やけに浮わついた、そして甘ったるい空気が肌を刺す。すれ違う通行人たちの何処か紅潮した面持ちや、彼らが発する常よりも数段高ぶった調子の声が肌を粟立てる感覚が不快で、芥川は思わず眉根を寄せた。

本日の日付は2月14日。つまり聖ヴァレンタインデー、とかいう奴である。



そういった催しものに疎い芥川がなぜそれを意識する事になったのかというと、それは今朝にまで遡る。








朝食の席で最愛の妹が差し出した、丁寧に包装された小箱。首を捻ると、日頃も滅多に口を開かない寡黙な妹がもじもじと、『今日、聖ヴァレンタインだから……お世話になってる人に、感謝の気持ちを伝えてもいいって聞いて』と云うのだ。

か細い声だったが、目を泳がせながらも『いつもありがとう』と云う銀に、何か温かなものが胸に溢れたのを覚えている。

その時自分がどんな顔をしていたのかは見当もつかないが、芥川の顔を見て、銀が嬉しそうに顔を綻ばせたので、こういった催しも悪くないものだな、と、珍しくそう思ったのだ。思ったのだが……。








甘ったるい空気に思わず殺気立つ芥川。威圧感に、浮かれたカップルたちも我に帰り道を譲る程だ。その僅かに怯えを含んだ彼らの表情に、にわかに理性を取り戻す。仮にも自分は指名手配犯なのだ、目立つのはポートマフィアの威光を世に示す時だけでいいというのに。



下らない事で容易く気を乱す己の未熟さに溜息を吐く。この未熟さがある限り、彼の人は決して芥川を認めはしないだろう。

静かに瞑目すれば、意識は苦艱(くかん)に沈んでいく。然し、そんな芥川の意識を不意に引き上げるものがあった。





「待ぁぁぁあてぇぇぇぇぇぇえ!!!待たんかいこらぁぁぁぁぁぁあ!!!!!!」





聞き慣れた、と言う程近くはない。けれども一度聞けば忘れられない様な、奇妙に耳に残る少女の声が、通りの向こうから響いてくる。



また貴様か……と、先程とは違うニュアンスで眉間に皺を寄せた芥川が顔を上げると、前方にこちらに向かって疾走してくる見知らぬ男と、それを追いかける少女の姿が見えた。

男の手には取って付けた様に不似合いな女物のバッグ。そしてそれを追いかける少女は、芥川とは真逆の、正義の側に立つ者である。……大方の事情は飲み込めた。そして少女の方とは(不服ながらも)知り合いと言うくらいには差し支えない程度の交流はあった。が、しかし肩入れするほどの義理はない。無論、逃げる男に手を貸す理由もない。

ならば芥川はただ素知らぬ顔で道を空けるのみ……の筈だったのだが。





最早止まれ、と絶叫する力も残っていないのだろう。苦しげに顔を歪めた少女が、胸元を掻き毟る様にぐしゃりと衣服を掴むのが見えた。

そして逃げる男と、目が合う。



考える隙もなかった。その男の目を意味ありげに見つめてから、左手にある路地へ入る。そのまま奥へと進みつつ、芥川は……痛む頭を、そっと押さえた。

知らぬ顔を決め込むつもりでいたのに、自分は何故こんな事をしているのだろう。己の取った行動に驚き、呆れながらも、背後から反響してくる慌ただしい足音に耳をそばだてた。



思惑通り、男は芥川を追って路地へと駆け込んでくるようだ。芥川の背に向けて、男が何事かを喘いでいる。

お前は味方か?────問われて、人知れず口角が上がる。

溺れる者は藁をも掴むとはこの事か。そう仕向けたのは確かだが、多少目線が交わったくらいで、この男は何故芥川が味方だと思ってしまったのだろう。その愚かしさにある種の哀れみすら感じながら振り返る。色の無い、無慈悲な光を宿す瞳に、本能的な恐怖を感じたのだろう。男が小さく悲鳴を上げる。しかしその声は音になる前に途切れた。






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