「はぁ、はぁ……い、いい加減に、観念しなさ……って、あれ?芥川、さん?」





暫し間があって、遅れて駆け込んできたのは先程の少女だ。ぜいぜいと肩で息をしながら途切れ途切れに言う彼女は、芥川の姿を捉えて走る足を止め、よろよろと歩みながら、「どうして芥川さんが此処に、」と間の抜けた声を発するが、然し口を開くなり激しく咳き込み始めてしまい、その後は言葉にならなかった。苛立ちを覚えながら、芥川は「戯け。息を整えてから話せ」とだけ言い放つ。

掠れる様な呼吸音は聞こえてこないので発作は起こしていないようだが、やはり苦しいのだろう。大人しくコクコクと頷いてしゃがんで深呼吸を始める彼女を黙って見守りながら溜息を吐いた。



少女……名を畑里 晶(ハタリ アキ)と云う彼女は、気管支に病を患っている。所謂“喘息”という奴で、無理な運動をすると発作を起こし、気道が腫れ上がって呼吸困難に陥るのだ。最悪の場合はそのまま窒息して死に至るという、些細な事が命取りになりかねない病だった。

芥川にこの知識を教えたのは彼女自身だった筈だが、だというのにこの娘は見かける度に何かしら無茶をしている。どれもこれも芥川には関係のない事なのだが、そうして出来もしない無茶をしているのを見ると、何故か気が付くと身体が動いている事がしばしばあった。お陰で味方でもないのに『命の恩人』なぞと云われ、懐かれる始末。マフィアの面目丸潰れである。



……雑念が無い点を長所と自負している芥川だが、この娘を前にしている時は少し立ち止まるくらいがよいのではないか……そう思ってしまう。思いはするものの、然し今回も結局いつも通りという訳だ。



そうして芥川が内心苦い思いを噛み締めている内に、彼女の方は息も整い、余裕も出来たらしい。漸く芥川の足元に転がり、伸びている男の姿に気が付いたらしく、驚いた様な表情で男と芥川の顔を見比べ始めているのに気が付いた。

……また面倒な事になりそうだ。そんな気配を察知し思わず踵を返した芥川だが、然し逃亡は叶わなかった。「待って!」と外套の裾を掴まれたからだ。何をする、と思いきり睨み付けてやっても、彼女は怯む事がない。





「あ、芥川さんが捕まえてくれたの!?」





……他に誰がいるというのだ。

何を言うのかと思えば、問うまでもない事を確認してくるアキに、呆れて瞑目する。一方でその沈黙を肯定と捉えたらしい彼女の顔は、芥川の心中など知りもせずぱあっと輝いた。





「ありがとう〜〜〜!折角頑張って追い掛けたのに逃がしちゃう所だったよ〜〜〜!芥川さんがいて良かったぁ!」





満面の笑顔になったかと思えば、突然勝手に手を握ってきてぶんぶんと振り回し、そう宣うアキ。感謝の握手のつもりなのだろう。しかし手を握りしめられた瞬間に芥川は、その熱い体温に何故か思わず身を竦めたくなる様な奇妙な感覚に襲われた。背筋が粟立つのを感じながら、努めて平静を装いつつ「喧しい」と苦し紛れに発して、その手を振りほどく。



────何だ、今のは?



例えるなら恐怖に似ていた。然しこの娘に恐怖を抱く必要性など皆無に等しい。何しろ相手は表の世界で過保護に守り育てられた、戦う手段を持たないどころか、時に攻撃を受けている事にすら気付かないほど呆けた娘である。

現に彼女は慌てて謝罪したかと思うと、謝るのもそこそこに何故か表の様子を窺い始める。「大丈夫、誰も来ないよ」とへらりとしている所を見ると、先程の芥川の『喧しい』という叱咤を、指名手配犯である芥川が、声に誘われてやって来た野次馬に見付かるのを恐れた故に発した言葉なのだと解釈したのかもしれない。……本当にそうなのだとしたら、心外もいい所だが。



掴まれていた箇所をさすりながら芥川はひとりそうごちる。その顔を見て、また勝手な解釈をしているのだろう。「ごめんね、静かにするから」と申し訳なさそうに声を潜めて囁く少女に毒気を抜かれてしまい、もう何度目かもわからない溜息をついた。





────彼女は、どうしようもない阿呆ではあるが無知ではない。芥川の残虐性と、その異能のおぞましさを知っている。それは単なる知識という意味ではない。目前で殺戮を演じた事もあれば、羅生門でその身を捕らえ、締め上げた事さえある。この娘は芥川の恐ろしさを身を以て知っている筈なのだ。知らしめた、と言い換えてもいい。間近で繰り広げられた虐殺劇に怯え、目を閉じ耳を塞いで、小さくなって震えていた姿は、まだ記憶に新しい。

なのに、彼女は芥川を避けようとはしない。いつも何処からともなくひょっこり現れたかと思うと、目敏く芥川を見付けては子供の様な笑顔を浮かべ、はしゃぎ、そして一片の躊躇もなく触れてくる───……その無邪気さときたら、最早正気とは思えないほどだ。



そんな事を考えながら黙っていれば、聞きもしないのにアキはぺらぺらと、「最近この辺りでひったくりが横行しててね」だの「それで依頼を受けて張り込みをしてたんだけど」だのと話している。要するに、たまたま間の悪い所に犯人が現れ、一人で追い掛ける羽目になったらしい。





「他の者共はどうした」

「ほら、今日は聖ヴァレンタインデーでしょ。商店街のお姉さん達に捕まっちゃってて」





あの探偵社らしい、如何にもな話だ。





「……第一、民間の探偵風情が介入する事でもなかろう。市警にでも任せておけばいいものを」





そう鼻を鳴らしても、返ってくるのは矢張り「この通りのお店にはお世話になってる所も多いから、うちでも巡回する事になったんだよ」と“如何にも”な答えで、ついでとばかりにつらつらと「あそこのお花屋さんの店員さんは凄く優しくて可愛い人で」とか「あの喫茶店の店主さんは」と彼女は陽気に語り始める。

止める気力が残っている訳もなく、微妙な顔をしながら右から左へ、適当に聞き流していく芥川。



然しそれでも、絶え間なく囀りながらもおもむろに腰のポシェットから取り出した手錠で失神したままの男の手を後ろ手に拘束するアキの手付きは意外にも手慣れていて、無駄がない。腐っても探偵社員という訳か。なんとも甲乙付け難い娘である。



そして彼女は、犯人が手にしていたバッグを拾い、埃を払う。





「これね、杖ついて歩いてたおばあさんのバッグなの。他の被害者も殆どが高齢者。まったく呆れた人でしょう」

「……何処ぞの成金背広ではないがな。搾取の犠牲になるのはいつも弱者だ。そうでなければ旨味がない。弱い者が狙われるのは当然の摂理」

「それはそうだけどね」





芥川のストレートな言い様に、肯定しつつも苦笑するアキの顔は、然し酷く穏やかに手の中のバッグを見詰めていた。





「依頼人はね、被害にあった人たちなの。みんなバッグの中の財布や貴重品よりも、家族の写真とか、そういうものを取り戻したがってた」

「……」

「まだ取り返せるかもしれないし、なるべく早く捕まえたかったんだ〜。芥川さんが捕まえてくれて本当に良かった。ありがとう」





にこにこと人のいい笑顔で礼を言われて、返す言葉もなく……芥川はただ視線を逸らした。





「そうだ、お礼しなくっちゃね。えーと、ちょっと待って……あっ、あった」





やおら腰のポシェットをまさぐり始めた彼女にまたろくでもない予感がするが、時は既に遅く「はいこれ」と何かが目の前にずいと突き出される。





「……なんだそれは」

「チョコレイト。ヴァレンタインのついでみたいで申し訳ないけど、今こんなのしか持ってなくて……あ、甘いもの苦手?だったら銀ちゃんにでもあげてよ」





妹の名を出されては受け取らざるを得ない。光沢感の少ない金紙と、チョコレイト色のリボンで梱包された手のひらサイズの包み。ささやかな大きさのものとはいえ、どうやったらこんなものが手錠やらと一緒に、その腰の小さなポシェットに入るのだろう。

怪訝な顔の芥川にアキは、「こんなのじゃお礼にもなんないけど……でも美味しいから苦手じゃなかったら芥川さんにも食べてほしいな。海外のチョコレイトメーカーので凄く美味しいんだよ」と遠慮がちに、けれども朗らかに微笑む。



────病弱の身で他人の思い出の品を取り返す為にひた走り、凶悪犯に微笑みかけ、礼を尽くそうとする。何か言おうにも言葉が浮かばず眉間に皺を寄せた芥川だが、呆れて言葉も出ないとはこの事かもしれないと思い至り、無理矢理そう納得する事にした。





「……銀に渡しておく」

「うん!宜しく言っておいてね」





その時、不意に遠くから、少女の名を呼ぶ声が聞こえた。





「おっと国木田さんたちだ……。じゃあ、わたしもう行くね!芥川さんも早く此処を離れた方がいいかも」

「貴様に心配される筋合いはないな」

「ふふ、だよね!気を付けて帰ってね。今日は本当にありがとう!」





それじゃあね!と軽やかな声を残して、ひったくり犯の男を引き摺り角を曲がっていく彼女。芥川もまた背を向けて歩き始める。此処だよ、と声がして、それを頼りに他の面子が追い付いてきたのだろう。わいわいと話す声。お前が捕まえたのか、と問われ、答えあぐねている彼女の声が遠巻きに聞こえ、返答くらい用意してから呼べばいいものを、と芥川は一人、やれやれと瞑目した。





────その後。受け取ったチョコレイトは、銀にそのまま全て渡してしまうつもりだったのだが、お前にだ、とチョコレイトを渡したが何故か「私にじゃなくて、兄さんにでしょう」と見抜かれ、ひとつくらいちゃんと食べて、と結局食す羽目になってしまった。

包みの中身は、個包装になったチョコレイトが三つ。ごろりと大粒のそれを暫く眺めてから、口に放り込んでみる。

……そのチョコレイトは何故か、思わず身を竦めたくなる様な、そんな甘ったるい味がした。








甘やかな戦慄




大遅刻はっぴーばれんたいん……やつがれは他人の温もりにも、幸福物質を誘発する甘味も苦手で、思わず身を竦めて逃げたくなってしまうという話なんですが明らかに盛り込みすぎました。どこら辺がどう萌えるのかは察してください。お粗末様でした。

(20170313)





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