「これでよし、と…」



処理を終えた書類を一通り確認し終え、清皮は小さく溜息をついた。ぐっと伸びをするとあちこちが固まっている様な感覚。時計を見れば針は既に夕刻を指している。殆ど一日中机に向かっていたらしい。

…これでは身体も固まってしまう訳だ。
やれやれ、と嘆息しながら肩を回し窓辺から外を眺める。

傾きかけた太陽が柔らかな橙に輝き、木々は風にそよいで、硝子戸を開けてみれば期待通りの心地よい風がふわりと頬を撫でた。ほっと息をついていると、ふと何か香しい芳香が鼻を擽る。

ハーブにも似た爽やかな香り。誰かが薬草茶でも入れているのだろうか。しかし目を閉じて感覚を研ぎ澄ませれば、それが単なるハーブティーの類のものではない事は明白だった。すんすんと鼻を鳴らしながら記憶の糸を手繰る。



「沈丁花…?」



頭の中で探り当てたのは、紫を滲ませた白い花。しかしこの辺りに沈丁花の木はなかった筈だ。おまけに沈丁花は接ぎ木でしか増えぬ花。この館にわざわざそうまでして沈丁花を植える者があるだろうか。

暫く考えて清皮は、書類を肋角に提出してから屋敷の周りを探索してみよう、と決めた。肋角にも聞いてみたのだが、この辺りで沈丁花を見た覚えはないそうだ。それもそうだろう、あれほど馨しい香りを放つ花だ。咲いていれば見えずとも分かる。



玄関を出て、すぅっと息を吸い込むと、やはり空気は微かにではあるが、その香を孕んでいた。香りが強い方へ、ふらふらと歩きだす。

殆ど勘で歩み始めたのだが、しかし匂いは確かに強くなっていって、次第にそれは確信へと変わっていった。

…ある、沈丁花の木が。
でも、何処に?



一番香りの強い裏庭の外れで辺りを見回して、清皮は、…夕闇に浮かび上がる白銀に、目を奪われた。

ざあっと風が木々を揺らす。翻るロングコート。帽子をつと押さえる、清潔な白に包まれた指先。ゆるりと此方を振り返って、優しく眇められた淡い青に、高鳴る胸が熱を帯びた。



「来たね」



ふわりと微笑むその人はまるで、清皮が来る事を知っていたかの様な口振りだ。



「沈丁花の…匂いがして、」



譫言の様にそう漏らすと、うん、と満足気に彼は、目の前に植わる木の葉を愛でる様に掬う。その仕草につられて、漸く清皮は、彼の前に植わる木が探し求めていた沈丁花である事に気が付き、目をしばたかせた。



「あ…沈丁花…」



呟いて、そしてさっと頬を染める。
目の前にあったのに、かの人に見惚れて気付かないなんて。

羞恥に閉口する清皮を知ってか知らずか彼…災藤は白い花を指先で擽りながら「好きだろう?」と問うた。



「えっ、」

「沈丁花」

「あ、あぁ…はい、好きです」

「以前『この世』で見かけた時言っていたね」



清皮の動揺を、きっと悟っているのだろう。もしかしたらわざとかもしれない。くすくすと笑いながら災藤は言う。



「今日、あちらで庭に植わった見事な沈丁花の木を見付けてね。思わず見惚れていたらその家のご婦人が、一枝わけてくださったんだ」



それで此処に挿し木をしてみたら、こうなった。



「挿したのは今日ですか?随分大きくなりましたね」

「あちらとこちらでは勝手が違うからね、こういう事もあるんだろう」



おいで、と導かれるままに傍へ行くと、爽やかな甘い香りが胸を満たす。



「沈丁花。日本三大香木のひとつだ。あとの二つは?」

「ええと、梔子と金木犀です」

「その通り」



よく出来ました、とばかりに、災藤は目を眇めて笑う。



「春は沈丁花、夏は梔子、秋は金木犀と言われ、沈丁花は春の訪れを告げる花でもある。三大香木の中でも沈丁花は最も遠くまで香りを届ける。その香りを構成する成分は実に120から150種以上。故に遠く、そして長く香り続ける。主成分であるリナロールは鈴蘭やベルガモット、レモンや薔薇にも含まれ、この爽やかな香りには気分を和らげ落ち着ける効果があり、香水や化粧品にも多く利用されている。また花に含まれるバニフンやウンベリフェロンという成分には炎症や痛みを抑える効能があって、古くから薬草としても親しまれてきた花だ」



流れる川の様に淀みなく、そこまで言って災藤は一旦言葉を切り、手を伸ばして満開に咲いた花の一枝を、ぷつりと手折る。



「花はこの様に枝の先に集中して咲く。満開になると鞠のような姿になり、この見た目の愛らしさも人気のひとつ。そしてこの花びらに見える部分。便宜的にこれは沈丁花の花びらと呼ばれているが、実際には花弁ではなく萼(がく)だ。花びらよりも肉厚で枯れにくいので、沈丁花は花を長く楽しめる事でも人気がある。…沈丁花の花言葉は、教えたかな」

「はい、以前あちらで見かけた時に…栄光、不死、不滅…」

「永遠。…死という概念が存在しない私たちには、似合いの花かもしれないね」



そう言って災藤は手折った花を、清皮のひとつに結わえた後ろ髪に差す。



「…さぁ、もう日も暮れた。夜はまだまだ冷える。帰ろう」



促されて、まだ少し名残惜しいものの大人しく頷いた清皮は、ぽつりと災藤に問うた。



「災藤さん」

「うん?」

「永遠…地獄と言えど、本当に、存在すると思いますか?」

「…どうかな。ない事を確かめるのは簡単だが、ある事を証明するのは難しい」



『永遠』に『終わり』はない。
『永遠』が『永遠』である事を確められるのは、────いるとするならだが────それこそこの世の創世主くらいのものだろう。



「…未来(さき)が怖いのかい」

「…そうかもしれません」



問われて、そう答えれば、ふっと笑う気配がして、温かい腕が肩に伸びてきて、そっと抱き寄せられる。



「今日はいやに感傷的だね。疲れているせいかな」

「疲れ…?いえ、そんな事は」

「一日中机に向かっていただろう」

「え」



知っているよ、とばかりに、薄青が眇められる。根を詰めるつもりはなかったんですけど、と言うと、責めている訳じゃない、と彼は言う。



「心配しなくてもいい。お前はよく頑張っている。あとは、私や肋角の仕事だ」

「あと?」



尋ねると、災藤はふわりと笑って、清皮の頭を撫でた。



「任せなさい」



その笑顔になんだか堪らなくなって、堪らず大きな身体に縋る様に身を寄せる。



「…何処にも行かないでくださいね」

「……」

「何処へでも、何処までも、お供いたしますから」



何も言わずに、ただ静かに背を撫でてくれる大きな手がこんなにも悲しく思える日が来るなんて、思わなかった。

館に帰って、同じ香りの名残を漂わせている事をからかわれても、清皮の心は中々晴れなかった。災藤に挿された沈丁花を髪から抜き取り一輪挿しに活ける。

脳裏には薄闇の中、沈丁花の花と共に、ただひたすらに美しく、そして闇に紛れて何処かへ消えてしまいそうな程に儚い輝きを放つ白銀が焼き付いていた。







花馨る、宵の口に




(20160327)

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