑っているのが見えた。二人の間には、いつしか深い仲となった可愛い部下の姿もある。其れは中也の向かう先ではなく、中也が今から別れを告げる場所にある。その事に感謝をしながら、それらに背を向けた────。





────意識は其処で唐突に引き上げられる。





「もう休め、中也」





闇が急速に晴れていく。母の肚に抱かれる胎児の様に、闇にただ浮かび丸まっていた四肢に感覚が戻っていく。左手の手首から始まり、やがて全身の感覚を取り戻した中也は、ほぼ同時に地面に崩れ落ちた。

────帰ってきたのだ。死の淵から。

激しい苦痛を訴える身体に鞭を打って傍らを見れば、憎らしい程に涼しい笑みを浮かべる相棒の姿があった。



まだ、生きていてもいいのか。帰っても、いいのか。

また家族の元へ、愛しい少女の元へ帰れる事に安堵しながら、中也は意識を手放した。今度は先程とは違う種類の闇へ、滑り落ちていく。





『ちー先輩』





その直前に聞こえたのは母の声ではなかったが、それは泣き出したくなる程に、温かかった。





(20170410)





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